24代 児玉源太郎内閣
24代 児玉源太郎内閣(2576(大正5・1916)年10月9日~2578(大正7・1918)年9月29日)
▽来歴・概要
元長州藩士。陸軍大臣。陸軍大将、任期中に予備役陸軍大将。軍事参議官。
大隈首相が元老に対して、後継首班の選定あり次第退陣するとの意向を伝えたのは、大正5年8月初旬であった。大隈は自身の内閣設立を後押しした榎本武揚と立憲同志会の総裁代行であった桂太郎とにこのことを伝えた。このころ両元老は体調を悪くしており、彼らは後継首班の選定にはかかわらなかった。
榎本と桂からの連絡を受けた元老は、後継首班の選定に入った。桂の進言により、元老は児玉源太郎に後継首班の連絡を入れる。しかし、児玉は過去に脳溢血を起こしており、左下肢麻痺という身体上の障害があったことから後継首班を固辞した。これ以降も寺内正毅や上原勇作といった人物が挙がったが、いずれも国家の宰相としての器量はないと判断され、元老は再び児玉に後継首班について相談し、再度の相談に児玉も受け入れた。
児玉内閣が発足するに当り、児玉はこれまで軍事参議官として研究していた欧州大戦への本格的な参画に関する措置を実施した。それが担当国務大臣の導入である。児玉は、現役陸軍軍人が組閣することに対して海軍が反発する可能性を考えた。そこで八代人事で予備役となった山本権兵衛などの海軍重鎮を中央政界に復帰させることで、海軍側を懐柔しようとした。また、児玉は立憲同志会を与党としつつも、立憲政友会にも政権参画を呼び掛けた。
この結果として二つの国務大臣が新規に任命された。一つが、山本権兵衛を大臣とする軍部出身の大臣である。欧州への派兵計画を陸海軍纏めて統御するために置かれ、陸軍大臣と海軍大臣に対して、欧州派兵計画に限定した区処権を持たせた。星内閣の場合と違うのは、星内閣における副総理格と言うのがあくまでも待遇面においてであり、軍事参議官が本官であったのに対して、今回は国務大臣が本官となり、軍事参議官が兼官扱いとなったことにある。もう一つが、派兵計画に伴う国内国外問題を統合調整するために置かれた担当大臣である。この大臣はあくまで調整役であり、他の国務大臣に対する命令権は持たせておらず、挙国一致体制をつくる建前的な部分があった。しかしながら、この国務大臣は児玉内閣と同時に発足した臨時外交調査会の委員首座の任を与えられており、他の国務大臣の格上と言う印象を与えていた。政友会側は基本的に欧州派兵には懐疑的であったことから、調整が難航したが、伊藤博文と西園寺公望が共同して依頼することで、政友会の星総裁もこれを受け容れた。
臨時外交調査会は欧州大戦に関して重要の案件を考査審議する天皇に直属する機関として設置された。総裁には天皇の統治権を代行する征夷大将軍が、副総裁には内閣総理大臣が充てられることで権威を高め、委員には外務大臣、内務大臣、陸軍大臣、海軍大臣、大蔵大臣の主要5閣僚、牧野伸顕、伊東巳代治、平田東助の3枢密顧問官、上原勇作参謀総長と島村速雄海軍軍令部長の統帥部責任者、加藤高明立憲同志会総裁代行補佐、原敬立憲政友会幹事長、犬養毅立憲国民党常務委員そして委員首座である星亨立憲政友会総裁と山本権兵衛国務大臣の15名を委員とした。
挙国一致の体制を以て児玉内閣は第39議会に臨んだ。欧州派兵に向けて積極的な憲政会(同志会が他小党(中正会・公友倶楽部)と合同して改組。総裁加藤高明。)と消極的な政友会と言う関係で始まった帝國議会は、欧州派兵に関する予算案とそれを裏付ける増税案を含んでいた。これに対して政友会側が難色を示した。欧州派兵に対しては半ば決定事項であったので、増税の規模を縮小することで派兵規模も縮小することで骨抜きにしようと考えていた。この動きに犬養毅率いる立憲国民党も同調し、明治以来の民力休養を合言葉に政府批判を強めた。これに対して与党憲政会は、「同盟国である英国を助け、帝国の威信を世界に轟かす」、「極東の憲兵から世界の憲兵へ」、「世界最強のドイツ陸軍との決戦」、「海軍の大捷に続け」、「戦争に貢献し、列強入りを果たす」などと言った美辞麗句を以てマスコミを扇動し、議会外での運動を強めた。
