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31代 田中義一内閣

張作霖爆殺事件については、末尾の論文を参考にしました。

田中義一の一人称は「オラ」だったそうです。元祖クレヨンしんちゃんですね。

田中義一のエピソードとされているものとして面白いのが、政友会総裁として遊説中に話しかけてきた人物に親父さんは元気でやってるかねと投げかけたやつです。言われた方はおかげさまでと答えて話は終わりましたが、田中の側近が話しかけてきた人物との関係を聞いたところ、全く知らない人間だと田中は答えたとのこと。どんな人間だって親父はいるだろうとのことで、田中は身内への気遣いを見せたということでした。これ、田中は田中でも角栄のほうのエピソードじゃないかって思うのですが・・・。ウィキペディアの記事ですが、出典がないので、真偽不明なんですよね。まあ、どっちも貧困家庭から総理にまで上り詰めた人物ですし、人心掌握術が似ていたとしてもおかしくはないのか・・・。

いわゆる天皇の戦争責任論の文脈で語られるのが、二・二六事件のときの「朕自ら近衛師団を率いて」のくだりと、この田中義一叱責からの内閣総辞職。拙作では、田中内閣総辞職に至る流れを少し変化させてみました。



白石博司「張作霖爆殺事件―河本大作関東軍高級参謀の真意」『戦史研究年報』第6号(防衛研究所、2003年)

31代 田中義一内閣(2587(昭和2・1927)年6月3日~2587(昭和2・1927)年4月25日)

▽来歴・概要

 皇紀2524(西暦1864)年7月25日(元治元年6月22日)、萩藩士・田中信祐、みよの三男として、長門国阿武郡萩(現在の山口県萩市)に生まれた。若いころは村役場の職員や小学校の教員を務めた後、20歳で陸軍教導団に入る。

 陸軍教導団で学んだ後、陸軍士官学校(旧8期)、陸軍大学校(8期)を経る。日清戦争に従軍、その後ロシアに留学した。日露戦争では満州軍参謀として総参謀長児玉源太郎のスタッフを務めた。日露戦争後、麻布にあった歩兵第3連隊の連隊長に就任する。

 明治42(1909)年、陸軍軍政の要である陸軍省軍務局軍事課長に就任する。翌年には、在郷軍人会を組織した。同年に少将に進級した田中は、歩兵第3連隊を管轄する歩兵第2旅団長に就任した。明治44(1911)年に陸軍省軍務局長に就任した。明治45(1912)年には時の陸軍大臣である上原勇作中将とともに二個師団増設を強く政府に求め、第2次西園寺内閣を総辞職に追い込んだ。

 大正4(1915)年、中将に進級し参謀次長に就任した。その後、第一次原内閣で陸軍大臣に就任した。在職中には、マスコミの論調を陸軍にとって有利なものにしようと考えた事から、陸軍省内に新聞班を創設した。大正(1918)年、陸軍大臣在職中に、男爵に叙され、陸軍大将に進級した。大正10(1921)年、狭心症に倒れて陸相を辞任後、軍事参議官となり、大事をとっていた。その後、山本権兵衛内閣、高橋是清内閣で陸軍大臣に復帰した。

 大正14(1925)年6月21日、高橋是清率いる政友会が加藤高明率いる憲政会に第17回総選挙で敗れると、高橋は総裁の辞意を表明した。選挙戦の終盤からは、床次竹二郎と横田千之助が後任の総裁の地位を争っていたが、政友会最大に実力者であった原敬の意向が注目された。しかし、原敬は動かず、一切の沈黙を守り続けた。高橋が、床次は経済・財政に通じていないとして、後継指名に難色を示したことが周囲に伝わると、床次はこれに反発し、床次派を引き連れて脱党し、政友本党を発足するに至った。横田も床次との政争の結果、政友会の議席を減らしたがために、後継指名を辞退した。やむなく、外部から総裁を推戴しようということになったが、伊東巳代治、田健治郎、後藤新平と総裁候補に名前が挙がったが、唯一就任に応じたのが田中であった。

 大正14(1925)年6月30日、田中は宇垣陸相と会見して現役退役願を提出(治安警察法第5条により現役軍人は政治結社に加入できないため)し、同年7月1日、予備役に編入された。さらに同日、立憲政友会の第6代総裁に就任し、貴族院の勅撰議員にも任命された。田中義一以前に陸軍出身者で首相の地位に着いたのは、山縣有朋、桂太郎、児玉源太郎の3名がおり、山縣と児玉が現役の陸軍大将で就任したのに対して予備役入りしたのは桂のみであった。

 田中は総裁に就任すると党内融和に乗り出す。田中は自身が総裁になったときに党が分裂したことを重視し、低姿勢で臨んだ。それでも、陸軍関係の党の政策は変更させた。高橋総裁時代に掲げられていた軍部大臣文官化論は政権公約からは除かれることとなったが、これ以外に田中が指揮をとって変更させた政策はない。

 田中は政友会総裁として積極的に議会活動を行った。第55議会において鈴木商店救済・台湾銀行整理を巡る問題が起きたときは、貴族院に於て自ら代表質問に立ち、若槻首相との間に舌戦を繰り広げた。政友会は床次派の離脱で少数党となっていたが、この討論の様子が世論で評価され、野党第一党としての面目を保った。


 昭和2年5月18日、米ウォール・ストリート・ジャーナル誌の台湾銀行破綻目前の記事が世界を駆け巡ると政友会内部が騒がしくなった。高橋是清顧問は、台湾銀行を救済するためには日本銀行からの特別融資が必要となるだろうということを理解していた。震災手形関係二法の審議の際にはそれがわかっており、若槻内閣がいつその法案を提出するのかを計っていた。むしろ、高橋は鈴木商店を計画的に休業させて、台湾銀行救済の法律案を提出すべきと考えていた。鈴木商店のような大企業が倒産すれば、経済的な混乱は大きなものとなるため、政府がイニシアチブをとって軟着陸を目指すべきと考えていた。にもかかわらず、政府の動きは遅く、鈴木商店の休業が実際に起こったことで混乱は大きなものになると高橋は党幹部との会議で主張した。

 枢密院審査委員会が政府提出の勅令案を否決し、若槻内閣が本会議での逆転を狙っているという情報が入った時点で、田中は組閣準備を開始した。枢密院の情勢を考えると若槻内閣の緊急勅令案に賛成するとは思えなかったからである。果たして、その予想は的中して枢密院は若槻内閣の勅令案を否決し、若槻首相は内閣総辞職を決断した。

 政府の救済を受けられなかった台銀は、6月1日に台湾域内を除く内地及び海外の支店を閉めると発表した。特殊銀行であり政府が何らかの救済を行うと見られていたにもかかわらず結局休業してしまったことで全国各地に動揺が走り、取り付け騒ぎは拡大した。同じく1日には関西の大手行である近江銀行が期限を設けた臨時休業に入った。これに泉陽銀行が追随するように休業したほか、東京渡辺銀行、蒲生銀行(滋賀)、葦名銀行(広島)も休業を発表した。2日には、西荏原銀行(岡山)、広島産業銀行が休業、そして6日には東京の大手行であった十五銀行までもが休業した。経済的な混乱が続く中で日銀は休日を返上して非常貸出を続けて現金の供給に努めたが、貸し出し規模が前代未聞の額にのぼり、ついに紙幣の在庫が底をつきかける事態に追い込まれた。

 6月3日、大命降下を受けた田中は事態収拾の為に高橋是清を大蔵大臣に任命し、金融恐慌の解決を図った。高橋は全国でモラトリアム(支払猶予令)を実施すべく憲法第8条の規定による緊急勅令の渙発を枢密院に諮問した。「憲法八条一項ニヨル私法上ノ支払延期及ビ手形ノ保存行為ノ期間延長ニ関スル緊急勅令」は6月6日から6月27日までの3週間、預金の引き出しを500円に制限する内容。枢密院は即日勅令案を可決した。

