ひとりぼっちのあいつ
僕は市立図書館でボランティアをしたことがある。大学生の時だった。
『大学生のうちにしておくべきこと』という本の中で、「一つぐらいボランティアをしてみる」と書いてあった。その真意が何だったか、今となっては思い出せないが、人のために尽くす無償の喜び、偽善でもいいから自己満足に浸る、ということを感じろということだったのだろう。
当時僕は大学とバイト先と自宅の往復で、刺激のない怠惰な生活を送り、暇な時間は寝てばかりいた。おまけに部活やサークルをしていなかったから、友達も少なかったし、同じような趣味を持つ友達となると皆無だった。音楽や小説が好きだったから図書館を通して類が友を呼び、友達が出来るかと期待していた。
また大学では、地域のボランティアについて学んでいたのに、何もしていない自分に矛盾を感じていた。大学の掲示板でこの募集を知り、僕は短期間、市の図書館でボランティアをすることになった。
担当したのは視聴覚コーナーだった。仕事内容は市民にCD,ビデオを貸出し、また返却を受け、それを元の場所に戻す、という単調な作業だった。マイナーなCD、ビデオが無制限借り放題という特典以外には、当然のように無償で、なぜ行き場のない無礼な貧乏人達の相手をしなくてはいけないのかと、つくづくボランティアという魔物に幻滅していた。
二月には後期末の試験も終わり、春休みが始まっていたので、図書館が開く朝九時から僕は入れられた。平日の午前中は人があまり来ないので小説を読みながら一人で番をしていた。
その日始めて入ってきたのは、高校の制服を着た女の子だった。学校が遅れて始まるのか、それとも今日は休みなのかと不思議に思った。彼女はCDの棚を舐めまわすようにじっと眺め、時間を掛けて何枚かCDを選出し、カウンターまで来た。
「これ聴きたいんですけど」
「館内の試聴でいいですか?」
「じゃあ、それで」
ショートカットの髪で可愛らしい童顔なのに、ぶっきらぼうな返答だった。
「図書カードはお持ちですか」
「持ってないんですけど」
「じゃあこちらの用紙にお名前と電話番号をお書き下さい」
彼女は素早く名前と電話番号を書いたが、少し迷って、電話番号を横線で消し、違う番号を書いた。
「一番の機械でお聞き下さい」
CDを機械に通して貸出札と一緒に彼女に手渡すと、彼女はそそくさと機械の方に向かった。受け取った用紙には横山佳世と書いてあった。名前も電話番号も本物かどうか分からなかった。彼女の方を眺めると、椅子に浅く腰掛け、肘を机につきながらヘッドフォンに手をあて、頭や足でリズムをとっていた。子供が飴を口の中にしまい込んでいるような楽しそうなリズムだった。
二時間程すると彼女はCDを返し、どこかへ消えた。
それから、彼女は続けて三日間現れた。しかも決まって開館して一番最初にである。さすがにこれはおかしいと感じた。おそらく制服のまま来るということは、学校を休んで、そのままこっちに来ているのだろう。
彼女はいつものようにCDを選ぶとカウンターに来た。彼女とはすっかり顔馴染みになっていた。
「これお願いします」
彼女に向かって何か言ってやりたかったが、ヘタに説教とでも思われたら、つまらない大人と一緒だと思われそうだったからやめた。そのまま事務的に作業をしようとすると、彼女の方から話し掛けてきた。
「ビートルズのCDってこれしかないんですか?」
ビートルズという単語に一瞬にして僕の中に親近感が芽生えた。彼女が差し出したのは『ウィズ・ザ・ビートルズ』だった。
「ビートルズのCDとか人気のあるCDは盗まれちゃったり、貸し出ししたまま返って来なかったりして、ビートルズはこれしかないんですよ。もし聴きたいのなら、上の人に頼んで取り寄せて貰いましょうか?」
大好きなビートルズのことだったので僕は思わず冗舌になってしまった。
「そうですか。じゃあ取り寄せて下さい」
彼女も少し頬笑んだ。
