6話 顛末融合回・後
向かい合ったままの姿勢で、私は言葉を失っていた。
ニリィガさんが、目から外した緑色の硝子を私に渡した。
薄い凸型の小さな緑色の硝子。
「こんなの目にいれて、痛くないの?」
「慣れるまでは痛かったけど。今訊くの、それ?」
申し訳なさそうにしてた顔に、苦笑が浮かぶ。
「色々、訊きたいけど、いいの?」
さっきより腕に力が入ってる。
「いや」
あれ?ニリィガさんって、こんな駄々っ子だったっけ?
「話をしても?」
私を抱きしめているけれど、視線を合わせようとしない。
「……訊きたいんでしょ?」
と、悪戯がばれた子供みたいな投げ遣りな口調。
「話したくないの?」
「うん、まだ、どう話していいか分からない」
「じゃあ、一つ……二つだけ訊かせて。一つめ、貴方はアイテール君?」
言葉にはせずに、小さく頷く。
「貴方は、私の事が好きなの?」
「勿論」
即答し、より一層、私を抱き締める。
「いつか」ちゃんと訊かせてくれるよね?そう言いたかったのに、噛みつく勢いで降ってきた接吻に負けて、言うことは出来なかった。
いつも以上に攻撃的な口付け。
頭をしっかりと押さえ込まれ、私の力では動かせない、けど、このままじゃ埒が明かない!
思いきって形勢を立て直す。
「いい加減、起きませんか?」
ニリィガさんが、ゆるゆると私の体から手を離す。
「シャワーでも浴びて、目覚めてくださいな」
そう言うと、ニリィガさんはベッドに座ったまま、立っている私の腰に抱きついてくる。
「私が逃げ出すとでも?そんなに信用無い?」
「マーリアは逃げないけど。ボクが…臆病なだけ」
まるで叱られた子供だ。
ニリィガさんの旋毛を見ながらそう思う。
「ねえ?私は貴方の事を何と呼べばいいのかしら?」
「…ニリィガと。さんは要らない」
「分かった」
そう言ったまま、私のお腹に顔を埋めている。
何だろう、“アイテール君”に吐かれた嘘より、“ニリィガ”への愛しさが募って……頬が緩む。
「……私が洗ってあげましょうか?」
そう言った私に、彼は一瞬驚いたように瞬きし、それから無言で手を取り立ち上がった。
バスルームの中で、泡立てた指先を髪にくぐらせる。
泡が混ざると、染料が溶け出し、淡く金色を帯びた髪が覗く。
「……こんな色だったね」
懐かしい、金の房。
「…見ないで」
「見るわよ」
小さく笑って、私は丁寧に泡を流す。
偽りの色が流れ落ちるたび、頬の温度が上がっていく気がした。
幼い頃の面影だけを残した青年が現れる。
濡れている髪に、指をくぐらす。
「アイテール君……」
彼は、私のその手を自分の頬に当てると、自分の手で覆い懐かしむように瞼を閉じた。
「ごめんね」
その謝罪は、待たせたこと?
騙したこと?
「もう、嘘はない?」
「嘘は…ない。話してないことなら有るけど」
「嘘がなければ良いよ。いつか、話してくれるよね?」
頷くでもなく、言い訳するでもなく、ただ私を捕らえた蒼い瞳は、困惑を秘めているように揺らいでいる。
「だからもう、自分を傷付けないで」
朝からの拗ねたような行為は、私を追い詰めることで、自分を傷付けようとしているのだと感じた。
だからこそ私は、逆らわず身を任せていた。
彼は見開いた眼を静かに伏せ、大きな溜め息をつくと、糸が切れたように私の肩に頭を乗せた。
「適わないな…」
「取り敢えず、髪を拭こう」
テーブルの椅子を引いて、座ってもらう。
彼の肩にかかったタオルを取り、髪を拭く。
前よりちょっと固くなったかな?
