プロローグ:処刑前夜、目覚めた私にはすべてがなかった
「……ここ、は……?」
石造りの天井。冷たい空気。鉄のにおい。
私は、見知らぬ場所で目を覚ました。
身体が重い。思考がうまく回らない。
そして──
「……誰?」
自分の名前が、出てこなかった。
頭を抱えて起き上がろうとしたそのとき、扉が開いた。
黒髪の青年が、静かな足音で入ってくる。
その顔は整っていて、どこか気品があった。だが目は、まるで氷のように冷たい。
「目が覚めたか。“アメリア・ヴェルンシュタイン”」
アメリア? それが私の名前?
「……すみません、その……私……」
混乱して言葉を探している私に、彼は言い放った。
「君は明日、処刑される。
王宮に混乱をもたらした罪によって──自ら選んだ当然の結末だ」
……え?
「処刑……って……」
「記憶喪失を装うとは。最期のあがき、か?」
違う。本当に知らないの。
何も思い出せない。けれど、怖い。怖くて、心がきゅっと縮こまる。
だけど──この人の目は、ほんの少しだけ、私を見て……迷っていた。
まるで“私が、私じゃない”ように見えているかのように。
「本当に……何も覚えてないの……?」
私は震える声で問いかけた。
彼は黙って、私を見下ろしていた。
そして、こう呟いた。
「……もし、君が“今のままの君”だったなら──
私は……その処刑を、止めたかもしれない」
その言葉が、私の心に小さく火を灯した。
私は──何をしたの?
私は──誰なの?
答えのない問いを抱えて、私は処刑前夜を生き延びることになった。
……けれど、それは始まりにすぎなかった。
私が“何も知らない”ことで、すべてが変わり始めるなんて。
このときの私は、まだ知らなかった──