境界線
部屋に由奈を入れた時、正直なところ、
深く考えていたわけじゃなかった。
まだ明るい時間で、
少し休んで、少し話して、
その延長に何があっても不思議じゃない――
それくらい、俺にとっては“自然な流れ”だった。
(……男の部屋に来るって意味、分かってるのかな)
そんな考えがよぎったのも、
お茶を用意して部屋に戻るまでの一瞬だけ。
さっきまで、由奈は嬉しそうだった。
部屋に入った時も、きょろきょろして、
落ち着かないくせに楽しそうで。
なのに。
ソファに座ってる今の由奈は、
明らかに様子が違った。
背筋が少し固くて、
視線の置き場が定まらなくて、
言葉も短い。
(……あ。)
そこで、ようやく気づいた。
今になって、意識し始めたんだ。
俺は普通に隣に座っただけだったけど、
由奈にとっては、
「二人きり」「密室」「距離」
全部が一気に来たんだろう。
その反応が――
正直、可愛かった。
だから、つい。
湊「……もしかして、期待してる?」
冗談めかして、軽い声で。
悪気はなかった。
空気を和ませるつもりだった。
肩に手を回して、少し引き寄せる。
由奈は固まって、
言葉を探すみたいに視線を揺らしている。
(……あー、これは。)
からかいすぎたかも、と思いながらも、
そのまま距離を詰めた。
雰囲気は作れる。
その気になれば、流れは簡単だった。
――でも。
顔を近づけた、その瞬間。
由奈の表情を見て、
全部が止まった。
怯えてるわけじゃない。
拒絶でもない。
ただ、
必死に追いつこうとしている顔だった。
由奈「……わ、私……湊くんとが、付き合うのとか……初めてで……」
言葉の順番がめちゃくちゃで、
何を言いたいのか自分でも分かってなさそうで。
由奈「ちゃんと……できないかもで……
その……嫌じゃ、ないんだけど……」
泣きそうな目で、
それでも逃げないで話そうとしてる。
――ここで、完全に理解した。
(……ああ。)
これは、
勢いで進んじゃいけないやつだ。
湊「……ごめん。」
すぐに距離を戻す。
湊「今の、冗談。
からかっただけ。」
わざと軽く言った。
湊「由奈が可愛かったから、悪ノリした。
嫌だったなら、ほんとごめん。」
由奈が一瞬きょとんとして、
次の瞬間、ぽろっと涙を落とした。
由奈「……ちがう……
嫌じゃない……
ただ……心が、追いつかなくて……」
あ、これはまずい。
完全に慌てた。
湊「ちょ、待って。
泣かせるつもりじゃなかった。」
ソファに座り直して、
小さい子をあやすみたいに抱き寄せる。
背中を撫でて、
頭を軽く押さえて。
湊「ごめん。ほんとごめん。
俺が悪い。」
由奈も、胸元で小さく首を振る。
由奈「……私も、ごめん……
ちゃんと話せなくて……
でも……湊くんのこと、ほんとに好きで……」
その言葉で、胸の奥が静かに締まった。
湊「……うん。分かってる。」
指先で、そっと髪を整える。
湊「由奈は悪くない。
俺が調子乗りすぎただけ。」
少し間を置いて、落ち着いた声で続ける。
湊「……ちゃんと、準備できた時にしよ。
ちゃんと、思い出になる形で。」
由奈の体から力が抜けるのが分かった。
由奈「……うん……」
湊「今日は、このくらいでいい。」
由奈の肩に顎を乗せ、背中をさすりながら、優しく言い切る。
しばらく無言で抱きしめて由奈の泣き止んで息が整うのを待った。
由奈が落ち着いた頃には、窓の外の空が少し暗くなり始めていた。
湊「送る。
夜遅くなる時間じゃないし。」
由奈はまだ少し赤い目で、
でも、ちゃんと頷いた。
(……大事にするって、こういうことか。)
欲がなかったわけじゃない。
でも、それより大事なものが、
はっきり見えただけだった。
ドアを開ける前、
由奈が小さく俺の袖を掴む。
由奈「……ありがとう。」
湊「どういたしまして。」
軽く笑って、
いつもの距離に戻す。
――踏み込まなかった選択は、
間違ってなかった。
そう、ちゃんと思えた。