「取り寄せるのには結構時間が掛かるから、もし良かったらレコード聴いてみます?それなら何枚かあるんだけど」
僕と彼女は今では殆ど人の近寄らないレコードの棚に向かった。日が当たらないカビ臭い場所だった。
「ビートルズはこの三枚だけなんだけど」
「じゃあ、これとこれと…。他にお薦めのミュージシャンとかはないんですか?」
僕の親切心が伝わったのか、彼女は僕に気を許して、頼ってくれた。僕は恥ずかしさを感じた。
「えっと…、サイモンとガーファンクルは?お薦めだよ」
しかし、いざレコードを聴こうとすると、レコードの機械の動かし方に僕等は四苦八苦した。僕自身もレコードを実際に聴くのは初めてだった。二人でああでもない、こうでもないと機械を動かし、漸くレコードから音が洩れた。
「あ、この曲聴いたことがある」
彼女はやっと音がでたことと、自分の知っていた曲が流れたこととで、相乗して感動したみたいだった。
「なんだか、昔の方が、音の価値って高かった気がしますね」
僕は、そうだね、と笑った。面白いことを言えるコだなと思った。
「『卒業』って映画知ってる?」
「あ、聞いたことある」
「それの主題歌なんだよ」
彼女は、へぇー、と言って頭を細かく上下させた。触れただけで崩れるガラスのような出だしに始まり、ドラムとベースが加わるその後は、若者が苦悩に藻掻くようなイメージを連想させる曲だった。
僕が業務に戻っている間、彼女はレコードとCDを聞き続けていた。それから二時間程して、いつものように彼女はレコード、CDを返しに来た。
「このCDいいですね。聞いてると元気が出てくる」
「『ウィズ・ザ・ビートルズ』か。ビートルズ初心者はわりと前期の曲が好きな傾向があるんだろうね」
「あたし、赤番なら持ってるんですよ。いいですよね、ビートルズ」
彼女となら気が合いそうだった。彼女の奥に食い込んで、もっと親しくなれる気がした。
「いつもここによく来てるけど、学校は休みなの?」
言った後に、彼女の機嫌を損ねてしまうかと懸念した。しかし、彼女は笑顔だった。
「行ってないんですよ。サボちゃって」
「あ、そうなんだ」
やっぱりな、と思った後、僕は閉口してしまった。彼女のその理由は聞けないし、気の利いた話題が思い浮かばなかった。
「お昼とかはどうしてるの?」
時計を見て、ふと口から飛び出た。
「お弁当をお母さんが作ってくれてるから、ここで食べたり、公園に行ったりして食べてるんですよ」
「そうなんだ。良かったら一緒に食べない?俺今日午前中で終わりなんだ」
「もちろん、いいですよ」
迷惑そうな顔一つせず、彼女は返事をした。
僕等は館内のちょっとした休憩スポットに向かった。カラのテーブルが3つ並んでいて、僕等は一番奥の窓際の席に相対した。彼女は手作りのお弁当で、僕はコンビニのパンだった。僕は紅茶を自販機で買ってきて、一本を彼女に渡した。
「一日中図書館で過ごすの?」
「そういう日もありますね。図書館は本とかCDとか映画とかで知的欲求を満たしてくれるから飽きないし、お金もかからないから。図書館に飽きたらデパートとかカラオケ行ったりしますね」
「カラオケって誰と?」
「一人でですよ」
彼女は僕と同じ匂いがした。
「学校側は何も言わないの?」
「義務教育とは違いますからね」
「親は知ってるの?」
「いや、知りませんよ。朝は普通に家を出て学校に行ってると思ってます。家を出る時には親はまだ家の中にいるから、出ていかないと怪しまれるんですよ」
「だから朝一でここに来る訳だ」
「そうなんですよ。それでもまだ開館まで時間あるから、コンビニに寄ったりしてるんですけどね」
彼女は自身の身の上を話したが、何故学校に行っていないのかという核心はどうしても触れられなかった。
「最近は『ティファニーで朝食を』っていう映画を観たんですよ」
「女の子はあの映画好きだよね」
「結構いい映画でしたよ」
彼女が笑顔になると両頬にえくぼが出来て、とても可愛らしく見えた。