 高橋は同時に現金の供給に全力を尽くし、造幣の速度を優先して様式を簡素化し裏面の印刷を省略した200円札を急遽制定して520万枚刷らせ、銀行休業日にとどまらず日曜日である5日にも銀行に届けた。銀行は潤沢に供給された現金を店頭に積み、支払いに滞りが生じないことをアピールした。6日(月)から500円以上の支払いを猶予するモラトリアムを施行して銀行を開き、取り付けに来た人は店頭に積まれた現金を見て安心したという。加えて、3週間のモラトリアム期間が終了する6月27日までに追加の200円券を1000万枚刷って銀行に届け、モラトリアム終了後も混乱なく金融恐慌を沈静化させた。

 さらにこの間田中内閣は、臨時議会を召集して、台湾銀行救済の為の日銀特融を実施するための特別法を提出し、スピード可決させた。無事に混乱が収まったのを見届けた高橋は7月2日を以て蔵相を辞任した。

 組閣直後から政友会の党勢は拡大した。憲政会は若槻内閣の総辞職の直後に大量の離党者を出した。加藤高明前首相・幣原喜重郎外相が指揮した対米講和において日本は米国からの賠償金を放棄したが、これに不満を持った選挙民は各地で憲政会選出代議士をつるし上げた。このため、後援会の支持者に突き上げられた議員は憲政会を離党し、政友会に流れた。田中は更に政権基盤を強化するために、犬養毅総裁率いる革新倶楽部に合同を持ち掛け、政友会は革新倶楽部を吸収し、議院の3分の2近くが政友会に合流した。


 幣原外交を覆すというほどではないが、田中は憲政会下での外交方針を転換した。田中は外務大臣に前駐独大使であり、ポツダム講和会議での全権団の一人でもあった本多熊太郎を起用するとともに、対中積極論者の森恪を外務政務次官に起用した。本多は清国公使館勤務を務めたこともあり、ヨーロッパにおける協調路線とは別の外交路線も理解し、同時に森の強硬論を修正できると期待されて就任した。本多は本多で、外交での一人者は幣原という状況にくさびを打ち込もうと考えていた。清国駐在勤務の経験のある自身としては日本の裏庭である中国という存在を意識していた。清朝崩壊後の混乱から脱却しきれていない中国であるが、混乱が収まり力を持つようになると日本が満洲で持つ権益が危うくなると考えていた。

 当時の中国情勢は、孫文死後に内部で混乱する中国国民党、共産主義者が中心となった中国共産党、そして、袁世凱の死後も中華民国中央政府の地位にあった北京政府によって内戦状態にあった。この状態を打破するため、中国国民党の指導者であった蒋介石が北京政府に対して仕掛けたのが、北伐である。北京政府は清国崩壊後の中華民国の中央政府と諸外国からは看做されてはいたもののその支配圏は、北京以北に限定されていた。

 中華民国北京政府の大総統の地位にあった張作霖は満洲地域を根拠地とする北洋軍閥奉天派の首領として中国の統治者にあった。彼は、いわゆる馬賊の頭目の出身であったことから統治能力が疑問視されていた。それでも、日本との関係を重視し、現に満洲の支配者であったことから日本政府も張作霖との関係を重視していた。一方の蒋介石は日本への留学歴や日本陸軍での勤務経験を持つなど親日的な側面を持っており、その経歴が日本政府内でも知られていた。しかしながら、日本政府としては中国の分割状態を維持したほうが都合がよく、中国の統一政権というのを警戒していた。

 ここに入ってきたのがアメリカ合衆国であり、欧州に遅れて中国分割に乗りだしたアメリカが中国で利権を獲得するために現状の打破を意図して、蒋介石に接触した。西太平洋戦争が始まる以前に中国国民党向けに武器を輸出して、戦力を整えさせた。これには欧州大戦で設備投資した軍需産業が、大戦の終結とともに需要が縮小することに対する支援の意味合いもあった。西太平洋戦争がはじまるとアメリカは蒋介石に対して北伐を開始するように促した。この頃の国民党内部では日本や欧州列強が持つ特殊権益を北伐に乗じて回収すべきかどうか議論が起きていた。このことを知ったアメリカが、日英の軍事力を中国大陸に向けさせることを考えたからである。蒋介石は北伐の開始を検討していたが、日英両軍が破竹の勢いでフィリピンを奪取したため見送った。日本軍の迅速な展開を見た彼は、アメリカ側の動きに乗じて動いたならば、北伐に支障が出ると判断したからである。

 1927(昭和2)年6月1日、日本で政変が起きたのを知った蒋介石は北伐を宣言した。この状況下であれば、日本は手出しができないと踏んだためである。国民革命軍は各地で軍閥を撃破していった。対する張作霖の側は日本が金融恐慌による混乱の為に支援を期待することができずにいた。

 対中政策を協議する為、田中首相は大規模な会議を開いた。いわゆる東方会議である。7月15日から同26日にかけて開かれた会議は、田中義一首相、外務省から本多熊太郎外務大臣、森格外務政務次官、出淵勝次外務次官、植原悦二郎外務参与官、木村鋭市亜細亜局長、斎藤良衛通商局長、堀田正昭欧米局長が、在外公館から芳澤謙吉駐支公使、吉田茂奉天総領事、高尾亨漢口総領事、矢田七太郎上海総領事が、外地から児玉秀雄関東長官、武藤信義関東軍司令官が、浅利三朗朝鮮総督府警務局長が、陸軍から畑英太郎陸軍次官、南次郎参謀次長、阿部信行陸軍省軍務局長、松井石根参謀本部第二部長が、海軍から大角岑生海軍次官、野村吉三郎軍令部次長、左近司政三海軍省軍務局長が、大蔵省から富田勇太郎理財局長が出席した。

 この席上で、本多外相と森政務次官がつばぜり合いを繰り広げた。森は、北伐がいかなる結果を迎えるにせよ、満洲を中国本土から切り離して日本の政治的勢力圏に入れるべきであると主張した。対する本多は十カ国条約に於て中国の政治的な独立を認めている以上特殊権益の保護を中国側に認めさせるにとどめるべきであるとした。外務省の総意としては本多大臣の意見に沿うところが大きかったが、在外公館側、特に吉田茂が森の意見に賛同した。陸海軍は特に意見をいうことはなかったが、唯一、武藤関東軍司令官が、張作霖を排除して、満洲に新たな自治組織を確立すべく、武力発動の準備を実施すべきとする意見を唱えたが、これには強硬論を掲げた森も反対した。

 会議の意見は田中首相は纏めることとなった。田中は、北伐がどうなる結果になるにせよ、満洲における張作霖の政権基盤まで揺るぐことはないだろうということを前提とし、北伐を北京までで食い止めるべく外交活動を継続し、満洲における日本の特殊権益が脅かされることとなれば、断固として必要な措置をとる覚悟を持つとして、本多外相の意見を基調としつつも、森のいう満洲における張作霖の政治基盤を保守する姿勢を示した。

 田中の出した結論は妥協案・折衷案ともいえるが、政界における最適解であった。満洲を武力で掌握することは国際的にも非難が出るし、金融恐慌が収束しつつある状況で更なる軍事行動を起こすのはリスクがあった。また、犬養率いる革新倶楽部との合同条件にもあった経済振興政策の実施を行うためにも田中は積極的な軍事行動は避けたかった。しかし、満洲を防衛する任務を負っている関東軍、そして陸軍の大部分は、徐々にこの決定に反発することになる。

 陸軍が過激化する第一歩が、8月1日に官報告示された、西太平洋戦争後の論功行賞としての叙位受勲の発表であった。西太平洋戦争における米植民地軍は練度が低く、日本軍の戦闘詳報では、米軍は一当たりしてすぐに敗走したような状況が記されていた。これに対して海軍は聯合艦隊の総力を挙げて米海軍を迎撃し、戦艦9隻の撃沈破はという、日露戦争時の日本海海戦をも凌駕する大戦果を挙げた。海軍に比べて陸軍は活躍したとは言い難く、それが叙位叙勲にも表れた。軍人のみが受勲する金鵄勲章では、初叙、陞叙ともに海軍軍人が多く叙されており、勲績ある者に送られる旭日章もまた同じであった。この叙勲において、積年の功労ある者に送られる瑞宝章の受勲者が陸軍軍人の多くに送られており、受勲者総数では、海軍軍人を上回っており、そのような形でバランスがとられていた。しかし、勲章のランクでは同等の勲等の間では、旭日章が瑞宝章よりも優等であり、海軍軍人のほうが栄典上評価されたことには変わらず、活躍の機会が与えられなかった陸軍軍人の中に戦争を望む動きが見え始めたのは確かであるとされている。