しかし、児玉は無理をしなかった。臨時外交調査会の席上で、欧州派兵に関する予算案の一部を削減しつつも、その分を予備費としてプールする。その上で予算を成立させ、予備費を原資とした補正予算の成立を懸けて総選挙を実施することを述べた。大正6年1月25日、衆議院は解散され、4月20日投票日となった。その結果、憲政会は第一党を維持したが、7議席減となった。政友会は議席を伸ばし、第二党を維持した。
解散から投票日までの間に外交的に大きな問題が生じた。ロシア二月革命の勃発である。ロシアの政情不安は日に日に悪化し、児玉首相は対露外交の重要性が増したと判断した。その結果、外務大臣が元駐露大使の本野一郎子爵に交代となった。ロシア革命は、ついにはロシア皇帝ニコライ二世の退位に行きつくに至り、参謀本部内ではロシア救援作戦について計画し始めた。これを後押ししたのが陸軍の長老にして元老の山縣有朋であった。日露戦争を参謀総長として戦い抜いた山縣は、日露協約に基づく日露の友好関係が破綻し、ロマノフ王朝に代わるロシアが対日復讐戦を考えだすことを恐れた。この件に関しては、新たに外相となった本野も同意見であった。外交調査会では、欧州派兵が既定路線となっている以上と二方面作戦となるための、戦費増大に反対論が多く、時期尚早として作戦についての考究を続けることのみが決定された。
総選挙後、直ちに議会が召集され、欧州派兵に関する臨時予算が提出された。欧州派兵は既定路線であったため、予算は難なく衆議院を通過する。しかし、貴族院において、ロシアの動向を気にする山縣の意を組んだ議員からロシア方面出兵の質問があり、審議が一時中断するという事態が起こった。衆議院で予算が通過後、参謀本部は直ちに動員準備を発令した。7月10日に臨時予算が成立すると、翌11日動員令が発令され、戦時編成を完了した2個師団が輸送船に乗り、欧州へと向かっていった。
ロシアの政情不安は、ついに10月革命によりボリシェヴィキ政権が成立するに至った。2月革命で成立したロシア臨時政府は、ニコライ2世を退位させたが、帝政を完全に廃止する予定ではなかった。臨時政府は、ニコライ2世の弟ミハイル大公に接触し続け、立憲君主としての即位を要請していた。ロシアの政情不安からミハイル大公は、現時点での即位には応じない姿勢を貫いていたが、10月革命によってこの構想自体が破綻した。帝政復帰の余地を残していたロシア臨時政府は瓦解し、レーニン率いるボリシェヴィキが権力を掌握する。劣勢に立たされた臨時政府残党が東に逃れると、ペトログラードは一気に政治的空白地帯となった。すると今度はレーニンとレーニン以外の集団で内部闘争が始まり、ペトログラードは混乱のるつぼと化した。
10月革命の勃発により、山縣はロシア救援から手を引いた。山縣は、ロシアの混乱は長引くと予想し、その間に東方大公としてシベリア地方に根を張るヴォストークニイ=ロマノフ家を中心とした国家をロシアとの緩衝国家として独立させることで、日本の安全を確保しようとした。しかし、参謀本部の見解は違った。既に二個師団を欧州に派兵しているため、東部戦線が落ち着けば、その分西部戦線の戦闘が激化し、派遣部隊の被害も増大すると考えた。このため、積極的に東方大公家を支援し、白軍と合流させたうえで西進させ、東部戦線を再び構築させることを望んだ。本野外相もかつての赴任地ロシアの凋落を好まなかったということもあり、また駐仏公使だったことから、フランスとの縁もあり、西部戦線の激化をさけたかったということから、ロシア救援の出兵を主張した。
二方面の出兵となることは児玉は賛成しなかった。そして、欧州方面よりも対米関係を重視する姿勢を見せていた政友会もまた賛成しなかった。当時、アメリカでは黄禍論が唱えられ始め、極東で力をつけてきた日本を、アメリカが警戒して言たことから、アメリカの警戒心を招くような出兵は避けるべきと彼らは主張していた。
大正7年4月26日、ニコライ2世一家がトボリスクからエカチェリンブルクへと移送される途中で襲撃され、皇帝一家の身柄が攫われるという事件が勃発した。後に、彼らの身柄はシベリアのステッセルグラード市内にあるヴォストークニイ=ロマノフ家の屋敷(現:ヴェルフネウジンスク宮殿)に送られた。ニコライ2世が奪還されたことは、レーニンにとっては問題であり、反レーニン派からの攻撃を受けた。これにより、レーニンによる反対派への粛清は日に日に激しくなり、ボリシェヴィキ内部での抗争は激化する。それに伴い、一般市民に対する抑圧も厳しくなり、ロシア国民はボリシェヴィキを恐れるようになった。更には、ロシア皇族の中でも民衆に人気のあったニコライ2世の弟ミハイル大公を殺害するという事件が起こると続々とロシア貴族の亡命や白軍への参加が増していった。
