名前
放課後の廊下。
まだ人は多くて、
部活の声と笑い声が混ざっている。
隣を歩く篠原くん——
じゃなくて。
(……湊くん)
心の中では、もう何度も呼んでいる名前なのに、
声に出そうとすると、喉の奥で止まる。
学校では、まだ「篠原くん」。
それが暗黙の了解みたいになっていた。
私が黙って歩いているのに気づいたのか、
湊くんが、少しだけ顔をこちらに向ける。
湊「……なに、考えてる?」
私「えっ……な、何でもない。」
視線を逸らす。
絶対、顔赤い。
(今、“湊くん”って呼びそうになったなんて言えない)
歩幅を合わせてくれるのが、
前より自然になっているのが、余計に落ち着かない。
すると、不意に。
湊「……由奈。」
名前を呼ばれただけで、
胸の奥がきゅっと縮む。
私「……なに?」
湊くんは、少しだけ声を落とした。
湊「今、俺のこと呼ぼうとしたでしょ。」
心臓が跳ねた。
私「なっ……!?」
湊「顔に出すぎ。」
くすっと笑う、その余裕がずるい。
私「……だって……ここ、学校だし……」
湊「うん。」
それだけ言って、
一歩、距離を詰めてくる。
肩が触れそうで触れない。
その距離で、囁く。
湊「じゃあ、練習しよ。」
私「……え?」
湊「二人の時だけでいいから。」
視線が絡む。
逃げ場がない。
私「……む、無理……」
声が自然と小さくなる。
湊「大丈夫。ほら。」
急かさない、低い声。
湊「俺しか聞いてない。」
胸がどきどきして、
息を吸っても足りない。
……小さく。
私「……み、湊……くん。」
湊「湊。」
ん?という顔で、静かに促してくる。
私「……湊。」
一瞬、時間が止まった。
湊の目が、ほんの少しだけ見開いて、
次の瞬間、困ったみたいに笑った。
湊「……反則。」
私「え……?」
湊「その呼び方、慣れるまで時間かかる。」
自分で催促しておいて、目を逸らす湊くん。
でも離れない。
むしろ、少し近い。
湊「……その顔さ。」
低い声で、はっきり。
湊「俺にしか見せないでね。」
その一言で、
胸の奥がふわっと温かくなる。
私「……ずるい……」
湊「お互い様。」
何でもない放課後。
名前を呼んだだけ。
なのに——
世界が、また少し近づいた気がした。