 田中は、植民地行政の改善に取り組んだ。植民地行政を担当していたのは、内閣に置かれていた拓殖局が当たっていたが、組織が不十分で広範多岐にわたる統治事務に当たるに適当でなく、事務が外務省や内務省に分属して事務の連絡統制を欠いているとされていた。そこで、田中内閣に於て植民地行政を広範に担当する官庁を設置することとなり、拓務省が設置された。拓務省は、朝鮮総督府・台湾総督府・関東庁・南洋庁の統治事務の統理、南満州鉄道株式会社・東洋拓殖株式会社の業務の監督、および海外移民の募集や指導を行うことになった。

 拓務省は設置の時点で問題が発生していた。拓務省は、植民地行政を監督する官庁であるがため、拓務省の設置と同時に台湾総督府官制、関東庁官制、南洋庁官制が改正された。台湾総督府官制第3條は「總督ハ委任ノ範圍内ニ於テ陸海軍ヲ統率シ内閣總理大臣ノ監督ヲ承ケ諸般ノ政務ヲ統理ス」と規定されていたが、この規定中「内閣總理大臣」が「拓務大臣」に改められた。また、その他の法文中「内閣總理大臣ヲ經テ・・・上奏」となっている個所も「拓務大臣ニ由リ内閣總理大臣ヲ經テ・・・上奏」と改められた。関東庁官制においても南洋庁官制においても同様の改正が行われた。即ち、これまで内閣総理大臣からの監督を受けていた台湾総督や関東庁長官、南洋庁長官は拓務大臣からの監督を受ける形に変わったのである。

 これに対して、朝鮮総督府官制は改正がなされなかった。もともと朝鮮総督府官制は、「総督ハ天皇ニ直隷シ委任ノ範囲内ニ於テ陸海軍ヲ統率シ及朝鮮防備ノ事ヲ掌ル/総督ハ諸般ノ政務ヲ統轄シ内閣総理大臣ヲ経テ上奏ヲ為シ及裁可ヲ受ク(第3條)」と規定しており、他の台湾総督や関東庁長官、南洋庁長官のように内閣総理大臣の監督権を正面から定めていない条文構造になっていた。これは、朝鮮統治が、台湾や関東州のように他国から割譲や租借された地域や南洋群島のような独立国ではなかった地域を統治するようなものではなく、元独立国である一国をそのまま丸ごと統治するという統治の成り立ちに違いがあることに起因する。韓国併合は、大韓帝国皇帝から大日本帝國天皇に韓国の統治権が譲与して為され、朝鮮総督は天皇の代理人として旧大韓帝国を統治するということになっていた。すなわち、朝鮮総督は、大韓帝國皇帝とも同格であるということであり、その点において朝鮮総督は、他の植民地総督や外地統治長官とは異なり、格が違うというのが政治的な根底にある。原内閣の時代においても、朝鮮総督府官制を改正して、内閣総理大臣の監督権を正面から法文に挿入しようとしたが、枢密院の反対によって流れていたという事実もある。

 最も、行政実務において朝鮮総督府が拓務省の監督を受けなくてすむということではない。朝鮮総督の特異性は法制度上の差異ではなく、あくまで政治的な差異であるとするのが、枢密院や内閣はおろか、朝鮮総督府の側でも共通する認識であった。法文上で監督権を直接に明示してはいなくても、朝鮮総督の上奏が内閣総理大臣を経て行われる。この行為は、単なる取次ではない。天皇大権の輔弼は憲法上国務大臣のみが行えることになっているから、国務大臣の上奏の責任もまた国務大臣が担うものである。内閣総理大臣が朝鮮総督の為す上奏を奏上するか否かを吟味する権限がなければ、憲法上の輔弼責任を内閣総理大臣に問うことができなくなる。権限のないとことに責任はないため、そうなると天皇が統治権者として責任を負うこととなり、これは明治憲法の立憲主義に反する。内閣総理大臣の朝鮮総督への監督権は法理上明らかなものであり、その点においては、行政上に異論はなかった。問題となるのは、この立憲的法理上の規定が、原内閣、そして田中内閣と続いて枢密院によって阻まれたということである。この政治的な対立は、後に尾を引くこととなる。


 田中内閣は衆議院の第二党内閣として発足した。政友会は、組閣直後に憲政会からの離党者を吸収して議会勢力を拡大させたが、憲政会の側も床次率いる政友本党と合併して、立憲民政党を組織した。現代まで続く、政友会と民政党の二大政党制の始まりである。

 少数党内閣である以上は、衆議院における単独での予算可決は困難である。田中内閣は2588(昭和3・1928)年1月21日、衆議院における安定多数の確保を目指して衆議院解散に踏み切った。この選挙から小選挙区制から中選挙区制に移行し、この選挙区制度が、定数の変更はありつつも、現在に至るまで続くこととなった。初の普通選挙となった第18回衆議院議員総選挙(昭和3年2月20日投開票)では、鈴木内相による選挙干渉が反発を受けて政友会の議席は伸び悩み、民政党を1議席差で上回るにとどまった。議席の半数には及ばない状態であったため、選挙後、政友本党から民政党に合流した床次竹二郎を離党させて引き抜くなどして、安定多数の確保を行った。

 選挙には辛うじて勝利した田中であったが、選挙干渉を指揮した鈴木内相は、国民・野党のみならず、貴族院や政友会内の古参幹部(大正デモクラシーの推進勢力)の反感を買い、鈴木は失脚する。検事総長、法相の経歴をもつ内務大臣鈴木喜三郎は、選挙に先だって民政党に同調的とみられる各県知事、府県内務部長、府県警察部長らの大幅な更迭・異動を行い、政友会系の人間で固めた。野党候補者や運動員には刑事の尾行がつき、選挙事務所に刑事を張り込ませた。安寧秩序の維持を理由に演説会を中止させたり、ビラの押収なども頻繁に起こった。また、投票前日には鈴木内相は声明を発表、民政党綱領の議会中心政治は不穏な思想で日本の国体に相いれないと断言した。選挙結果は、与党政友会の思惑通りに進まず、衆議院での多数を確保できなかった。それどころか、鈴木内相の選挙干渉に反発した野党によって衆議院での協力が臨めない状況に陥った。鈴木内相への弾劾が行われ、政府側が野党議員の誘拐・懐柔まで図る中、鈴木内相は辞任することとなった。

 鈴木を大臣から外すための内閣改造の過程で水野文相優諚問題が発生し、鈴木内相への奏薦責任(いわゆる講学上の「任命責任」)で非難を浴びていた田中は更に非難を浴びることとなった。田中は、鈴木内相の後任に、逓信大臣の望月圭介を任命し、空いた逓信大臣の地位には田中首相自身が政界入りを勧めた同郷の財界人・久原房之助を任命しようとした。だが久原は今回の選挙で初当選した新人議員であることに加え、久原財閥を築きながらも経営の失敗から1代で身売りにまで追い込まれた経歴から、政治家としての資質に疑問が持たれていた。久原の大臣登用には、大蔵大臣三土忠造と文部大臣水野錬太郎が強く反対したが、田中首相の意思は変わらず、憤慨した水野文相は5月20日に大臣の辞表を提出した。23日に行われた望月・久原の親任式直後、昭和天皇からの優諚(慰留の発言)を受けた水野文相は、辞表を撤回したとの声明を出した。これに対し立憲民政党と貴族院は、田中首相と水野文相が事態を丸く収めるために天皇の発言を政治的に利用したと非難の声を上げ、世論も激しく反発した。24日に水野文相は辞意を表明。田中首相がこれを天皇に取り次ぎ裁可され、辞職は決定した。

 5月30日には新渡戸稲造・美濃部達吉・上杉慎吉ら学者17名が田中首相批判声明を発表。貴族院でも、6月3日に、研究会・火曜会・同成会・同和会・公正会の貴族院主要5会派が共同で、政府問責声明を発表した。