ロシア革命の様子については、新聞各紙は詳細に伝えていた。政府はこれに検閲をかけなかった。ロシアと同じく日本は君主国であり、君主と皇族に対する不敬・大逆を許すような背景がなかったため、反ボリシェヴィキ感情を高めるために、参謀本部の強い意向で、革命を肯定的に評価するような社説を除いて、内務省は検閲を緩めた。
ニコライ2世一家の救出、ミハイル大公の殺害といった事件を経て、児玉首相は政策を転換した。イギリス、フランス、アメリカに対してロシア救援の為の共同出兵を提案した。外交調査会の席で原は、共同出兵にアメリカが参加することを絶対条件とすることでシベリアへの出兵を了承した。斯くして、大正7年8月2日、帝國政府はシベリアへの出兵を宣言するに至った。
ドイツは、大正7(1918)年3月3日、ボリシェヴィキ政府とブレスト=リトフスク条約を結び、講和した。これにより、東部戦線に片を付けたドイツ軍は西武戦線への戦力転換を容易にした。3月21日、ドイツ軍は春季攻勢の緒戦であるミヒャエル作戦を発動した。ドイツ軍は英仏両軍の間隙を突くことに成功し、8日間の戦闘により65キロもの前進に成功した。パリ東方100キロに到達したドイツ軍は、1914年以来初めてパリを砲撃の射程圏内に収めた。3門のクルップ製超大型列車砲がパリに183発の砲弾を撃ち込み、多くの市民がパリから脱出した。ヴィルヘルム2世は3月24日を国民の祝日であると宣言した。このとき、ドイツ人の多くが勝利を確信した。しかし、進撃速度に補給線が追いつかず、またドイツ軍の激しい消耗で攻勢は止まってしまった。
英仏両軍はドイツの攻勢を受けて、ここへきてようやく指揮系統の統一に合意した。ドゥラーズ会議で聯合国軍最高司令部が設置され、総司令官にフランス軍のフェルディナン・フォッシュが任命された。イギリス軍司令官ダグラス・ヘイグはフォッシュに彼の軍の指揮を委ねた。しかし、日米両軍は最高司令部の統帥に復復することを拒否した。日本軍は、日本軍の統帥は唯一大元帥陛下によってのみなされるものとして他国の容喙を許すことは軍制度上できないとして、極めて真摯な協力のみを約束した。アメリカ軍は、英仏両国ではドイツ軍を抑えきれないので、アメリカに参戦要求があったのであり、この上遠征軍の指揮迄まで要求すると言うのはいかがなものかと不満を訴え、彼らが下に就くならまだしも、彼らの下に就くことはできないとした。
7月15日、ドイツ軍は聯合国軍の戦線突破を意図して、第二次マルヌ会戦が勃発する。戦闘は、当初ドイツ軍の優勢となるが、攻勢により形成された戦線突起部に対して聯合国軍は攻勢をかける。戦線はじわじわとドイツ軍が押され気味になり、聯合国軍による攻撃はこれまでに見ない成功を収めたかに見えたが、シャトウチェリーに布陣していたアメリカ軍が瓦解し、戦線の突破に失敗した。ドイツ軍は最終的に会戦前の戦線維持に成功するという痛み分けで終わった。
第二次マルヌ会戦の2日後の8月8日から、今度は聯合国軍の攻勢が実施され、アミアンの戦いが開始された。聯合国軍は600輌以上の戦車と800機の飛行機を使用して奮戦していた。この際、日本軍はドイツ軍陣地に夜襲を決行し、一気に戦線突破を図ろうとした。突然の襲撃にドイツ軍も驚き、夜襲は成功したかにみえた。電信でこの報を聞いた聯合国軍最高司令部も英仏軍を即座に動かしたが、ドイツ軍は混乱を治めて対応した。これらに遅れてアメリカ軍も戦闘へと突入したが、夜襲への準備不足であったためか、攻勢に失敗し、アメリカ軍の戦線は瓦解した。これを幸いとドイツ軍が再度戦線を押し返したが、両軍ともに息切れとなる。
シベリア出兵、西部戦線停滞、そして、児玉首相に米騒動が襲い掛かった。大正7年7月に富山県で起こった米の廉売運動は、8月10日の京都市と名古屋市の廉売運動を皮切りに全国の都市に波及した。政府は13日に1000万円の国費を米価対策資金として支出することを発表し、各府県庁に向けて米の安売りを実施させた。16日には、農商務大臣が米穀類を強制買収し得る穀類収用令を緊急勅令として公布し、更なる手を打った。児玉首相は10日の騒動発生を知り、直ちに手を打っていったが、運動が全国に波及するにつれて疲労の色を濃くしていった。
