距離
湊「……ごめん。」
湊くんの声は、すぐ近くにあった。
湊「今の、冗談。からかっただけ。」
その言葉を聞いた瞬間、
胸の奥に張りつめていたものが、ふっと緩む。
(……よかった。)
湊くんをちゃんと好きなはずなのに、
どこかで安心していた自分がいる。
——次の瞬間、別の気持ちが、じわじわと湧いてきた。
私、期待に応えられなかったんじゃないかな。
湊くんが「その先」を考えてくれていたのに、
私は途中で止まってしまった。
(がっかり……させた?)
頭の中で、ぐるぐると同じ考えが回る。
嬉しかった。
求められるのも、嫌じゃなかった。
なのに、ちゃんと答えられなかった。
(……泣いたらダメ。)
泣いたら、ズルい。
それじゃ、湊くんを困らせるだけ。
そう思うのに。
安心と不安が、胸の中でぶつかって、
どっちが本当の気持ちなのか分からなくなる。
気づいた時には、
視界がにじんでいた。
私「……っ」
声を出さないように唇を噛んだのに、
涙は、勝手にこぼれた。
(ちがう……)
湊くんが嫌なわけじゃない。
怖いわけでも、拒んでるわけでもない。
ただ——
気持ちが追いつかなかっただけ。
それを、ちゃんと伝えたいのに。
言葉が、ばらばらで、
何から話せばいいのか分からない。
そんな私を見て、
湊くんが、明らかに慌てた。
湊「……ちょ、待って。」
さっきまでの余裕が消えている。
湊「泣かせるつもりじゃなかった。ほんとに。」
何度も、何度も。
湊「ごめん。」
そう言いながら、
私の涙を指で拭ってくれる。
髪が乱れれば、整えてくれて、
背中を、同じリズムで撫でてくれる。
まるで、小さい子をあやすみたいに。
その全部が、優しくて。
(……あ。)
この人、
本気で、私のことを大切にしてくれてる。
なのに私は…
そう思った瞬間、
余計に胸がいっぱいになった。
私「……ちがうの……」
ようやく、声に出せた。
私「嫌じゃ、ないの……」
言葉を選ぼうとすると、また涙が出る。
私「……ただ……」
私「心が……追いつかなくて……」
湊くんは、何も言わずに聞いてくれた。
否定もしないし、急かしもしない。
ただ、
私が落ち着くまで、そこにいてくれる。
湊「……由奈は、悪くない。」
低くて、落ち着いた声。
湊「俺が、ちょっと調子乗っただけ。」
そんな言い方をされると、
余計に申し訳なくなる。
私「……ごめんなさい……」
私がそう言うと、
湊くんは小さく息を吐いた。
湊「謝らなくていい。」
その言い切りが、強くて、優しい。
湊「ちゃんと、準備できた時でいい。」
湊「ちゃんと、思い出になる形で。」
その言葉を聞いて、
胸の奥が、じんわり温かくなった。
(……今日は、無理だったけど。)
(次は……)
(ちゃんと、答えたい。)
そんなことを思っている間に、
涙は、いつの間にか止まっていた。
湊くんは、
私が完全に落ち着くまで、離れなかった。
学校では、クールで、余裕があって、
こんなふうに慌てるタイプじゃないのに。
今は、
私の前でだけ、焦ってる。
それが、なんだか可笑しくて、
でも、すごく嬉しかった。
湊「……送る。」
ドアを開けながら、
当たり前みたいに言う。
外は、まだ暗くなりきっていない。
その背中を見た瞬間、
胸が、きゅっと締まった。
(……ちゃんと、伝わってるのかな。)
私の気持ち。
踏み込めなかった理由も、
それでも好きな気持ちも。
考えるより先に、
袖を掴んでいた。
私「……ありがとう。」
少し迷ってから、そう言った。
湊くんは、一瞬だけ驚いて、
すぐに、いつもの表情に戻る。
湊「どういたしまして。」
余裕のある笑顔と、
落ち着いた声。
駅までの道は、
いつもより距離が近かった。
駅に着いた時、
湊くんが、ぽつりと言った。
湊「……離したくない。」
子供みたいな言い方。
さっきより強く手を握ってくる。
びっくりして、
返事ができないでいると、
湊「……まだ早いし、家まで送らせて。」
私「え……そんなの悪いし……」
私「ここまでで大丈夫だよ?」
そう言うと、
少しだけ困った顔をする。
湊「俺が、もうちょっと一緒にいたいんだけど。」
湊「……嫌だった?」
そんなわけ、ない。
私「……そんなわけ、ない。」
結局、家まで送ってもらうことになった。
家の前で、
「またね」と言おうとした、その時。
蓮「ゆな。」
聞き慣れた声。
振り返ると、
蓮お兄ちゃんが立っていた。
蓮「ちょうどよかった。夕飯のお裾分け。」
ニヤっと蓮お兄ちゃんぽくない笑顔。
「……彼氏くん、大変そうだね。」
意地悪な言い方。
(また湊くんに嫌な思いさせちゃう。)
湊くんが、言い返そうとする前に、
私は慌てて言った。
私「ち、ちょっと待って!」
蓮お兄ちゃんの背中を押して、
半ば強引に家の中へ。
玄関で振り返って、
湊くんに小さく頭を下げる。
私「今日は……ありがとう。」
私「また、明日」
小さく手を振った。
湊「ん」
軽く手をあげて湊くんが答える。
名残惜しそうに、ゆっくりドアが閉まる。
静かな部屋。
今日の出来事が、
一気に押し寄せてくる。
(……反省は、いっぱい。)
でも。
(……次は。)
(ちゃんと、湊くんと向き合いたい。)
そう、心の中で決めた。
——踏み込めなかった夜のあとで、
私の中では、
確かに一歩、前に進んでいた。