 議会対策で苦心する田中であったが、対外政策においても重大事件が発生した。張作霖爆殺事件である。

 1928(昭和3)年1月、漢口を制圧した蒋介石軍は武漢政府を設立した。蒋介石は武漢の地から南京そして上海へと軍を進める予定であったが、英国を筆頭とした欧州列強が待ったをかけた。上海や南京には欧米列強の領事館などが設置されており、内戦の被害が自分たちに波及することを恐れ、上海を当面の間自由都市とし、南京には各国で組織する国際安全区を設置して、北京政府からも武官政府からも兵士の侵入を禁止する措置を要求した。北京政府に続いて武官政府も之を了承し、北京政府は偶発的な事故を防ぐために南京を防備していた孫伝芳と張宗昌を南京から撤退させ、徐州において防衛戦を構築した。蔣介石軍は、南京付近に監視の兵を残して北上し、両軍は徐州において決戦を敢行した。1928(昭和3)年5月9日に起こった徐州会戦は両軍に大量の死傷者を出したが、蒋介石軍の勝利に終わった。孫伝芳と張宗昌の両軍は北京に向けて敗走したが、蒋介石軍もまた効果的な追撃をおこなえるだけの余裕はなかった。北京政府の長であり、北洋軍閥の領袖であった張作霖は、軍を再編して蒋介石軍を迎え撃つか、北京を明け渡すかの判断に迫られた。

 蒋介石の軍が張作霖の軍を追って満洲にまで軍を進めれば、満洲が戦場となり、それは満洲に権益を持つ日本にとっては大きな被害を生じさせることに繋がる。このような結果を恐れて、日本政府は張作霖の軍隊が、一応士気を保っているうちに満洲へ撤退することを勧めた。最も、日本政府は既に蒋介石に接触して、蒋介石から「山海関以東(満洲)には侵攻しない」との確約を得ていた。

 国際社会では、蒋介石の北伐を中華民国国内における内戦ととらえていた。そのため日本としても、北京政府の側にも武漢政府の側にも肩入れすることなく、局外中立の姿勢を貫くことが必要とされていた。実際的には、日本は張作霖の下に軍事顧問を派遣するなどしていたが、これは北伐が始まる以前からのものであったがために、黙認されているに過ぎなかった。日本は満洲に権益を多く保有しており、満洲の統治者とされている張作霖との関係が深いことは、国際的にも周知のとおりではあったが、だからこそ張作霖側を利するかのような行為は慎まれた。蒋介石が密約を反故にして、敗走する張作霖軍を追ってきた場合、満洲が戦場となることを恐れて、蒋介石軍の攻勢を山海関で押しとどめるように攻撃するような真似は避けねばならなかった。だからこそ、日本政府は張作霖に対して満洲への帰還を勧め、もし敗走すれば満洲復帰は認めないとして圧力をかけたほどなのだった。

 その一方で対外向けに日本政府は、満洲防衛の為の公正なる強硬方針を示していた。5月16日、もし蒋介石軍か張作霖軍かのいずれの軍隊にせよ、満洲に進入した場合には、治安の維持の為公正に武装解除を行うことを閣議決定した。17日、英米仏露伊独墺の七カ国の大使を首相官邸に招いて、この方針を伝達し、18日には、この内容を張作霖と蔣介石に通告した。この方針は本多外相の反対を抑えて田中首相による強い支持の下行われたが、後に田中はこの方針発出の目的を満洲への戦乱波及を抑止するためのブラフであり、現実に実施するつもりはなかったと説明している。

 徐州会戦後に軍を再編していた蒋介石軍であったが、日和見を決めていた軍閥が参戦を決定し、北京に向けて進軍を開始したため、漁夫の利を得られてはかなわぬと蒋介石の軍も北上を再開した。張作霖は蒋介石軍の進軍の速さから北京付近での防衛戦を諦め、ついに6月3日、北京を離れる決意を固めた。

 6月4日午前5時半、張作霖の乗る特別列車が奉天郊外で爆破テロに遭遇し、直撃を受けた張作霖が数時間後に死亡した。事件は直後から張作霖排斥を図った関東軍による自作自演の疑いが噂された。田中首相の命により、峯幸松憲兵司令官が現地に派遣され、事情聴取が行われた。

 10月までにわたった調査の報告では、河本大作関東軍高級参謀を首謀とする関東軍の犯行である、と結論付けられた。峯憲兵司令官による聞き取りによって判明した事実によれば、河本が張作霖を爆殺するに至った理由は、奉天軍閥の領袖であった張作霖を暗殺させることによって、奉天軍閥を崩壊させ、以て満洲の治安を保持することにあった。

 張作霖が無事に奉天に帰還すれば、奉天軍閥は残るが、北伐に敗れた敗残兵が多く、士気が低下することが避けられない状態にあった。奉天政府の財政は破綻の危機に瀕しており、1926年の歳出に占める軍事費の比率は97%であった。張政権は不換紙幣を濫発し、1917年には邦貨100円に対し奉天紙幣110元だったのが、1925(大正14)年には490元、1927(昭和2)年には4300元にまで暴落していた。張作霖は満洲では王者として振る舞っていたものの、政権の実態としては苛政を敷いており、いつ破綻してもおかしくはなかった。張作霖が蒋介石に敗れて、満洲に逃げ帰ったことは周知の事実であり、そのような中で張政権に反旗を翻す者と張政権を維持しようとするものとで分かれて争うことや軍閥としては纏まっているように見えるとしても、敗走したことによる士気の低下で風紀が乱れ、張軍閥配下の軍が治安悪化の原因となるようなことが予想された。そして、それがために満洲の治安維持のために駐屯している関東軍との間に戦闘が発生することで、日本の権益と在留邦人に被害が出ることを恐れた。河本を始めとする関東軍は、このようにして起こる満洲の治安の悪化を阻止するため、軍閥の領袖である張作霖の排除に動いたのである。

 蔣介石に敗れたと言っても張作霖は満洲においては統治者として君臨しており、中華民国の陸海軍大元帥に就任して、一度は中国の主権者として振る舞ったこともあり、奉天軍のカリスマ的存在であった。現在の奉天軍の後退を放置すると、僅か1万余の関東軍しか存在しない満州に、奉天軍の全軍30万がほぼ無傷で帰って来ることが予想された。その中には、本来の満州を根拠地とする張作霖直轄の部隊以外に、山東の張宗昌の部隊あるいは直隷の孫伝芳の部隊等も多数混在しているのである。すなわち、張作霖がここで排除されるのであれば、カリスマ的な存在を失った、配下の将軍たちは混乱し、戦意を喪失し、組織的な動きはできなくなると結論付けたのである。

 河本ら関東軍は、当初は関東軍による奉天軍の武装解除によってこれを為すことを考えていたが、田中首相がこの方針を「転換」したため、河本らは、当面の安全確保を目的とした張作霖の暗殺に動きを変えたのである。事実、河本は峯憲兵司令官の調査の際、峯少将が「君はあれを政略上からやったのか、戦術上からやったのか」という質問をしたのに対して河本は「戦術上からやりました」と答えている。飽くまでも山海関出動(関東軍による武装解除)に代る手段としてやったのであって、政略的謀略ではなかったと答えている。東方会議で関東軍が主張したような満洲自治のための強硬策での実施ではなかった。

 この調査結果に対して、田中首相は、公表して関係者を軍法会議に掛けることを主張した。田中は天皇に対して同年12月24日にと河本大佐の犯行を認めたうえで、軍法会議を行う旨の上奏を行った。また、同年12月26日からの第58回帝国議会の貴族院における委員会においても、事件の真相を明らかにする旨の答弁を行った。

 これに対して、白川義則陸軍大臣は3回にわたって天皇に関東軍に大きな問題はない旨を上奏した。白川陸相の外小川鉄道大臣も事件の公表は、陸軍の反発や日本の恥をさらすとして強硬に反対した。

 田中首相は、事件当初から諸外国が日本陸軍が張作霖爆殺事件に関与しているとの疑惑を抱いていることを重視し、あえてこれを軍法会議で公開することで諸外国に対して日本陸軍の自浄作用を明らかにし、信頼の回復につなげる考えであった。しかし、徐々に北伐による大量の奉天軍を瓦解させたとする河本の主張が公然となると、帰って満洲の治安が悪化するのではないかという考えを生じさせるようになった。