生活必需品たる米の不足に端を発する騒動は、次第に炭鉱労働夫の労働争議に飛び火した。労働争議の発生に枢密院が敏感に反応した。ロシア革命に関する報道の検閲の不十分が、労働争議の発生を招いたのではないかとして、枢密院は児玉に政策の修正を要求した。
欧州大戦における西部戦線の停滞と米騒動への対処、シベリアから進む救露軍への手当と様々なことが児玉には重なっていた。ついには9月15日、ドイツ軍がパリを列車砲の射程に収めたままで、ドイツ首相マックス・フォン・バーデン公爵が、平和に対する声明を発表した。聯合国に対して講和を打診した。ドイツ政府は、連合国が休戦に応じれば、すぐさまパリへの砲撃を停止し、パリの地にて全交戦国による名誉ある講和を前提とする会議に出席する用意があると主張した。中央同盟国はこのころすでに全国家で継戦能力の限界を迎えていた。
声明に対してフランス国内は二分した。フォッシュ元帥をはじめとする対独強硬派はドイツの継戦能力が限界にきていることを主張し、反撃を行えば有利に転じることを主張した。一方、パリを重砲の射程下に置かれ、避難民となったパリ市民をはじめとする国民の半数は、長年にわたる戦争に疲弊し、講和を望む声が高まっていった。英仏はドイツに対して決定的な勝利を得る期待が未だもてなく、また継戦も難しいと判断した。
このような情勢下で9月20日、児玉が再び卒中で倒れた。意識はすぐに回復したものの、左下肢のみであった麻痺が左半身へと増悪し、最早首相の任に堪えられないと判断された。直ちに副総理として入閣していた山本権兵衛が総理大臣臨時代理として後継首班成立までの間、内閣の指揮を執った。退陣の直接の原因は、児玉首相の健康問題ではあった。しかし、直前に米騒動が起こったこともあり、憲政会を形式的に与党としていた関係上、次期首班は政友会から出すのが至当とされた。そして、欧州大戦が終結に差し掛かっていると判断されたことから軍人内閣を継続するのは不適当と考えられ、立憲政友会総裁の原敬に大命が降下した。
▽在任中の主な出来事
・臨時外交調査会
・石井=ランシング協定
・シベリア出兵
・米騒動
・
▽内閣の出した主な法令
・障碍者援護法
・
・
▽内閣の対応した帝國議会
第39回帝國議會・通常会
日程
召集:2576(大正5・1916)年11月10日(官報公布11日)
集会:2576(大正5・1916)年12月25日
開会:2576(大正5・1916)年12月27日
解散:2577(大正6・1917)年 1月25日
会期:90日、実数30日
議院役員
貴族院議長
5 德川家達
就任:2570(明治43・1910)年12月 5日(再任)
退任:2577(大正 6・1917)年12月 5日(任期満了)
生年:2523(1863)年8月24日(文久3年7月11日)、51歳
出生:武蔵国江戸江戸城田安屋敷(東京都千代田区宮城)
学歴:英イートン・カレッジ
官職:貴族院議員・華族議員(公爵)
会派:火曜会
回数:終身
前職:麝香間祗候
特記:德川家達家初代。
貴族院副議長
7 黒田長成
就任:2575(大正 4・1915)年10月 7日(再任)
退任:2582(大正11・1922)年10月 7日(任期満了)
生年:2527(1867)年6月7日(慶応3年5月5日)、48歳
出生:筑前国福岡(福岡県福岡市)
学歴:英ケンブリッジ大学キングス・カレッジ卒業
官職:貴族院議員・華族議員(侯爵)
会派:無所属
回数:終身
前職:宮内省式部官、福岡県立中学修猷館館長
特記:第12代福岡藩主黒田長知の長男。黒田侯爵家当主
衆議院議長
20 島田三郎
就任:2575(大正4・1915)年5月17日(選出)
退任:
生年:2504(1852)年12月17日(嘉永5年11月7日)、62歳
出生:武蔵国江戸(東京都)
学歴:昌平黌、ブラウン塾、沼津兵学校、大学南校、大蔵省附属英学校
官職:衆議院議員(神奈川県横浜市区)
会派:立憲同志会
回数:13回(1期~13期)
