もう奪われたくない
御影蓮の手からテストを受け取った瞬間、
胸の奥で張りつめていた何かがようやく静かに落ち着いた。
満点。
これで文句は言わせない。
蓮の視線には、わずかだけど確かに“認める色”が灯っていて、
それが妙に嬉しかった。
これで今日までの教育実習が終われば、由奈とまた一緒に過ごせる。
今日は一緒に帰ろう…
そんな事を考えていた時だった。
廊下を歩く御影蓮の視線が、ふと右側へ逸れる。
その変化に気づいて、つられて俺もそちらを見た。
……そこにいたのは、
泣きそうな目で御影蓮を見上げる由奈。
蓮の口がゆっくり動く。
「……ゆな?」
その声があまりに優しくて、
胸の奥が重く沈んだ。
呼びかける前に足が動いた。
理由なんて、後回しでいい。
約束も、試練も、全部後でいい。
今、泣いてる由奈のところに行くのが、
俺が真っ先にすべきことだった。
御影蓮の横に並ぶと、涙をにじませた由奈が小さく震えていた。
「……湊くんが……ずっと遠いの……」
「話しても、避けられてるみたいで……」
「……一緒に帰れないって言われて……」
言葉が途切れるたび、喉が締めつけられる。
(……ごめん。全部俺のせいだ。)
御影蓮は子供をあやすように、由奈を引き寄せ頭を撫でている。
急り、二人の前まで駆けつけた俺は静かに言った。
「御影先生……もう、いいですよね。」
御影蓮の目がわずかに細くなる。
すぐには返事をしなかった。
俺と由奈を交互に見る。
その視線の奥には、敵意ではなく、
“ゆなを守る者の判断”があった。
数秒の沈黙のあと、蓮が息を落とした。
「……湊くん。」
俺は一歩前に出て、由奈の涙に触れる距離まで寄る。
「由奈。……ごめん。」
触れたら壊れそうな肩。
泣き顔ごと抱きしめたかった。
でもまずは、言葉でちゃんと伝えた。
「距離置いてたのは……由奈を嫌いになったからじゃない。
むしろ逆。
大切にしたいからこそ、この人に認めてもらいたかった。」
由奈の肩が小さく揺れる。
「……私のために……?」
「そうだよ。」
声が自然に柔らかくなる。
「本当ごめん…認めてもらいたいなんてって俺のワガママ…」
由奈が涙を拭いながら、小さく首を振る。
「違う……ただ……理由がわからなくて……怖かったの……」
その言葉が胸に深く刺さる。
抱きしめたい。
もう二度と泣かせたくない。
けれど蓮がすぐ横に立っているからこそ、
姿勢を崩さず、真正面から言った。
「蓮さん。
俺、由奈のこと……人生で一番大事です。
守りたいし、幸せにしたい。
だからもう、距離を置くなんてことしたくありません。」
御影蓮は一度だけ目を閉じ、そのまま息を吐いた。
「……やるね。湊くん。」
穏やかな声だった。
「満点は正直、驚いたよ。
本気だという証拠は……充分見せてもらった。」
御影蓮の視線が静かに由奈へ移る。
「ゆな。……泣かせてごめん。」
由奈は慌てて首を振る。
「ちが……ちがうの……」
蓮は微笑んだ。
「由奈…幸せにしてもらうんだよ」
その言葉に、
俺の胸が熱くなる。
由奈がゆっくりと一歩近づいてきて、
ためらう指先ごと引き寄せた。
抱きしめた瞬間、
胸の奥がずっと欠けていた場所に温度が戻る。
由奈が小さく囁く。
「……ずっと、不安だった……」
「俺も。」
ぎゅっと強く抱き寄せる。
「もう絶対に離れない。
もうこんな思いさせない。」
由奈の肩の震えが、やっと収まっていく。
そんな俺たちを見て、
御影蓮が優しく、しかし鋭い声で告げた。
「——今回は認めるよ。」
ほんの一瞬の間。
「でも、湊くん。」
「……はい。」
「ゆなを泣かせたら、その時は本気で止めに入る。
全力でね。」
それは脅しではなく、
“大人の宣言”だった。
俺は逃げずに頷く。
「……はい。」
蓮は満足そうに微笑み、
静かに背を向けて歩き去る。
残された廊下には、
夕方の光と、由奈の体温だけ。
由奈が小さく顔を上げる。
「……帰る?」
「もちろん。」
手を繋いだ瞬間、
距離が一気にゼロになる。
帰り道。
何気ない会話だけで胸が満たされていく。
すれ違った数日分の寂しさが、
指先の温度で溶けていくようだった。
——やっと、隣に戻ってきた。