 確かに、張作霖の死亡により、奉天軍閥は瓦解しかけた。それにより張宗昌や孫伝芳といった北伐の敗残部隊は、満洲に流入することなく離散した。奉天軍閥の将軍たちの中には親玉である張作霖の死後は満洲各地のそれぞれの根拠地に戻って行った者もいる。そのなかで奉天軍閥の後釜に座った張学良は、当初から日本陸軍が父を殺害したとの疑念を抱いていた。奉天軍閥は、蒋介石軍に対して一方的に停戦を宣言するが、これには奉天軍閥を支援していた、日本政府が難色を示し、張学良へ翻意を促した。奉天軍閥が満洲の自立的な地位を維持しなければ、南満州に権益を持つ日本としては、権益を充分に保護することができず、奉天軍閥が蔣介石側に呑み込まれる形になるのは、日本政府としては容認できなかった。しかし、ついに1928(昭和3)年12月29日朝、奉天城内外に一斉に青天白日満地紅旗が掲げられた(易幟)。これにより、張学良率いる奉天軍閥と日本との関係は一気に冷え切った。

 もともと、親日的といわれていた張作霖政権ではあったが、満洲地域に満鉄の利益を削ぐような形で中国資本の鉄道を敷設し始めたりするなど、水面下でのつばぜり合いは行われていた。西太平洋戦争が日本の勝利に終わると、張政権は鉄道敷設を一時中止するなど対日姿勢に変化が見られたものの経済的に満洲地域内での優位を回復しようとする姿勢を諦めたとは言えない状況であった。

 けれども、奉天軍閥はこれまで一度として関東軍と兵を交えたことはなく、偶発的な戦闘行動に発展したこともなかった。そのような相手を不安視して、敵対行動に出たことを公表するとなれば、満洲における治安維持はさらに困難になると田中は考え始めた。易幟が行われ、満洲における治安が不安視され始めるようになると、その思いはさらに強まっていった。

 加えて、満洲地域内におけるロシアとの協調関係にも影響を生じさせていた。

 ロシアが満洲地域に保有していた東清鉄道(後に東支鉄道)の権益は、欧州大戦中のロシア革命による混乱のどさくさに紛れて、中国側に接収された。ロシア内戦にて共産党勢力を追いやった新生ロシア帝国は、再建当初は国内の立て直しに注力せざるを得ず、東支鉄道の権益はなおざりになっていた。ロシア帝国が国内の体勢を立て直すと再び外に目を向けるようになり、東支鉄道の回収に乗り出した。その頃には、奉天軍閥が経営権を事実上回収したことでロシア側の要求にも難所を示していたが、日本が仲介し、東支鉄道に最高議決機関たる理事会を設立して、中国側ロシア側に同数の理事を任命し、理事長を中国人、副理事長をロシア人とすることで妥協させることに成功した。

 こうした形で、日本は、ロシアと協調して、満洲の権益を保全してきた。満洲の治安が悪化すれば、その原因をつくった日本に対するロシアの印象も悪化することが予想され、それは極東における戦略環境が一変する可能性をはらんでいた。

 斯くして、田中の意識は徐々に真相解明を諦める形へとシフトしていった。2589(昭和4・1929)年6月27日、田中首相は、関東軍は事件に無関係であり、当事者への軍法会議開催を行わないこととする最終報告を上奏した。昨年12月の報告と違うことに対して、昭和天皇は田中を叱責するが、田中は方針転換に至ったことに対する経緯を説明して、昭和天皇への理解を求めた。昭和天皇は田中の説明を理解したが、事件から1年もかけて無関係との報告では、諸外国の不審を買うことが明らかであることを指摘した。これに対して田中は、昭和天皇の意見を最もであるとして、内閣総辞職の意思があることを奏上した。

 この際に、田中は、陸軍が自分に真相をうやむやにするという旨の圧力をかけ、自分がそれに屈したことにして、天皇が自分に大いに叱責を加えたことにしてほしいとする旨の上奏を行った。自身が方針転換に至ったいきさつは、それこそ満洲の治安を害する可能性があるため表に出すことはできないとしたのである。昭和天皇は之を了として、宮中の側近を通してそのような噂を流させた。このため、田中義一は、直接に天皇の不興を被った総理として長い間悪名を刻まれることとなったのであるが、近年、当時宮内大臣であった一木喜徳郎の備忘録が発見され、当時の状況が知られるようになってきたため、その評価が修正されている。

▽在任中の主な出来事

・昭和金融恐慌

・東方会議

・拓務省設置

・第一回普通選挙実施

・水野文相優諚問題

・満洲某重大事件 ― 張作霖爆殺事件

▽内閣の出した主な法令

・拓務省官制

▽内閣の対応した帝國議会

第56回帝國議會・臨時会

日程

 召集:2587(昭和 2・1927)年 6月 5日(官報公布5日)

 集会:2587(昭和 2・1927)年 6月13日

 開会:2587(昭和 2・1927)年 6月14日

 閉会:2587(昭和 2・1927)年 6月18日

 会期:5日、実数5日

議院役員

貴族院議長

7 德川家達とくがわ いえさと

 就任:2584(大正13・1924)年12月 5日(再任)

 退任:

 生年:2523(1863)年8月24日(文久3年7月11日)、63歳

 出生:武蔵国江戸江戸城田安屋敷(東京都千代田区宮城)

 学歴:英イートン・カレッジ

 官職:貴族院議員・華族議員(公爵)

 会派:火曜会

 回数:終身

 前職:麝香間祗候

 特記:德川家達家初代。

貴族院副議長

9 蜂須賀正韶はちすか まさあき

 就任:2584(大正13・1924)年 1月16日(新任)

 退任:2591(昭和 6・1931)年 1月16日(任期満了)

 生年:2531(1871)年4月27日(明治4年3月8日)、56歳

 出生:阿波国徳島(徳島県徳島市)

 学歴:英ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ卒業

 官職:貴族院議員・華族議員(侯爵)

 会派:無所属

 回数:終身

 前職:宮内省式部官兼主猟官、皇后主事

 特記:阿波蜂須賀家第17代当主。/大正7(1918)年3月20日侯爵襲爵(家督相続、父茂韶死去)/明治生まれ初の貴族院副議長

衆議院議長

25 森田茂もりた しげる

 就任:2585(大正14・1925)年 7月27日(選出)

 退任:

 生年:2532(1872)年9月19日(明治5年8月17日)、54歳

 出生:高知県香美郡佐岡村佐野(高知県香美市)

 学歴:明治法律学校

 官職:衆議院議員(京都府第1区)

 会派:憲政会

 回数:11回(5期~9期、10期繰上、11期、12期、14期~16期)

 前職:自由新聞主筆、埼玉県会議員、県会副議長、衆議院議員、衆議院副議長(18)、衆議院議長(23、24)

 特記:

衆議院副議長

21 松浦五兵衛まつうら ごへえ

 就任:2585(大正14・1925)年 7月27日(選出)

 退任:

 生年:2530(1870)年10月9日(明治3年9月15日)、56歳

 出生:遠江国城東郡沢水加村(静岡県菊川市)

 学歴:東京法学校卒業

 官職:衆議院議員(静岡県第7区)

 会派:立憲政友会

 回数:11回(7期~17期)

 前職:静岡県小笠郡会議員、静岡県会議員、同参事会員、衆議院議員、静岡県農会長、小笠郡茶業組合長、掛川商業銀行頭取、堀之内銀行頭取、富士鉱業社長、静岡新報社長などを歴任、衆議院副議長(21)

 特記:

第57回帝國議會・通常会

日程

 召集:2587(昭和 2・1927)年11月10日(官報公布11日)

 集会:2587(昭和 2・1927)年12月24日

 開会:2587(昭和 2・1927)年12月26日

 閉会:2588(昭和 3・1928)年 1月21日

 会期:90日、実数27日

議院役員

※第56議会に同じ

第18回衆議院議員総選挙

 改選数:486

 公示日:2588(昭和 3・1928)年 1月21日

 投票日:2588(昭和 3・1928)年 2月20日

 選挙制度:中選挙区制、秘密投票制、男子普通選挙

 実施地域:48庁府県

 選挙権:

