21代 第三次桂太郎内閣
21代 第三次桂太郎内閣 (2572(大正元・1912)年12月21日~2573(大正2・1913)年5月11日)
▽来歴・概要
元長州藩士。第17代、第19代内閣総理大臣。陸軍大臣。
西園寺内閣が倒れたのは、西園寺と陸軍勢力の確執によるものであった。二個師団増設要求は西園寺内閣倒閣を意図して行われたものではなかったし、陸軍長老の山縣も桂も西園寺内閣の倒閣回避のために動いた。増師要求、陸相単独辞任の結果として起こった西園寺内閣総辞職に対しては、元老各員も困惑した。もともと西園寺は政権に対して淡白であり、権力維持に固執するほうではなかった。この西園寺の政治家としての性質がゆえに、西園寺が首相を続けることに嫌気がさしたと言われている所以である。
西園寺は後任には桂を推挙した。増師問題を扱った西園寺の目からは陸軍の増長が見て取れ、陸軍の長老でもあった桂に陸軍を抑えさせようとしたのである。一方の桂は逡巡した。政党である立憲同志会を組織したばかりで、地方組織も充分に機能しているとは言えない状況である。半年ほど前に行われたばかりの総選挙では、政友会が議会過半数を獲得したばかりで、これに抗するのは厳しい。桂は、議員数と言う観点からも、政友会を勝利させた国民感情と言う観点からも、今桂が政権を取るというのは危険であると認識していた。
山縣は桂首班に賛成しなかった。現在の政治情勢では桂が潰されると考えたからである。山縣にとって、政党を組織した桂は純粋な意味での陸軍閥の後継者とはいえなかった。とはいえ、その政治手腕は認めている。自身の後継として他に上げられるのが、朝鮮総督の寺内正毅陸軍大将と元台湾総督の児玉源太郎陸軍大将であったが、寺内は几帳面で、制度構築や管理といった地味な仕事に対して有能であったが、国家全体を見通す政治家としてはその力量に乏しいと考えられており、児玉は山縣の後継としての力量はあったが、脳溢血を発症後に左下肢に麻痺を生じたため、その才を惜しむ山縣によって軍事参議官入りはさせた(予備役編入ではなく現役維持を図る為)ものの自身の後に陸軍の長老とすることには不安があった。このような状況の為、山縣は桂を失うことを恐れ、桂後継には賛成できなかった。
とはいえ、西園寺内閣総辞職の原因が陸軍にあったことは明白であり、陸軍を操縦できる人物以外にこの難局を指揮できるのはいないというのが、元老内の意見の大勢であり、桂に大命降下の運びとなった。
第三次桂内閣は、政見として、行財政整理の推進、「国防会議」による軍備拡張額管理の制度化や軍務大臣武官制への改正(現役以外に予備役・後備役・退役軍人にも就任資格を拡大)を掲げる。これまでと同様に立憲政友会には、閣外での協力を求めたが、立憲同志会と言う政党を組織した以上幹部以外の政友会の大半は手切れと解釈した。
このころの帝國議会通常会は、前年の年末に召集され、議長副議長委員長を選挙し、それぞれの「院」を成立させた後、年末年始の期間は自然休会に入っていた。第三次桂内閣が臨む第30帝國議会も大正元年12月27日に開院式を迎えた後は、自然休会に入った。大正2年1月21日に帝國議会は再開するが、それまでの間に桂内閣を取りまく、政治情勢は日に日に悪化した。
第二次西園寺内閣末期の後継首相の人選が難航している頃から、今回の政変は陸軍と藩閥政治家、特に山縣の横暴であるという批判が世間では高まった。衆議院と言う帝國憲法上の正当な機関を経由して決められた政策が、陸軍と言う憲法外の機関によって歪められているというのが、この憲政擁護運動の基礎となった。
大正元年12月13日、東京の新聞記者・弁護士らが憲政振作会を組織して二個師団増設反対を決議し、翌14日には交詢社有志が発起人となって時局懇談会をひらいて、会の名を憲政擁護会とした。(交詢社は明治13(1880)年に福澤諭吉が提唱し、結成された日本最初の実業家社交クラブである。慶應義塾の同窓会メンバーが中心となって発会された。)19日の歌舞伎座での憲政擁護第1回大会では、政友会、国民党の代議士や新聞記者のほか実業家や学生も参加し、約3000の聴衆を集めて「閥族打破、憲政擁護」を決議している。この動きは憲政擁護運動、後に第1次護憲運動と呼ばれることとなる。27日には、野党の国会議員や新聞記者、学者らが集まって護憲運動の地方への拡大を決めた。その後、大正2年1月にかけて運動は全国に広がり、日露戦争後の重税に苦しむ商工業者や都市民衆が多数これに参加した。