前職:幕臣/元老院書記官、文部省書記官、横浜毎日新聞社長、神奈川県会議長、衆議院議員、衆議院副議長
特記:
衆議院副議長
14 早速整爾
就任:2575(大正4・1915)年12月26日(選出)
退任:
生年:2528(1868)年11月15日(明治元年10月2日)、55歳
出生:広島県沼田郡新庄村(現・広島市西区新庄町)
学歴:広島中学、東京専門学校政治経済英学科(現・早稲田大学)卒業
官職:衆議院議員(広島県広島市区)
会派:中正会
回数:7回(7~13期)
前職:埼玉英和学校校長代理兼教頭、芸備日日新聞社長兼主筆、広島市会議員、同議長、広島県会議員、広島商工会議所会頭、衆議院議員
特記:
第14回衆議院議員総選挙
改選数:398
公示日:2577(大正6・1917)年1月31日
投票日:2577(大正6・1917)年4月20日
選挙制度:大選挙区制(一部1人区制)、秘密投票制
実施地域:48庁府県(北海道(千島列島以外)、樺太庁(豊原町、大泊町など一部以外)、小笠原諸島を除く)
選挙権:
直接国税10円以上納税の満25歳以上の日本国民男性
下記の者は権利の適用除外
華族の当主、現役軍人
禁治産者、破産者、公民権剥奪者及び停止者、刑事被告人
被選挙権:
満30歳以上の日本国民男性
下記の者は権利の適用除外
華族の当主、現役軍人
禁治産者、破産者、公民権剥奪者及び停止者、刑事被告人
宮内官、司法官、会計検査官、収税官、警察官
管轄区内の府県郡官吏
各選挙区の市町村選挙管理担当吏員
神官、僧侶、教師
選挙結果:
憲政会
前回選挙:新党
選挙直前:197
獲得議席:190(△7)
立憲政友会
前回選挙:108
選挙直前:112
獲得議席:137(+25)
立憲国民党
前回選挙:27
選挙直前:28
獲得議席:35(+7)
立憲帝政党
前回選挙:15
選挙直前:15
獲得議席:13(△2)
無所属
前回選挙:
選挙直前:
獲得議席:20
第40回帝國議會・臨時会
日程
召集:2577(大正6・1917)年5月11日(官報公布12日)
集会:2577(大正6・1917)年6月21日
開会:2577(大正6・1917)年6月23日
閉会:2577(大正6・1917)年7月14日
会期:21日、延長1日、実数22日
議院役員
貴族院議長
5 德川家達
就任:2570(明治43・1910)年12月 5日(再任)
退任:2577(大正 6・1917)年12月 5日(任期満了)
生年:2523(1863)年8月24日(文久3年7月11日)、51歳
出生:武蔵国江戸江戸城田安屋敷(東京都千代田区宮城)
学歴:英イートン・カレッジ
官職:貴族院議員・華族議員(公爵)
会派:火曜会
回数:終身
前職:麝香間祗候
特記:德川家達家初代。
貴族院副議長
7 黒田長成
就任:2575(大正 4・1915)年10月 7日(再任)
退任:2582(大正11・1922)年10月 7日(任期満了)
生年:2527(1867)年6月7日(慶応3年5月5日)、48歳
出生:筑前国福岡(福岡県福岡市)
学歴:英ケンブリッジ大学キングス・カレッジ卒業
官職:貴族院議員・華族議員(侯爵)
会派:無所属
回数:終身
前職:宮内省式部官、福岡県立中学修猷館館長
特記:第12代福岡藩主黒田長知の長男。黒田侯爵家当主
衆議院議長
21 大岡育造
就任:2577(大正6・1917)年6月21日(選出)
退任:
生年:2516(1856)年7月4日(安政3年6月3日)、60歳
出生:長門国豊浦郡小串村(山口県下関市)
学歴:長崎医学校(現・長崎医科大学)、講法学舎
官職:衆議院議員(山口県郡部区)
会派:立憲政友会
回数:12回(1期~3期、5期~12期、14期)
前職:代言人/東京府会議員
特記:
衆議院副議長
14 濱田國松 (はまだ くにまつ)
就任:2577(大正6・1917)年6月21日(選出)
退任:
生年:2528(1868)年4月2日(慶応4年3月10日、55歳
出生:三重県伊勢市
学歴:三重師範学校卒業、東京法学院(現・中央大学)卒業
官職:衆議院議員(広島県広島市区)
会派:立憲国民党
回数:6回(9~14期)
前職:小学校教員、弁護士
特記:
第41回帝國議會・通常会
召集:2577(大正6・1917)年11月 9日(官報公布10日)