  満25歳以上の日本国民男性

下記の者は権利の適用除外

   華族の当主、現役軍人

   禁治産者、破産者、公民権剥奪者及び停止者、刑事被告人

 被選挙権:

  満30歳以上の日本国民男性

下記の者は権利の適用除外

   華族の当主、現役軍人

   禁治産者、破産者、公民権剥奪者及び停止者、刑事被告人

   宮内官、司法官、会計検査官、収税官、警察官

   管轄区内の府県郡官吏

   各選挙区の市町村選挙管理担当吏員

   神官、僧侶、教師

 選挙結果:

  立憲政友会

  総裁:田中義一

  幹事長:秦豊助

   前回選挙:151

   選挙直前:201

   獲得議席:221(+20)

  立憲民政党

総裁:濱口雄幸

  幹事長:小泉又次郎

   前回選挙:新党

   選挙直前:219

   獲得議席:219(±0)

  立憲帝政党

   前回選挙:12

   選挙直前:12

   獲得議席:15(±3)

  実業同志会

  会長:武藤山治

   前回選挙:5

   選挙直前:5

   獲得議席:6(+1)

  社会民衆党

  委員長:安部磯雄

  書記長:片山哲

   前回選挙:新党

   選挙直前:0

   獲得議席:4(+4)

  革新党

   前回選挙:新党

   選挙直前:3

   獲得議席:3(±0)

  労働農民党

  委員長:大山郁夫

   前回選挙:新党

   選挙直前:0

   獲得議席:3(+3)

  無所属

   前回選挙:

   選挙直前:46

   獲得議席:15

第58回帝國議會・臨時会(特別会)

日程

 召集:2588(昭和 3・1928)年 2月29日(官報公布3月1日)

 集会:2588(昭和 3・1928)年 4月20日

 開会:2588(昭和 3・1928)年 4月23日

 閉会:2588(昭和 3・1928)年 5月 6日

 会期:14日、実数14日

議院役員

貴族院議長

7 德川家達とくがわ いえさと

 就任:2584(大正13・1924)年12月 5日(再任)

 退任:

 生年:2523(1863)年8月24日(文久3年7月11日)、63歳

 出生:武蔵国江戸江戸城田安屋敷(東京都千代田区宮城)

 学歴:英イートン・カレッジ

 官職:貴族院議員・華族議員(公爵)

 会派:火曜会

 回数:終身

 前職:麝香間祗候

 特記:德川家達家初代。

貴族院副議長

9 蜂須賀正韶はちすか まさあき

 就任:2584(大正13・1924)年 1月16日(新任)

 退任:2591(昭和 6・1931)年 1月16日(任期満了)

 生年:2531(1871)年4月27日(明治4年3月8日)、56歳

 出生:阿波国徳島(徳島県徳島市)

 学歴:英ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ卒業

 官職:貴族院議員・華族議員(侯爵)

 会派:無所属

 回数:終身

 前職:宮内省式部官兼主猟官、皇后主事

 特記:阿波蜂須賀家第17代当主。/大正7(1918)年3月20日侯爵襲爵(家督相続、父茂韶死去)/明治生まれ初の貴族院副議長

衆議院議長

26 元田肇もとだ はじめ

 就任:2588(昭和 3・1928)年 4月20日(選出)

 退任:2589(昭和 4・1929)年 3月14日(辞職)

 生年:2518(1858)年2月28日(安政5年1月15日)、70歳

 出生:豊後国国東郡来浦村(大分県国東市国東町来浦)

 学歴:東京大学法科卒業

 官職:衆議院議員(大分県第2区)

 会派:立憲政友会

 回数:18回(1期~18期)

 前職:弁護士、衆議院議員(大成会・国民協会・帝国党・立憲政友会)、衆議院副議長(25)。司法大臣(26)、鉄道大臣(1)、衆議院議長(26)

 特記:

衆議院副議長

22 清瀬一郎きよせ いちろう

 就任:2588(昭和 3・1928)年 4月20日(選出)

 退任:

 生年:2544(明治17・1884)年7月5日 、43歳

 出生:兵庫県飾磨郡夢前町(兵庫県姫路市)

 学歴:京都帝國大学法科大学独法科首席卒業

 官職:衆議院議員(兵庫県第4区)

 会派:革新党

 回数:4回(15期~18期)

 前職:弁護士を開業、法政大学講師、関西大学教授、衆議院副議長(22)

 特記:

第59回帝國議會・通常会

日程

 召集:2588(昭和 3・1928)年10月31日(官報公布11月1日)

 集会:2588(昭和 3・1928)年12月24日

 開会:2588(昭和 3・1928)年12月26日

 閉会:2589(昭和 4・1929)年 3月25日

 会期:90日、実数90日

議院役員

※衆議院議長以外第50帝國議会に同じ

衆議院議長

26 元田肇もとだ はじめ

 就任:2588(昭和 3・1928)年 4月20日(選出)

 退任:2589(昭和 4・1929)年 3月14日(辞職)

 生年:2518(1858)年2月28日(安政5年1月15日)、70歳

 出生:豊後国国東郡来浦村(大分県国東市国東町来浦)

 学歴:東京大学法科卒業

 官職:衆議院議員(大分県第2区)

 会派:立憲政友会

 回数:18回(1期~18期)

 前職:弁護士、衆議院議員(大成会・国民協会・帝国党・立憲政友会)、衆議院副議長(25)。司法大臣(26)、鉄道大臣(1)、衆議院議長(26)

 特記:

27 川原茂輔かわはら もすけ

 就任:2589(昭和 4・1929)年 3月15日(選出)

 退任:2589(昭和 4・1929)年 5月19日(死亡)

 生年:2519(1859)年10月10日(安政6年9月15日)、69歳

 出生:肥前国西松浦郡大川内村(佐賀県伊万里市)

 学歴:東京大学法科卒業

 官職:衆議院議員(大分県第2区)

 会派:立憲政友会

 回数:18回(1期~18期)

 前職:佐賀県参事会員、佐賀日日新聞社長、佐賀県会議員、衆議院議員、佐賀県会議員、佐賀県会議長(10)、衆議院議員(立憲政友会→政友本党→立憲政友会)、衆議院議長(27)

 特記:

▽内閣閣僚

内閣総理大臣

31 田中義一たなか ぎいち

 就任:2587(昭和 2・1927)年 6月 3日(新任)

 退任:2589(昭和 4・1929)年 7月 2日(内閣総辞職)

 生年:2524(1864)年7月25日(元治元年6月22日)、62歳

 出生:長門国阿武郡萩城下菊屋横町(山口県萩市呉服町)

 学歴:陸軍教導団、陸軍士官学校(旧8期)、陸軍大学校(8期)

 官職:予備役陸軍大将、貴族院議員・華族議員(男爵)

 会派:無所属

 回数:2585(大正14・1925)年 7月10日互選

 前職:村役場職員、小学校教員、陸軍教導団、陸軍歩兵少尉任官、ロシア留学、満州軍参謀(日露戦争時)、歩兵第三連隊連隊長、陸軍省軍務局軍事課長、陸軍少将、歩兵第二旅団長、陸軍省軍務局長、陸軍中将、参謀次長、陸軍大臣(17)、陸軍大将、陸軍大臣(19、21)、貴族院勅選議員、貴族院華族議員互選

 特記:大正9(1920)年9月7日、男爵叙爵

外務大臣

39 本多熊太郎ほんだ くまたろう

 就任:2587(昭和 2・1927)年 6月 3日(初入閣)

 退任:2589(昭和 4・1929)年 7月 2日(内閣総辞職)

 生年:2534(明治 7・1874)年12月8日、52歳

 出生:和歌山県那賀郡

 学歴:東京法学院(現・中央大学)中退

 官職:貴族院議員・勅任議員(勅選)

 会派:無所属・憲政会総裁

 回数:明治44(1911)年8月24日勅選

 前職:外務省書記生試験に合格し外務書記官、外交官及領事官試験に合格し外交官補、韓国在勤、清国在勤、ベルギー在勤、外務大臣秘書官兼外務書記官(小村寿太郎外相)、ポーツマス講和会議随行、北京公使館二等書記官、スイス公使、ドイツ大使、外務大臣(39)