大衆は、陸軍の長老である山縣が陸軍の拡張(すなわち、二個師団増設)の為に、これに反対する西園寺内閣を潰し、更に、子分である桂を内閣総理大臣に座らせたうえで、桂を操って新党を結成させて、政友会を潰そうとしている、とみなしており、この当時は山縣に批判の声が集中した。政友会は、議会第三党の立憲国民党(犬養毅党首)からの誘いにより、所属党員が憲政擁護運動に加わる。西園寺をはじめとした政党幹部はこれに加わらなかったものの日に日にその運動が拡大していくことになった。憲政擁護運動が地方に拡大すると盤石な地方組織を持つ政友会は次第に地方からの声にも押され、憲政擁護運動に傾斜していくこととなる。
大正2年1月21日の議会再開時、国民党の誘いを受けた政友会が内閣不信任決議案を提出する機先を制して、桂内閣は議会に15日間の停会を命じた。そして、政友会や国民党、藩閥、貴族院などの切り崩し工作を行った。議会停会中に更に護憲運動は過熱した。24日、東京・新富座にて憲政擁護第2回大会が開かれ、会場内に3千人、会場外には2万人の大群衆が詰めかけた。この頃になると、批判の矛先は、山縣だけでなくその手下である(と思われていた)桂も、攻撃の対象となった。議会が再開された2月5日、政友会、国民党などの野党は内閣不信任決議案を提出した。政友会の尾崎行雄議員の有名な弾劾演説はこの時のものである。この趣旨説明の演説の後、議会は再度、5日間の停会となり、議会周辺に詰めかけた群衆の間では騒然とした空気になった。
桂内閣は、加藤高明外相から、明治天皇の諒闇中(服喪期間)であることを理由に政争を中止するよう詔勅を引き出すことを提案される。英国のジョージ5世が即位したころ(1910年)、即位直後を理由に自由党と保守党との政争の中止を命じて、これを実現させたことにならうものであった。これを優詔政策という。2月4日、5日の閣議で議論され、勅語渙発の方針が決まる。8日、桂首相は加藤外相の仲介で西園寺総裁と会談に臨み、優詔が出た場合の政友会の出方を伺う。西園寺も「内閣を取り巻く現状は気の毒であるが、自分の一存で党内を抑えられない(ので、御沙汰を出していただくよりほかにはない)」と、勅語渙発の方向に賛同(黙認)する。2月9日、桂は最終手段として大正天皇の詔勅(優詔、御沙汰)を引き出し、西園寺、原ら政友会首脳も一旦は矛を収めることに同意する。同日、西園寺総裁が参内、大正天皇から御沙汰を受けた。その日の夜、政友・国民両党の幹部が西園寺邸で協議を行い、御沙汰を奉じる他なし、と決議した。一方で、8日には、両国国技館にて第3回憲政擁護大会が開かれ、場内だけで2万人の聴衆が集まった。翌9日、朝から数万人の民衆が停会明けの議事堂を包囲した。
1月半ばごろから桂は政権存続と総辞職の間で悩み、大衆運動の高まりを受けて、桂内閣の進退は行き詰まり、優詔政策の裏では、桂と山縣の間で内閣総辞職の方向で話は進みつつあった。しかし、これに待ったをかけたのが、伊藤であった。伊藤は桂に対して、「大衆が国会議事堂を取り囲み、現実の圧力を以て政権を倒すのは革命であり、立憲政治ではない。ここは我が国立憲政治の正念場である。桂君はこの土壇場に遭って猶も決然として解散総選挙の途を選ぶべきである。なるほど選挙の情勢を鑑みれば、政友会の有利は動かぬだろう。しかし、たとえ敗北するとしても、それでもなお、桂君は暴徒まがいの集団の圧力によって政権を退くのではなく、正々堂々選挙によって退くべきである。」と述べ、解散総選挙を選択するよう促した。内閣総辞職でまとまりかけていた元老会議はこれによりひっくり返され、桂は伊藤の言葉に大いに感銘を受け、解散総選挙の途を選択した。
停会の開けた衆議院本会議において、桂内閣不信任決議に対して桂首相は衆議院議場で自ら反対演説を行い、衆議院解散を行った。この反対演説が始まると、衆議院の議場は喧騒に包まれた。この喧騒を静め、桂首相の演説を聞くようにと衆議院傍聴席から一喝したのが、次に首相となる政友会総務委員の星亨男爵である。