集会:2577(大正6・1917)年12月25日
開会:2577(大正6・1917)年12月27日
閉会:2578(大正7・1918)年 3月26日
会期:90日、実数90日
議院役員
第40議会に同じ
※但し、貴族院議長德川家達は、2577(大正6・1917)年12月5日に貴族院議長に再任されたため第6代の貴族院議長(4期目)となる。
▽内閣閣僚
内閣総理大臣
24 児玉源太郎
就任:2576(大正5・1916)年10月 9日(新任)
退任:2578(大正7・1918)年 9月29日(内閣総辞職)
生年:2512(1852)年4月14日(嘉永5年閏2月25日)、48歳
出生:周防国都濃郡徳山横本町(山口県周南市児玉町)
学歴:
官職:陸軍中将
会派:
回数:
前職:周防藩士/陸軍大学校長、陸軍次官兼軍務局長、第三師団長、台湾総督
特記:男爵
内閣総理大臣臨時代理
山本権兵衛(やまもと ごんべえ/ごんのひょうえ)
就任:2578(大正7・1918)年 9月22日(総理大臣職務執行不能)
退任:2578(大正7・1918)年 9月29日(内閣総辞職)
外務大臣
30 石井菊次郎
就任:2576(大正5・1916)年10月 9日(留任)
退任:2577(大正6・1917)年 3月20日(依願免本官)
生年:2526(1866)年4月24日(慶応2年3月10日)、49歳
出生:上総国長柄郡真名村(千葉県茂原市)
学歴:千葉中学校、大学予備門、東京帝国大学法科大学法律学科卒業
官職:特命全権大使
会派:
回数:
前職:外務省入省、パリ公使館勤務、仁川領事、清国公使館勤務(義和団の乱に遭遇)、外務省電信課長、兼人事課長兼取調課長、通商局長、外務次官(第1次西園寺内閣、第2次桂内閣)、男爵受爵、駐仏大使、外務大臣(30)
特記:石井邦猷の養子/明治44(1911)年8月24日、男爵受爵
31 本野一郎
就任:2577(大正6・1917)年 3月20日(初入閣)
退任:2578(大正7・1918)年 5月12日(依願免本官)
生年:2522(1862)年3月23日(文久2年2月23日)、54歳
出生:肥前国佐賀郡久保田徳万村(佐賀県佐賀市)
学歴:仏・パリに留学、東京外国語学校、リヨン大学法学部・法学博士
官職:特命全権大使
会派:
回数:
前職:横浜貿易商会仏リヨン支店勤務、外務省翻訳官、法典調査会委員、ロシア公使館一等書記官、 駐白公使、駐仏公使、駐露公使、男爵・勲一等旭日大綬章受章、駐露大使、子爵、外務大臣(31)
特記:明治40(1907)年9月14日、男爵受爵/大正5(1916)年7月14日、子爵陞爵
32 後藤新平
就任:2578(大正7・1918)年 5月12日(転官)
退任:2578(大正7・1918)年 9月29日(内閣総辞職)
生年:2517(1857)年7月24日(安政4年6月4日)、60歳
出生:陸奥国胆沢郡鹽竈村(岩手県奥州市水沢)
学歴:須賀川医学校(現:福島県立医科大学)
官職:貴族院議員・勅選議員
会派:茶話会・立憲同志会会員
回数:明治36(1903)年11月20日勅選
前職:愛知県医学校(現・名古屋大学医学部)勤務医、学校長兼病院長/内務省勤務、内務省衛生局長/臨時陸軍検疫部事務官長、台湾総督府民政長官、南満洲鉄道初代総裁/逓信大臣(15、17)、内務大臣(33)、外務大臣(32)
特記:鉄道院総裁
内務大臣
32 後藤新平
就任:2576(大正5・1916)年10月 9日(再入閣・新任)
退任:2578(大正7・1918)年 5月12日(転官)
生年:2517(1857)年7月24日(安政4年6月4日)、59歳
出生:陸奥国胆沢郡鹽竈村(岩手県奥州市水沢)
学歴:須賀川医学校(現:福島県立医科大学)
官職:貴族院議員・勅選議員
会派:茶話会・憲政会
回数:明治36(1903)年11月20日勅選
前職:愛知県医学校(現・名古屋大学医学部)勤務医、学校長兼病院長/内務省勤務、内務省衛生局長/臨時陸軍検疫部事務官長、台湾総督府民政長官、南満洲鉄道初代総裁/逓信大臣(15、17)、内務大臣(33)
特記:鉄道院総裁
33 水野錬太郎
就任:2578(大正7・1918)年 5月12日(初入閣)
退任:2578(大正7・1918)年 9月29日(内閣総辞職)