 特記:

内務大臣

40 鈴木喜三郎すずき きさぶろう

 就任:2587(昭和 2・1927)年 6月 3日(再入閣・新任)

 退任:2588(昭和 3・1928)年 5月23日(辞職)

 生年:2527(1867)年11月6日(慶応3年10月11日)、59歳

 出生:武蔵国橘樹郡大師河原村(神奈川県川崎市)

 学歴:東京外国語学校仏語学科、第一高等中学校卒業、帝国大学法科大学(東京帝國大学法学部)仏法科首席卒業

 官職:親任検事/貴族院議員・勅任議員(勅選)

 会派:

 回数:大正9(1920)年6月2日勅選

 前職:司法省入省、司法官試補、判事、東京地方裁判所判事、東京控訴院判事、欧州視察、大審院判事、東京地方裁判所長、検事、司法省刑事局長、大審院検事、司法省法務局長、司法次官、貴族院勅選議員、検事総長、司法大臣(30)、内務大臣(40)

 特記:

41 望月圭介もちづき けいすけ

 就任:2588(昭和 3・1928)年 5月23日(転任)

 退任:2589(昭和 4・1929)年 7月 2日(内閣総辞職)

 生年:2527(1867)年11月6日(慶応3年10月11日)、59歳

 出生:安芸国豊田郡東野村(広島県豊田郡大崎上島町矢弓)

 学歴:攻玉社中年部、共立学校(現開成中学校)

 官職:衆議院議員(広島県第2区)

 会派:立憲政友会

 回数:11回

 前職:家業(鉱山業)、衆議院議員、立憲政友会幹事長(総裁:原敬)、立憲政友会総務委員、逓信大臣(28)、内務大臣(41)

 特記:

大蔵大臣

33 高橋是清たかはし これきよ

 就任:2587(昭和 2・1927)年 6月 3日(再入閣・再任)

 退任:2587(昭和 2・1927)年 7月 2日(辞職)

 生年:2514(1854)年9月19日(嘉永7年/安政元年閏7月27日)、72歳

 出生:武蔵国江戸芝中門前町(東京都港区芝大門)

 学歴:ヘボン塾(現・明治学院)

 官職:貴族院議員・勅任議員(勅選)

 会派:立憲政友会

 回数:明治38(1905)年1月29日勅選

 前職:文部省御用掛、農商務省御用掛、同書記官、特許局長、日本銀行副総裁、兼横浜正金銀行頭取、日本銀行総裁、大蔵大臣(23、27)、内閣総理大臣(27)、大蔵大臣(33)

 特記:明治40年9月、男爵叙爵

34 三土忠造みつち ちゅうぞう

 就任:2584(大正13・1924)年 7月 2日(転任)

 退任:2585(大正14・1925)年 6月24日(内閣総辞職)

 生年:2531(1871)年8月11日(明治4年6月25日)、55歳

 出生:讃岐国大内郡水主村(香川県香川市)

 学歴:香川県尋常師範学校卒業、東京高等師範学校首席卒業、英独留学

 官職:衆議院議員(香川県第5区)

 会派:立憲政友会

 回数:9回(10期~17期)

 前職:小学校教員、衆議院議員、東京日日新聞編集長、大蔵省参事官、内閣書記官長(30)、大蔵大臣(34)

 特記:

陸軍大臣

23 白川義則しらかわ よしのり

 就任:2587(昭和 2・1927)年 6月 3日(初入閣)

 退任:2589(昭和 4・1929)年 7月 2日(内閣総辞職)

 生年:2529(1869)年1月24日(明治元年12月12日)、58歳

 出生:伊予国温泉郡松山城下千舟町(愛媛県松山市)

 学歴:愛媛県立松山中学中退、陸軍士官学校(1期)、陸軍大学校(14期)

 官職:陸軍大将

 会派:

 回数:

 前職:愛媛県庁給仕、代用教員/陸軍教導団、卒業後、陸軍工兵二等軍曹任官、近衛工兵中隊配属/士官候補生(歩兵転科)、陸軍士官学校卒業(1期)、陸軍少尉に任官、陸軍大学校入学、日清戦争出征、中尉進級、陸軍大学校復校、陸軍大尉に進級、陸軍大学校(第12期)卒業、歩兵第21連隊中隊長/陸軍士官学校教官/近衛師団参謀、陸軍少佐に進級、歩兵第21連隊大隊長、日露戦争出征、第13師団参謀、陸軍省人事局員、中佐進級、大佐進級、歩兵第34連隊長、第11師団参謀長、中支那派遣隊司令官、陸軍少将進級、歩兵第9旅団長/陸軍省人事局長、陸軍中将進級、陸軍士官学校長、第11師団長、第1師団長、陸軍次官(山梨陸相)、航空局長官兼任、航空本部長兼任/関東軍司令官、陸軍大将/軍事参議官、フィリッピン派遣軍司令官、陸軍大臣(23)

 特記:

海軍大臣

15 岡田啓介おかだ けいすけ

 就任:2587(昭和 2・1927)年 6月 3日(初入閣)

 退任:2589(昭和 4・1929)年 7月 2日(内閣総辞職)

 生年:2528(1868)年2月14日(慶応4年1月21日)、59歳

 出生:越前国足羽郡福井城下手寄上町(福井県福井市城東)

 学歴:攻玉社、海軍兵学校(15期)、海軍大学校(甲種)

 官職:海軍大将

 会派:

 回数:

 前職:海軍少尉任官、海軍大学校丙号学生、海軍大尉進級、海大乙種学生、海大甲種学生、海軍少佐進級、海軍大学校教官、海軍中佐進級、海軍水雷学校教官、海軍大佐進級、海軍水雷学校校長、装甲巡洋艦「春日」艦長、戦艦「鹿島」艦長、海軍少将進級、海軍省人事局長、海軍中将進級、艦政本部長、海軍次官、 海軍大将進級、軍事参議官、第一艦隊司令長官兼連合艦隊司令長官、横須賀鎮守府司令長官、海軍大臣(15)

 特記:

司法大臣

33 原嘉道はら よしみち

 就任:2587(昭和 2・1927)年 6月 3日(初入閣)

 退任:2589(昭和 4・1929)年 7月 2日(内閣総辞職)

 生年:2527(1867)年3月23日(慶応3年2月18日)、60歳

 出生:信濃国高井郡小山村(長野県須坂市小山)

 学歴:大学予備門、第一高等学校、帝国大学法科大学(現・東京大学法学部)英法学部(首席卒業)

 官職:判事

 会派:

 回数:

 前職:大学予備門、第一高等学校、帝国大学法科大学(現・東京大学法学部)英法学部を首席卒業/農商務省入省、農商務省参事官、鉱山監督局東京、大阪両鉱山監督署長、農商務省退官/弁護士、東京弁護士会長、第一東京弁護士会会長、三井銀行、三菱銀行、興業銀行、横浜正金銀行などの法律顧問、三井信託取締役、三井報徳会会長、東京帝国大学、早稲田大学、中央大学講師(商法)、司法大臣(33)

 特記:

文部大臣

35 三土忠造みつち ちゅうぞう

 就任:2587(昭和 2・1927)年 6月 3日(初入閣)

 退任:2587(昭和 2・1927)年 7月 2日(転任)

 生年:2531(1871)年8月11日(明治4年6月25日)、55歳

 出生:讃岐国大内郡水主村(香川県香川市)

 学歴:香川県尋常師範学校卒業、東京高等師範学校首席卒業、英独留学

 官職:衆議院議員(香川県第5区)

 会派:立憲政友会

 回数:9回(10期~17期)

 前職:小学校教員、衆議院議員、東京日日新聞編集長、大蔵省参事官、内閣書記官長(30)、文部大臣(35)

 特記:

36 水野錬太郎みずの れんたろう

 退任:2587(昭和 2・1927)年 7月 2日(転任)

 退任:2588(昭和 3・1928)年 5月25日(辞職)

