カケル2ミリ
放課後。
展示会場の照明が半分だけ落ちていた。
窓の外の空は、群青に変わる途中。
スマホの通知。
|少し、時間ある?|
篠原くんの名前。
(どうして、今…)
返事を打つ指が止まる。
返したら、行くことになる。
でも——返さなかったら、きっと後悔する。
送信。
|……はい|
準備室へ続く廊下。
誰もいない。蛍光灯の音だけが遠くで鳴ってる。
扉の向こうに、彼の影。
ガラス越しに見える姿が、少しだけ揺れた。
私「……どうしたの?」
声が小さくなる。
喉の奥が、少しだけ乾いた。
篠原「話がしたくて」
篠原くんの声は静かで、どこか決意みたいなものがあった。
息を吸うたび、胸の奥が少しだけざわつく。
私「文化祭の確認?」
違う、と首を振る仕草。
その瞬間、空気の層が変わった気がした。
——確認なら、俺の気持ちの方。
その言葉で、時間が止まる。
目を逸らそうとしても、逸らせなかった。
私「……ごめん」
やっと出た声は、弱くて頼りなかった。
私「私、そういうの、わかんない。迷惑かけるだけで」
自分で言いながら、胸の奥が痛んだ。
(逃げてる。わかってるのに)
篠原「迷惑なんて思ってない」
その一言が、まっすぐ届いた。
冷たかった空気が、少しだけ温かくなる。
篠原「むしろ、助けられてばっかり」
(そんなことないのに)
息を飲む音が、自分のものか彼のものかわからなかった。
——俺、佐伯が好きだよ。
胸の奥が、ぐしゃっと音を立てた気がした。
息を吸うのを忘れる。
心臓が“ぴた”を忘れて跳ねた。
私「……どうして」
精一杯の抵抗だった。
それでも、理由を聞くのは卑怯だと自分でも思う。
篠原「俺もわからない。でも、好きなんだと思う」
(そんなふうに言われたら、もうどうしたらいいの)
俯いて、指を重ねる。
私「私なんかじゃ、だめだよ」
声が震えた。
篠原「“なんか”って言葉、禁止」
その瞬間、視界の端がにじむ。
篠原「周りとか、誰が何言うとか、関係ない」
(ほんとに、そう思ってくれてるの?)
怖くて聞けない。
篠原「俺が好きになったのは、佐伯だから」
名前を呼ばれた音が、やけに鮮明で。
体の奥まで届いて、動けなくなった。
私「……怖いよ」
それだけが、精一杯だった。
篠原「うん。知ってる。俺もだから」
少し近づいた気配。
(また、距離が……カケル2ミリ)
篠原「でも、逃げない。もう二度と」
その声に、迷いが一つもなかった。
だから余計に、怖くなる。
私「私、どうしていいか……」
篠原「何も考えなくていい」
たぶんもう逃げれない。
篠原「俺を好きかどうか——それだけ、考えて」
息が、止まる。
視界の中で、世界が少しずつ遠くなっていく。
それでも、彼の声だけは近くにあった。
篠原くんのまっすぐな言葉と瞳に嘘が言えなくて
私「……好き」
それは、ほとんど無意識に出た。
頭で考えるより先に、心が言葉を押した。
静かな“ぴた”が鳴る。
空気の隙間がなくなる。
——俺の方が、だけどね。
その言葉と一緒に、彼の指先が髪に触れる。
そっと、輪郭をなぞられる。
それが不思議と怖くなかった。
ぽん、と頭の上で小さな音。
篠原「ありがとう」
その声が優しくて、泣きそうになる。
私「こちらこそ…です」
どうにか笑おうとして、俯いた。
(焦らない。でも、もう離れない)
空が、群青から夜に変わっていく。
教室の電気がひとつ消えた。
篠原「できれば抱きしめてもいいですか?」
私「できれば確認しないでほしいです」
恥ずかしいのに、拒絶なんてできるはずもなくて。
これしか、答えが見つからなかった。
次の瞬間、腕の中の温度で、全部——現実なんだって理解した。
彼の胸に顔をうずめる。
心臓の音が、どちらのものかわからない。
“ぴた”が鳴った。
昨日と同じ音。
でも、昨日までとは違う意味で。
ガラス越しの夜が、静かに深くなる。
抱きしめられたまま、世界が少しずつ沈んでいった。