生年:2528(1868)年2月3日(慶応4年1月10日)、59歳
出生:武蔵国江戸浅草鳥越町(東京都台東区鳥越)
学歴:共立学校、大学予備門(現・第一高等学校)、帝国大学法科大学(東京帝國大学法学部)卒業
官職:貴族院議員・勅選議員
会派:交友倶楽部・立憲政友会
回数:大正元(1912)年12月5日勅選
前職:第一銀行/農商務省鉱山局、内務省転職、内務社寺局長、地方局長、内務次官、錦鶏間祗候、内務次官、内務大臣(33)
特記:秋田藩士水野立三郎の子
大蔵大臣
26 勝田主計
就任:2576(大正5・1916)年10月 9日(初入閣)
退任:2578(大正7・1918)年 9月29日(内閣総辞職)
生年:2529(1869)年10月19日(明治2年9月15日)、46歳
出生:愛媛県松山市一番町
学歴:勝山学校、伊予尋常中学、第一高等学校、東京帝国大学法科大学卒業
官職:貴族院議員・勅選議員
会派:無所属
回数:大正3(1914)年3月31日勅選
前職:大蔵省入省、主税局属。函館税務管理局長兼税関長、欧州派遣、大蔵省理財局長、大蔵次官、貴族院勅選議員、朝鮮銀行総裁、大蔵大臣(26)
特記:明治生まれ初の大蔵大臣
陸軍大臣
16 大島健一
就任:2576(大正5・1916)年10月 9日(留任)
退任:2578(大正7・1918)年 9月29日(内閣総辞職)
生年:2518(1858)年6月19日(安政5年5月9日)、58歳
出生:美濃国恵那郡岩村町(岐阜県恵那市)
学歴:陸軍士官学校(旧4期)
官職:陸軍中将
会派:
回数:
前職:陸軍砲兵少尉任官、ドイツ留学、砲工学校教官、第1軍副官(日清戦争時)、参謀本部部員、参謀本部第4部長事務取扱、参謀本部第4部長心得、陸軍砲兵大佐、参謀本部第4部長、陸軍少将、参謀本部附、参謀本部第4部長事務取扱、参謀本部総務部長、参謀本部第4部長、参謀次長、陸軍中将、陸軍次官、陸軍大臣(16)
特記:
海軍大臣
11 加藤友三郎
就任:2576(大正5・1916)年10月 9日(留任)
退任:2578(大正7・1918)年 9月29日(内閣総辞職)
生年:2521(1861)年4月1日(文久元年2月22日)、55歳
出生:安芸国広島城下大手町(広島県広島市中区大手町)
学歴:広島藩校修道館(現:私立修道館中学校)、海軍兵学寮(7期)卒業(次席)、海軍大学校甲号1期
官職:海軍中将
会派:
回数:
前職:海軍少尉任官、防護巡洋艦「吉野」回航委員、「吉野」砲術長、海軍少佐、海軍大学校教官、海軍中佐、巡洋艦「筑紫」艦長、海軍大佐、高等教育会議議員、兼海軍省軍務局第二課長、港湾調査会委員、兼海軍臨時建築部部員、海軍省軍務局局員]、第二艦隊参謀長、海軍少将、連合艦隊参謀長兼第一艦隊参謀長、海軍次官、海軍省司法局長、海軍中将、呉鎮守府司令長官、第一艦隊司令長官、海軍大臣(11)
特記:
司法大臣
25 松室致
就任:2576(大正5・1916)年10月 9日(再入閣)
退任:2578(大正7・1918)年 9月29日(内閣総辞職)
生年:2512(1852)年1月22日(嘉永5年1月2日)、64歳
出生:豊前国企救郡松ヶ江村大字畑(福岡県北九州市門司区)
学歴:司法省法学校
官職:貴族院議員・勅選議員
会派:無所属
回数:大正7(1918)年9月21日勅選
前職:司法省出仕、検事総長(7)、司法大臣(21)、法政大学学長、司法大臣(25)
特記:
文部大臣
28 岡田良平
就任:2576(大正5・1916)年10月 9日(初入閣)
退任:2578(大正7・1918)年 9月29日(内閣総辞職)
生年:2524(1864)年6月7日(元治元年5月4日)、55歳
出生:遠江国佐野郡倉真村(静岡県掛川市)
学歴:東京府第一中学、大学予備門、帝国大学文科大学哲学科(現東京帝國大学文学部)卒業、同大学院
官職:貴族院議員・勅任議員(勅選)
会派:
回数:明治37(1904)年8月22日勅選
前職:第二高等中学校教授、文部省視学官、文部省大臣官房報告課長、参事官、山口高等中学校校長心得、同校校長兼文部省参事官、免兼、文部大臣官房会計課長、文部省実業学務局長、フランス派遣、文部省総務長官(文部次官)、兼任普通学務局長事務取扱、貴族院勅選議員、京都帝國大学総長就任、文部次官、錦鶏間祗候、文部大臣(28)