 生年:2528(1868)年2月3日(慶応4年1月10日)、59歳

 出生:武蔵国江戸浅草鳥越町(東京都台東区鳥越)

 学歴:共立学校、大学予備門(現・第一高等学校)、帝国大学法科大学(東京帝國大学法学部)卒業

 官職:貴族院議員・勅任議員(勅選)

 会派:交友倶楽部・立憲政友会

 回数:大正元(1912)年12月5日勅選

 前職:第一銀行/農商務省鉱山局、内務省転職、内務社寺局長、地方局長、内務次官、錦鶏間祗候、内務次官、内務大臣(33、35、37)、兼帝都復興院総裁、文部大臣(36)

 特記:秋田藩士水野立三郎の子

37 勝田主計しょうだ かずえ

 退任:2588(昭和 3・1928)年 5月25日(再入閣・新任)

 退任:2589(昭和 4・1929)年 7月 2日(内閣総辞職)

 生年:2529(1869)年10月19日(明治2年9月15日)、58歳

 出生:愛媛県松山市一番町

 学歴:勝山学校、伊予尋常中学、第一高等学校、東京帝国大学法科大学卒業

 官職:貴族院議員・勅任議員(勅選)

 会派:無所属

 回数:大正3(1914)年3月31日勅選

 前職:大蔵省入省、主税局属。函館税務管理局長兼税関長、欧州派遣、大蔵省理財局長、大蔵次官、貴族院勅選議員、朝鮮銀行総裁、大蔵大臣(26、30)、文部大臣(37)

 特記:明治生まれ初の国務大臣就任者。明治生まれ初の大蔵大臣就任者。

農務大臣

2 横田千之助よこた せんのすけ

 就任:2587(昭和 2・1927)年 6月 3日(初入閣)

 退任:2589(昭和 4・1929)年 6月10日(転任)

 生年:2530(1870)年9月17日(明治3年8月22日)、56歳

 出生:下野国足利郡足利町本城(栃木県足利市)

 学歴:東京法学院(現・中央大学)卒業、代言人試験合格

 官職:衆議院議員(栃木県第7区)

 会派:立憲政友会

 回数:7回(11期~17期) →8回(11期~18期)

 前職:弁護士、実業界、衆議院議員、法制局長官(22)、司法大臣(31)、農務大臣(2)

 特記:

3 山本悌二郎やまもと ていじろう

 就任:2589(昭和 4・1929)年 6月10日(初入閣)

 退任:2589(昭和 4・1929)年 7月 2日(内閣総辞職)

 生年:2530(1870)年2月10日(明治3年1月10日)、59歳

 出生:下野国足利郡足利町本城(栃木県足利市)

 学歴:二松学舎、獨逸学協会学校(現:獨協中学校)卒業

 官職:衆議院議員(栃木県第7区)

 会派:立憲政友会

 回数:10回(9期~18期)

 前職:内省給費生(ドイツ留学)、宮内省御料局嘱託、第二高等学校教授、日本勧業銀行鑑定課長、台湾製糖常務取締役支配人、同社長、衆議院議員、農務大臣(3)

 特記: 

商工大臣

2 中橋徳五郎なかはし とくごろう

 就任:2587(昭和 2・1927)年 6月 3日(初入閣)

 退任:2589(昭和 4・1929)年 7月 2日(内閣総辞職)

 生年:2521(1861)年10月13日(文久元年9月10日)、65歳

 出生:加賀国石川郡金沢町(石川県金沢市)

 学歴:東京大学英法科卒業、東京帝国大学法学部選科卒業

 官職:衆議院議員(大阪府第3区→石川県第1区)

 会派:立憲政友会

 回数:7回(11期~12期、13期再選挙、14期~17期)→8回

 前職:判事試補、横浜陪審裁判所詰、農商務省転籍、参事官、衆議院制度取調局出仕、欧米出張、衆議院書記官、逓信省参事官、逓信省監査局長、鉄道局長/大阪商船社長、宇治川電気株式会社初代社長、日本窒素重役、日清汽船取締役/大阪市会議員、同議長、衆議院議員、文部大臣(29)、大蔵大臣(31)、商工大臣(2)

 特記:

逓信大臣

28 望月圭介もちづき けいすけ

 就任:2587(昭和 2・1927)年 6月 3日(初入閣)

 退任:2588(昭和 3・1928)年 5月23日(転任)

 生年:2527(1867)年11月6日(慶応3年10月11日)、59歳

 出生:安芸国豊田郡東野村(広島県豊田郡大崎上島町矢弓)

 学歴:攻玉社中年部、共立学校(現開成中学校)

 官職:衆議院議員(広島県第2区)

 会派:立憲政友会

 回数:11回

 前職:家業(鉱山業)、衆議院議員、立憲政友会幹事長(総裁:原敬)、立憲政友会総務委員、逓信大臣(28)、内務大臣(41)

29 久原房之助くはら ふさのすけ

 就任:2588(昭和 3・1928)年 5月23日(初入閣)

 退任:2589(昭和 4・1929)年 7月 2日(内閣総辞職)

 生年:2529(1869)年7月12日(明治2年6月4日)、58歳

 出生:長門国阿武郡萩城下唐樋町(山口県萩市)

 学歴:商法講習所、東京商業学校(現:一橋大学)卒業、慶應義塾(現:慶應義塾大学)本科卒業

 官職:衆議院議員(山口県第1区)

 会派:立憲政友会

 回数:1回

 前職:会社経営(鉱山業)、衆議院議員、逓信大臣(29)

鉄道大臣

6 小川平吉おがわ へいきち

 就任:2587(昭和 2・1927)年 6月 3日(初入閣)

 退任:2589(昭和 4・1929)年 7月 2日(内閣総辞職)

 生年:2530(1870)年1月2日(明治2年12月1日)、69歳

 出生:信濃国諏訪郡御射山神戸村(長野県諏訪郡富士見町)

 学歴:司法省正則法律学校(現:第一高等学校)、帝国大学法科大学仏法科(現:東京帝國大学法学部)

 官職:衆議院議員

 会派:立憲政友会

 回数:2回

 前職:弁護士、衆議院議員、政友会幹事長、鉄道大臣(7)

 特記:

拓務省設置(2589(昭和 4・1929)年 6月10日)

拓務大臣

1 横田千之助よこた せんのすけ

 就任:2589(昭和 4・1929)年 6月10日(転任)

 退任:2589(昭和 4・1929)年 7月 2日(内閣総辞職)

 生年:2530(1870)年9月17日(明治3年8月22日)、58歳

 出生:下野国足利郡足利町本城(栃木県足利市)

 学歴:東京法学院(現・中央大学)卒業、代言人試験合格

 官職:衆議院議員(栃木県第7区)

 会派:立憲政友会

 回数:8回

 前職:弁護士、実業界、衆議院議員、法制局長官(22)、司法大臣(31)、農務大臣(2)、拓務大臣(1)

 特記:

内閣書記官長

32 鳩山一郎はとやま いちろう

 就任:2587(昭和 2・1927)年 6月 3日(新任)

 退任:2589(昭和 4・1929)年 7月 2日(内閣総辞職)

 生年:2543(明治16・1883)年 1月 1日、44歳

 出生:東京府東京市牛込区東五軒町(東京都新宿区)

 学歴:高等師範学校附属小学校(現:東京高等師範学校附属小学校)卒業、高等師範学校附属中学校(原:東京高等師範学校附属中学校)卒業、第一高等学校卒業、東京帝国大学法科大学英法科卒業

 官職:衆議院議員(東京府第2区)

 会派:立憲政友会

 回数:10回

 前職:弁護士、東京市会議員、衆議院議員

 特記:

法制局長官

27 前田米蔵まえだ よねぞう

 就任:2587(昭和 2・1927)年 6月 3日(新任)

 退任:2589(昭和 4・1929)年 7月 2日(内閣総辞職)

 生年:2542(明治15・1882)年 2月17日、45歳

 出生:和歌山県伊都郡名倉村(橋本市高野口町)

 学歴:東京法学院(現・中央大学)卒業

 官職:衆議院議員(東京府第6区)

 会派:立憲政友会

 回数:5回

 前職:弁護士、衆議院議員、政友会幹事長、法制局長官(26)

 特記:

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