衆議院解散から3か月、大正2年5月5日の日曜日に行われた総選挙において、同志会は解散前議席から4議席を増やし、91議席を獲得した。それでも、政友会の198議席(前回2議席増)の前に敗れたと判断し、桂内閣は総辞職した。
▽在任中の主な出来事
・大正政変
▽内閣の出した主な法令
・
・
・
▽内閣の対応した帝國議会
第30回帝國議會・通常会
日程
召集:2572(大正元・1912)年11月 9日(官報公示9日)
集会:2572(大正元・1912)年12月24日
開会:2572(大正元・1912)年12月27日
停会:2573(大正2・1913)年 1月21日自
2573(大正2・1913)年 2月 4日至(15日間)
2573(大正2・1913)年 2月 5日自
2573(大正2・1913)年 2月 9日至(5日間)
解散:2573(大正2・1913)年 2月10日
会期:90日、実数46日
議院役員
貴族院議長
5 德川家達
就任:2570(明治43・1910)年12月 5日(再任)
退任:2577(大正 6・1917)年12月 5日(任期満了)
生年:2523(1863)年8月24日(文久3年7月11日)、49歳
出生:武蔵国江戸江戸城田安屋敷(東京都千代田区宮城)
学歴:英イートン・カレッジ
官職:貴族院議員・華族議員(公爵)
会派:火曜会
回数:終身
前職:麝香間祗候
特記:德川家達家初代。
貴族院副議長
6 黒田長成
就任:2568(明治41・1908)年10月 7日(再任)
退任:2575(大正 4・1915)年10月 7日(任期満了)
生年:2527(1867)年6月7日(慶応3年5月5日)、45歳
出生:筑前国福岡(福岡県福岡市)
学歴:英ケンブリッジ大学キングス・カレッジ卒業
官職:貴族院議員・華族議員(侯爵)
会派:無所属
回数:終身
前職:宮内省式部官、福岡県立中学修猷館館長
特記:第12代福岡藩主黒田長知の長男。黒田侯爵家当主
衆議院議長
16 大岡育造
就任:2571(明治44・1911)年12月24日(選出)
退任:
生年:2516(1856)年7月4日(安政3年6月3日)、56歳
出生:長門国豊浦郡小串村(山口県下関市)
学歴:長崎医学校(現・長崎医科大学)、講法学舎
官職:衆議院議員(山口県郡部区)
会派:立憲政友会
回数:10回(1期~10期)
前職:代言人/東京府会議員
特記:
衆議院副議長
12 関直彦
就任:2568(明治41・1908)年12月23日(選出)
退任:
生年:2517(1857)年9月4日(安政4年7月16日)、55歳
出生:武蔵国江戸(東京都)
学歴:東京大学法学部法律科卒業
官職:衆議院議員(東京府東京市区)
会派:立憲国民党
回数:6回(1期~2期、6期、9~11期)
前職:東京日日新聞記者、日報社社長/弁護士資格取得、東京弁護士会長/東京日日新聞・大阪日日新聞・帝国石油各社長/麹町区会議員、東京市会議員、同参事会員、東京府会議員、衆議院議員
特記:紀州藩士関平兵衛の次男
第12回衆議院議員総選挙
改選数:395
投票日:2573(大正2・1913)年5月5日
選挙制度:大選挙区制(一部1人区制)、秘密投票制
実施地域:48庁府県(北海道(千島列島以外)、沖縄県(沖縄本島以外)、樺太庁(豊原町、大泊町など一部以外)、小笠原諸島を除く)
選挙権:
直接国税10円以上納税の満25歳以上の日本国民男性
下記の者は権利の適用除外
華族の当主、現役軍人
禁治産者、破産者、公民権剥奪者及び停止者、刑事被告人
被選挙権:
満30歳以上の日本国民男性
下記の者は権利の適用除外
華族の当主、現役軍人
禁治産者、破産者、公民権剥奪者及び停止者、刑事被告人
宮内官、司法官、会計検査官、収税官、警察官
管轄区内の府県郡官吏
各選挙区の市町村選挙管理担当吏員
神官、僧侶、教師
選挙結果:
立憲政友会
前回選挙:209
選挙直前:196
獲得議席:198(+2)
立憲同志会
前回選挙:新党
選挙直前:87
獲得議席:91(+4)