特記:一木喜徳郎の長兄
農商務大臣
23 仲小路廉
就任:2576(大正5・1916)年10月 9日(再入閣)
退任:2578(大正7・1918)年 9月29日(内閣総辞職)
生年:2526(1866)年8月12日(慶応2年7月3日)、50歳
出生:周防国(山口県)
学歴:大阪府立開成学校卒業
官職:貴族院議員・勅任議員(勅選)
会派:無所属
回数:明治44(1911)年8月24日
前職:判事検事登用試験合格、東京地裁検事、東京控訴院検事兼司法省参事官、行政裁判所評定官、逓信省大臣官房長、内務省土木局長、警保局長、逓信次官、農商務大臣(20、23)
特記:
逓信大臣
22 田健治郎
就任:2576(大正5・1916)年10月 9日(初入閣)
退任:2578(大正7・1918)年 9月29日(内閣総辞職)
生年:2515(1855)年3月25日(安政2年2月8日)、61歳
出生:丹波国氷上郡柏原藩領下小倉村(兵庫県丹波市柏原町下小倉)
学歴:
官職:貴族院議員・勅任議員(勅選)
会派:茶話会
回数:明治39(1906)年1月7日勅選
前職:熊谷県下級吏員、警保局官吏、逓信省入省、局長・逓信次官・鉄道会議幹事、同議/関西鉄道社長/錦鶏間祗候、衆議院議員(2回、6期補欠~7期)、逓信次官、逓信大臣(22)
特記:明治40(1907)年9月21日、男爵叙爵
国務大臣(欧州派兵関連軍務担当)
山本権兵衛(やまもと ごんべえ/ごんのひょうえ)
就任:2576(大正5・1916)年10月 9日(再入閣)
退任:2578(大正7・1918)年 9月29日(内閣総辞職)
生年:2512(1852)年11月26日(嘉永5年10月15日)、48歳
出生:薩摩国鹿児島郡加治屋町(鹿児島県鹿児島市加治屋町)
学歴:開成所、海軍操練所、海軍兵学寮(2期)卒業
官職:予備役海軍大将
会派:
回数:
前職:海軍大臣官房主事、海軍大臣副官、海軍省軍務局長、海軍大臣
特記:
国務大臣(欧州派兵関連国内政策担当)
星亨
就任:2576(大正5・1916)年10月 9日(再入閣)
退任:2578(大正7・1918)年 9月29日(内閣総辞職)
生年:2510(1850)年5月19日(嘉永3年4月8日)、61歳
出生:武蔵国江戸築地小田原町(東京都中央区築地)
学歴:横浜英学所、開成所、英ミドル・テンプル
官職:貴族院議員・勅任議員(勅選)
会派:立憲政友会総裁
回数:
前職:幕府大蔵局、横浜税関所長、弁護士、自由党員、駐米公使、外務大臣、逓信大臣/衆議院議員(当選回数9回、2期~10期)、貴族院勅選議員、内閣総理大臣(22)、立憲政友会総裁
特記:実父は左官職人。/明治40年11月、男爵叙爵
内閣書記官長
25 児玉秀雄
就任:2576(大正5・1916)年10月 9日(新任)
退任:2578(大正7・1918)年 9月29日(内閣総辞職)
生年:2536(明治9・1876)年 7月19日、40歳
出生:山口県
学歴:佐倉英学校(現・千葉県立佐倉中学校)、東京府尋常中学校(現・府立一中)、第二高等学校、東京帝国大学法科大学政治学科卒業
官職:
会派:
回数:
前職:大蔵省入省、理財局、臨時煙草製造準備局、大本営御用掛(日露戦争時)遼東守備軍司令部付、満洲軍総司令部付、大蔵省煙草専売局事務官兼大蔵書記官、朝鮮総督府総務部会計課長、秘書官、朝鮮総督府総督官房会計局長、兼秘書官、総務局長、内閣書記官長(26)
特記:児玉源太郎嫡男
法制局長官
21 有松英義
就任:2576(大正5・1916)年10月 9日(新任)
退任:2578(大正7・1918)年 9月29日(依願免本官)
生年:2523(1863)年7月25日(文久3年6月10日)、53歳
出生:備前国御野郡岡山城下(岡山県)
学歴:岡山師範学校卒業、獨逸学協会学校専修科卒業
官職:貴族院議員・勅任議員(勅選)
会派:研究会
回数:1911年8月24日勅選
前職:小学校教員、『自治新報』記者、司法省参事官、農商務省参事官、内務省書記官兼法制局参事官、内務省警保局長、三重県知事、警保局長、貴族院勅選議員、帝室林野管理局長官、枢密院書記官長、法制局長官(20)
特記:




