第1話:私は本当に、そんなに悪かったんですか?
処刑前夜。
私は自分の名前も過去も知らずに、牢の中で天井を見上げていた。
手首には鉄の枷。足元には冷たい石床。
それでも不思議と涙は出なかった。
怖かったけれど、悲しいという感情が湧いてこなかったのは、
やっぱり“実感”がないからなのだろう。
「……あの人、誰だったんだろう」
あの冷たい瞳の青年。
名前も肩書きも聞けなかったけれど、
まるで私のことを深く知っているような口ぶりだった。
「“アメリア・ヴェルンシュタイン”……私の名前なんだよね。たぶん」
口に出してみると、どこかしっくりくる気もする。
けれど、心の奥がざらつく。
(この名前、好きじゃない……)
そんなことを思っていたら、扉が音を立てて開いた。
現れたのは、小柄な侍女風の少女だった。
緊張した面持ちで、お盆を手にしている。
「失礼いたします、アメリア様。お食事をお持ちしました」
「……ありがとう」
思わず口に出たその言葉に、彼女は目を丸くした。
「……お礼……ですか?」
「あ……うん。お腹すいてたから、嬉しい……」
彼女はぎこちなくお盆を置き、ふと私の顔をまじまじと見つめた。
「アメリア様。失礼ながら……どこか、お変わりになられたような……」
「……私、記憶を失ってるの。自分が何をしてきたのかも、覚えてないの」
そう正直に言うと、彼女は一瞬、肩を強張らせた。
でも次の瞬間、ぽつりとつぶやいた。
「……もしそれが本当だとしても。今のあなたは──前とは違います」
「前……?」
「はい。以前のアメリア様は、こんなふうに侍女に話しかけたりなさらなかった。
目も合わせず、命令口調で……正直、怖かったです」
「……そう……だったんだ……」
「でも今のあなたは、笑ったり、困った顔をされたり……人間らしい、というか……」
彼女の頬がほんのり赤くなる。
「……私は今のあなたの方が、ずっと素敵だと思います」
その言葉に、胸の奥がじんとした。
(私は……人から恐れられていた? でも、今は……)
「名前、教えてくれる?」
「はい! 私、リリーナと申します!」
彼女の笑顔が、少しだけこの牢の空気を温かくした。
記憶を失って、私はすべてをなくしたけれど──
それでも、「今の私」を見てくれる人が、確かにここにいた。
その日の夜遅く、再びあの黒髪の青年が現れた。
「処刑の件について、王子殿下が見直しを検討している」
「……!」
「“今の君”は、本当に罪を犯したのか。
記憶を失ったことで、別人になったのではないか……と、言い出した者がいてな」
「それって……あなた?」
青年は答えず、黙って鍵を回す。
牢の扉が開いた。
「明朝、審問が行われる。王子の前で、すべてを話すことになる」
「話すって言っても……私は、自分が何をしたか分からない」
「だが、“今の君”の振る舞いこそが、すべての証明になるかもしれない」
私は立ち上がった。震える足で、でも確かな意志を込めて。
「だったら、ちゃんと向き合いたい。私が誰だったのかを知るためにも──」
「……名乗ろう」
彼が背を向ける前に、ふと立ち止まり、振り返る。
「リオン・グレイス。王国騎士団副団長にして、かつて君の護衛騎士だった者だ」
「リオン……さん……」
彼は私をまっすぐに見つめた。
「君が本当に“悪”だったのか。俺は、確かめたいと思っている」
こうして私は、処刑前夜に“物語の第一歩”を踏み出した。
記憶がないからこそ、やり直せる。
でも記憶がなくても、きっと“本当の私”は、ここにある。
──第2話へ続く。