立憲国民党
前回選挙:95
選挙直前:32
獲得議席:29(△3)
中央倶楽部
前回選挙:31
選挙直前:23
獲得議席:21(△2)
立憲帝政党
前回選挙:18
選挙直前:15
獲得議席:15(±0)
無所属
前回選挙:
選挙直前:23
獲得議席:41
▽内閣閣僚
内閣総理大臣
21 桂太郎
就任:2572(大正元・1912)年12月21日(新任)
退任:2573(大正2・1913)年 5月11日(内閣総辞職)
生年:2508(1848)年1月4日(弘化4年11月28日)、64歳
出生:長門国阿武郡萩町(山口県萩市)
学歴:ドイツ留学
官職:予備役陸軍大将
会派:立憲同志会・総裁
回数:
前職:長州藩士/陸軍次官、第三師団長、台湾総督/内閣総理大臣(17、19、21)
特記:子爵/外務大臣兼任
外務大臣
25 桂太郎
就任:2572(大正元・1912)年12月21日(再入閣・兼任)
退任:2573(大正2・1913)年 1月29日(免兼)
※内閣総理大臣兼任
26 加藤高明
就任:2572(大正元・1912)年 1月29日(再入閣)
退任:2573(大正2・1913)年 5月11日(内閣総辞職)
生年:2520(1860)年1月25日(安政7年1月3日)、53歳
出生:尾張国海東郡佐屋(愛知県愛西市)
学歴:名古屋藩立洋学校(現・愛知県第一中学校)。東京外国語学校(現・東京外事専門学校)。東京大学法学部(現・東京帝國大学法学部)首席卒業。
官職:特命全権大使/
会派:立憲同志会
回数:
前職:三菱入社、三菱本社副支配人/大隈外相秘書官兼政務課長、駐英公使、外務大臣(17)、東京日日新聞(後の毎日新聞)社長、衆議院議員/駐英大使/外務大臣(26)、
特記:男爵
内務大臣
28 大浦兼武
就任:2572(大正元・1912)年12月21日(再入閣・新任)
退任:2573(大正2・1913)年 5月11日(内閣総辞職)
生年:2510(1850)年6月15日(嘉永3年5月6日)、62歳
出生:薩摩国薩摩郡宮之城郷(鹿児島県薩摩郡さつま町宮之城屋地)
学歴:
官職:貴族院議員・勅任議員(勅選)
会派:茶話会
回数:
前職:薩摩藩士/警視庁警部、大阪府警部長、内務省警保局次長/島根県知事、山口県知事、熊本県知事、宮城県知事、警視総監、逓信大臣(12)、農商務大臣(18)、内務大臣(28)
大蔵大臣
21 若槻禮次郎
就任:2572(大正元・1912)年12月21日(初入閣)
退任:2573(大正2・1913)年 5月11日(内閣総辞職)
生年:2526(1866)年3月21日(慶応2年2月5日)、55歳
出生:出雲国松江雑賀町(島根県松江市雑賀町)
学歴:司法省法学校首席卒業、帝国大学法科大学(現:東京帝國大学)首席卒業
官職:貴族院議員・勅任議員(勅選)
会派:立憲同志会
回数:明治44(1911)年8月24日
前職:大蔵省入省、愛媛県収税長、大蔵省主税局内国税課長、主税局長兼行政裁判所評定官、大蔵次官、錦鶏間祗候
特記:松江藩下級武士(足軽)奥村仙三郎、クラの次男。叔父・若槻敬の養子。
陸軍大臣
13 木越安綱
就任:2572(大正元・1912)年12月21日(初入閣)
退任:2573(大正2・1913)年 5月11日(内閣総辞職)
生年:2514(1854)年4月22日(嘉永7年3月25日)、56歳
出生:加賀国石川郡金沢(石川県金沢市)
学歴:陸軍教導団、陸軍士官学校(旧1期)卒業、ドイツ留学
官職:陸軍中将
会派:
回数:
前職:陸軍歩兵少尉任官、第3師団参謀(師団長桂太郎)、陸軍省軍務局軍事課長、台湾補給廠長、台湾総督府陸軍幕僚参謀長、陸軍省軍務局長、歩兵第23旅団長、第5師団長、第1師団長、陸軍大臣(13)
特記:明治40(1907)年9月21日、男爵叙爵
海軍大臣
9 斎藤實
就任:2572(大正元・1912)年12月21日(留任)
退任:2573(大正2・1913)年 5月11日(内閣総辞職)
生年:2518(1858)年12月2日(安政5年10月27日)、49歳
出生:陸奥国胆沢郡塩竈村(岩手県奥州市水沢吉小路)
学歴:海軍兵学寮(6期)卒業
官職:海軍中将→海軍大将