彼女とは同じ趣味の話が面白いようにできた。僕は誰にも知られていない、自分だけの宝物を見つけたような気分だった。
次の日も彼女は来て、休日と休館日を挟んで、また彼女は来た。そして試聴するCDの中には必ず『ウィズ・ザ・ビートルズ』があった。
「あたし、この曲聞くのが楽しみなんですよね。これを聞くと一日が始まるって気がする」
暫くはそんな生活が何週間か続いた。僕も彼女に会うのが楽しみだったし、同じ趣味について語れる彼女と話すのは楽しかった。何度かお昼も一緒に食べたりして、僕等はとても仲良くなっていった。
「大学生って、結構遊んでるイメージがあったけど、どうなんですか?」
「遊んでるやつは、それこそ夜通し遊んでるみたいだけど、俺全然友達いないから、遊ばないね。ずっと部屋に引き籠もってるよ」
「そうなんですか」
「やっぱり、サークルとか入ってないと、大学は高校とは違ってクラス体系じゃないからね」
「でも、大丈夫ですよ。私達もう友達じゃないですか」
彼女が笑顔になった時に、頬骨の筋肉が少し窪むのが素敵だった。
「そう?じゃあ友達だね」
彼女の真意は読めなかったが、嬉しかった。僕の一方的な思い込みでも、このまま彼女と過ごせれば、どれだけ楽しいだろうか。
しかし、段々僕は不安になった。僕の高校時代にも何人かいた。最初は、休みがちになり、それが長い期間続く。そして、そいつの存在を忘れかけた頃に担任が言葉を濁しながら、○○さんは本人の都合により中退することになったけど、これからも友達として付き合ってあげて欲しい、と発表するのである。彼女がそうなってしまうのを僕は恐れた。彼女のことが好きだったから彼女の身を案じたのだ。彼女はこのままではダメになる。ビートルズのCDがここにあるからダメになる。
9時を過ぎて館が開き、いつものように彼女はやって来た。
「こんにちは」
彼女は笑顔で入ってきたが、僕は伏せ目で頷いただけだった。彼女はいつものようにCDを眺めながら、何枚か選出し『ウィズ・ザ・ビートルズ』と一緒にカウンターに持ってきた。
「今日は元気ないですね」
CDを差し出しながら彼女はそうはしゃいだ。僕の心はモヤモヤと緊張が蔓延っていた。
「体調でも崩したんですか?」
「いや、そうじゃないんだけどさ」
僕はこれを言えば彼女との関係が終わってしまう予感がした。それでも彼女のことを愛していたから言った。
「行きなよ、学校」
彼女は表情をがらりと変え、唖然として僕の目を見詰めた。そんな彼女を見て僕も言葉を失い、彼女から視線を外した。タートルネックを来て黒い影に包まれたメンバーが並ぶ『ウィズ・ザ・ビートルズ』のジャケットが目についた。
「これ、やるから」
そう言って僕はこのCDを手に取り彼女の前に出した。
「これ、やるから、学校行きなよ」
僕は再び彼女に視線を合わせたが、瞳を潤ませ、助けを請うような眼差しをしていた。
「ほら、餞別として、受け取りなよ。これもう古くて、たまに音飛びするし、処分する予定だったんだ。それにビートルズの全アルバム購入して貰うことになったからさ」
彼女は何も言わずに僕をじっと見ていた。僕まで目が潤んできて苦しくなった。子供のように無言で何かを訴えようとする彼女を見るといたたまれなくなって、彼女を抱きしめてやりたい衝動に駆られた。彼女が僕を愛しているという確証さえあれば、強く抱きしめて慰めてあげられる気がした。しかし、愛は目に見えるものではなかった。
暫く彼女と見つめ合うと、彼女は視線を落とし、CDを受け取った。
「今からでも遅くないかな」
彼女は歯を食いしばって必死に笑顔を作ろうとしていた。
「もちろん!遅すぎることはないよ」
僕も負けじと声を張った。
それから彼女は姿を見せなくり、僕もボランティアの期間が終了すると図書館を離れた。
僕はまたひとりぼっちに戻ったが、きっと彼女は学校に戻って、友達が出来たと信じている。
君はまだ、ビートルズを聴いているかい。
(完)