子供の時はこんな風に触ったことはないけど。
「なに?思い出し笑い?」
彼は、私の腕を取って、自分の膝に座らせる。
幼い子をだっこするように、私を自分の腕の中で閉じ込め、彼はぽつりぽつりと重い口を開き始めた。
父親の商いはここメルクの街に来る前、──バンドの街で既に巧く行かなくなっていたらしい。
メルクの街へは、事業拡大ではなく一念発起。
どうせやるならメルクリオス家を潰すつもりで来たらしいが、太刀打ち出来ず、潰すつもりがすっかり吸収されてしまった。
プライドが傷ついた父親は立ち直れず、自ら命を断ち逃げた。
それからの彼は、母親の故郷のマルドへ移り、父親の意思を継ぐか、別の道を歩むかで迷いながら、贅沢に慣れた母親の生活のために働いていて、その時にフラウヴァ先生と行ったデツンブロの町で再会した。
「羨慕した。嫉妬よりも羨ましい気持ちが大きくて妬ましかった。ボクの場所に他人がいる」
デツンブロの町で、絵を描いていた師匠と出逢って、母親が身罷り、絵で糊口を凌ごうとしたらしい。
「商売では自分に向いてないって、思ったんだ。偶然にも描く才を見出だして貰ったから」
風の噂で私が美術館に勤めた事を知ったのも決心を後押ししたと。
「で?何故、変装?」
それまで、淡々と話していた口はつぐみ、目が泳ぎ、なぜか指は私の髪を弄り出す。
「言いたくないの?」
「…いや、言う。今を逃すと、無理」
けれど、彼の口は重い。
「あのね、」と、漸く語り始める。
父親は、本当に《《王国》》を目指していたらしい。
自分がこの世の中を動かす人物を夢見ていて。
シャマシュ家は、アイテール君が産まれて暫くは、──少なくともバンドの街での商いは、巧くいっていた。
「テルルの嵐」で、メルクリオス家に、他の街の商家に、出遅れて、テルルの町の信用を得られなかった事が打撃となった。
私達が五つの時か。
それからのシャマシュ家は勢いを失い……とはいえ、標準的生活は保てるのだから、それ以上の贅沢をしなければいいだけなんだけど……贅沢に慣れたシャマシュ家は、メルクリオス家を羨むことでプライドを保っていたらしい。
逆恨みだ。
夢を棄てきれなかった父親から、呪いのように王子様と聞かされていたときに私に出逢ったと。
ニリィガは私の胸に顔を埋め、上げようとしない。
「過去が恥ずかしかったんだ」
のそのそと視線をあげるその顔は真っ赤だ。
“ニリィガさん”と出逢った時を思い出した。
「それで、瞳の色まで変えて変装?」
「君に会わす顔が無くて、でも君の傍に居たくて…それで…苦肉の策で…」
「“ニリィガさん”が他人のようだったのは?」
「初めて入れた硝子が痛くて……見えてなかった」
成程ね、合点がいったわ。
「私の事を想って、と言うことで良いのかしら?」
今度は食い気味に頷く。
「後、言い残したことはあって?」
「愛してる」
「ずっと、ずっと愛してる」
蒼い瞳が、私を瞬ぎもせず魅入る。
彼の腕に深く入り込み、耳許に口を寄せた。
「ずっと、ずっと待ってた」
消えるような声で伝えると、引き寄せて唇を落とそうとする彼を遮り、
「でも今日は、もう帰る」
と言い放ち、名残惜しそうなその手を振り払った。
「今度こそ、ちゃんと結婚しよう」
ニリィガの言葉に涙ぐみそうになる。
「約束だよ」
それだけ言って家路についた。
後日、滞りなく婚約を済ませ“あの”指輪を貰った。
蒼い石のはめられた、指輪。
彼が瞳に入れていた緑色の硝子は、何故か私の手に有り、蒼い石に重ねると藍緑色と変わるのを眺めていた。
藍緑色―――青緑………
影が落ちるように、不安に刈られる。
七日後に結婚式を控えたその日、影は現実となり、私の前に現れた。
私は二十才になっていた。