会派:
回数:
前職:米国留学兼駐米公使館付駐在武官、海軍次官、兼海軍省軍務局長、兼艦政本部長
特記:
司法大臣
21 松室致
就任:2572(大正元・1912)年12月21日(初入閣)
退任:2573(大正2・1913)年 5月11日(内閣総辞職)
生年:2512(1852)年1月22日(嘉永5年1月2日)、60歳
出生:豊前国企救郡松ヶ江村大字畑(福岡県北九州市門司区)
学歴:司法省法学校
官職:
会派:
回数:
前職:司法省出仕、検事総長(7)、司法大臣(21)
特記:
文部大臣
21 長谷場純孝
就任:2572(大正元・1912)年12月21日(初入閣)
退任:2573(大正2・1913)年 5月11日(内閣総辞職)
生年:2514(1854)年4月27日(嘉永7/安政元年4月1日)、54歳
出生:薩摩国日置郡串木野郷(鹿児島県串木野市)
学歴:薩摩藩校造士館
官職:衆議院議員(鹿児島県郡部)
会派:立憲政友会
回数:10回(1期~10期)
前職:鹿児島県会議員、衆議院議員、衆議院議長(14)
特記:
23 柴田家門
就任:2572(大正元・1912)年12月21日(初入閣)
退任:2573(大正2・1913)年 5月11日(内閣総辞職)
生年:2523(1863)年2月6日(文久2年12月18日)、49歳
出生:長門国萩城下平安古(山口県萩市平安古東区)
学歴:大学予備門(第一高校)、東京帝国大学法科大学卒業
官職:貴族院議員・勅任議員(勅選)
会派:茶話会
回数:明治36年7月15日勅選
前職:内閣書記官、法制局参事官、行政裁判所評定官、内務省地方局長、内閣書記官長(18、21)、文部大臣
特記:
農商務大臣
20 仲小路廉
就任:2572(大正元・1912)年12月21日(再入閣)
退任:2573(大正2・1913)年 5月11日(内閣総辞職)
生年:2526(1866)年8月12日(慶応2年7月3日)、49歳
出生:周防国(山口県)
学歴:大阪府立開成学校卒業
官職:貴族院議員・勅任議員(勅選)
会派:
回数:明治44(1911)年8月24日
前職:判事検事登用試験合格、東京地裁検事、東京控訴院検事兼司法省参事官、行政裁判所評定官、逓信省大臣官房長、内務省土木局長、警保局長、逓信次官
特記:
逓信大臣
17 後藤新平
就任:2572(大正元・1912)年12月21日(再入閣)
退任:2573(大正2・1913)年 5月11日(内閣総辞職)
生年:2517(1857)年7月24日(安政4年6月4日)、55歳
出生:陸奥国胆沢郡鹽竈村(岩手県奥州市水沢)
学歴:須賀川医学校(現:福島県立医科大学)
官職:
会派:
回数:
前職:愛知県医学校(現・名古屋大学医学部)勤務医、学校長兼病院長/内務省勤務、内務省衛生局長/臨時陸軍検疫部事務官長、台湾総督府民政長官、南満洲鉄道初代総裁/逓信大臣(15、17)
特記:兼鉄道院総裁、兼拓殖局総裁
内閣書記官長
23 江木翼
就任:2572(大正元・1912)年12月21日(新任)
退任:2573(大正2・1913)年 5月11日(内閣総辞職)
生年:2533(明治6・1873)年12月 5日、39歳
出生:山口県御庄村(山口県岩国市)
学歴:山口中学校、山口高等中学校予科・本科卒業、東京帝国大学法科大学英法科卒業、東京帝国大学法科大学英法科修了
官職:
会派:
回数:
前職:内務省入省、神奈川県事務官、法制局参事官、拓殖局部長、内閣書記官長(23)
特記:旧姓羽村。江木千之の養子。明治改暦後初の内閣書記官長
法制局長官
17 一木喜德郞
就任:2572(大正元・1912)年12月21日(再任)
退任:2573(大正2・1913)年 5月11日(依願免本官)
生年:2527(1867)年5月7日(慶応3年4月4日))、45歳
出生:遠江国佐野郡倉真村(静岡県掛川市)
学歴:帝国大学法科大学卒業、ドイツ留学
官職:貴族院議員・勅任議員(勅選)
会派:研究会
回数:明治33(1900)年9月26日勅選
前職:帝国大学法科大学教授/内務省大臣官房文書課、県治局員、参事官、参与官、法制局長官(13、17)
特記:




