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不死鳥の献身

作者: 諭吉

 彼は底の抜けたような青空を背中にして、両の腕を控えめに広げた。

 照りつける七月の日差しが彼の顔を影にして、その輪郭は燃えるようだった。


 翼を開いた不死鳥は呆気にとられる私を見下ろして、ふっと微笑んだ。


「な、言ったろ?」


 彼の長い睫毛がふるふると震えるのが見えた。それがどうして分かったのか、他に見るべき場所はあったはずなのにどうして彼の顔を構成するパーツの中で最も小さい面積を占めるにすぎない睫毛を私の瞳が捉えて放さなかったのか、それはわからないけれど、とにかく彼の睫毛はふるふる、そしてぴくりと動き、私に何か彼の心の中で揺蕩うものを伝えようとしていた。


 動けないでいる私と少しの間視線を重ねた後、彼は腕から力を抜いて、さっきまで背中にしていた青空の方を振り返った。感情の指標だった睫毛が私の視界から遠のき、角張った鼻筋が一瞬だけ彼の輪郭になって、そしてすぐに汗の浮き出る首筋と広い背中に取って代わられた。彼は一歩、二歩と草の刈り込まれた丘をその先に広がる空に向かって下った。まるで波のない湖の中に白色の衣を纏って歩を進めるような、そんな神聖性をその歩みに重ねてしまうのは、きっと私の心も理性も彼を「そういう」存在として認めてしまったからなのだろう。

 彼の顔があった位置に新たに出現した太陽の光が私の目を突き刺して、それで私は反射的に顔をそむけた。私たちがいる場所からほど近いところで遊ぶ小さな子どもたちとその母親の姿が、草原の中に際立っていた。


 かららん、と音が小さく響いた。

 それは彼が履く靴の金具が金属製のフェンスとぶつかりあって響く音だと、私は知っている。


 慌てて視線を彼の方に戻す。

 しかし、今度の彼はフェンスのこちら側にいた。


「また死んでくるか?それとも」

「いいよ、これ以上疑う理由なんてどこにもない」

「おし、分かってくれたならいいんだ」


 私が久方ぶりの言葉を発すると、彼はふうと息を吐いてフェンスに体重を預けた。

 彼の姿は、あの日と寸分も違わない。学校指定の白シャツに、季節にそぐわない厚手のジャージ、そして私が誕生日プレゼントとして選んだ腕時計までつけている。


「じゃあ次に死ぬのは穂乃が俺を殺すときだな」


 そうやって私に優しい言葉を告げて、そして彼はまた微笑む。時は経ったというのに、もう忘れ去ろうとしていたというのに、彼の懐かしい表情は私の凍った記憶を呼び覚ます。

 ああ、彼はいつもこうして私に笑ってくれていた。

 私が笑えば、彼も笑ってくれた。

 私が優しくすれば、彼は底抜けに喜んでくれた。

 だから、その顔は、私にとっては輝かしい記憶たり得ない。


 私はようやく立ち上がり、尻に張り付いた草の切れ端を手で払った。ゴワゴワしたスカートの布地を通して与えられる自らの皮膚への刺激は、いくらか私の精神を現世に引き戻すのに効果を発揮してくれた。

 冷静になろうと努めつつ、一度彼から目をそらし、少し前に学んだ手続きの記憶を頭の中で繰りながら丘を下る。


「もしほんとうにその気だって言うなら、だけど。さっき死んでくれたけれど、今のところリクが落ちた辺りに『魂』の気配が感じられない。だから、できることなら、なんとか私の観測できる範囲でその成分を死体の中に封じておいて欲しい」


 かつて己の恋人であった存在に対して告げるには、その注文はあまりに無情である事はわかりきっていた。

 それでも、私に許される発言はこの他にない。


「『魂』を封じるってのはちょっとよくわかんないな。直接殺すんじゃいけないのか?」


 彼は初めて不思議な顔を浮かべた。まるでこの世の理をすべて理解したような気分でいたのだろうから、そうなってしまうのも詮ないことだろう。

 でも、私たちの遙かな昔から編まれてきた知識には彼たちが知り得る世界の境界線というのも積み上げられている。今の私にとっては、とても残念なことに。


「『記憶』、『感情』、『自我』。名前は正直なんだっていいし、在り方もなんだっていいけど。とにかくそういう、不死鳥が蘇るときにまず知覚されるものっていうのは、私たちが直接貰えるモノじゃないんだ」


 私は必要な情報を伝えた。

 リクは、うーん、と唸った。


「そしたら俺はどうすればいい?」


 彼は眉をすこし寄せて不安げな表情を作った。それは与えられた玩具を壊してしまった小さな子どもが浮かべる表情にも似ていて、初めて目にする彼のそんな表情に、私は思わず、また彼との時間を過ごしたいと願った。

 しかし、絆されそうになる本能は押さえつけられ、私は彼に決定的な一言を告げることになる。


「一人じゃ難しいから、私がリクの『魂』に最初から細工をするの。普通は拒絶されるんだけど、もし本当にリクが私に『魂』を刈り取られてもいいと思っているなら、自然にかかるはず、なんだって。一種の契約みたいなものだって思ってくれれば良いのかな」


 これで彼が首を縦に振った瞬間に、私は死神の定めとして、彼を殺さなくてはならなくなる。冗談みたいな確率の末にいまここに現れた未来を、自分の手でもって霧散させることになる。


「そっか、じゃあ、頼むわ」

「…わかった」


 彼と私の運命を決定づけるための会話は、まるで教科書を貸し借りするくらいにあっさりと、二人の間で完結した。

 他に確認を取るべき存在がいるかと言われれば、別にそういう訳ではない。既に私も彼もこの世界に身寄りなど居ないわけで、意思決定の権利は完全に自分自身に付属している。

 だからこれは純粋に彼が望んだことで、私はそれに応えただけ。それ以上の何でもない。


 私は彼に向かって手を伸ばして問う。

「頭か胸に触れる必要があるんだけど、どっちがいい?」

「好きな方選びなよ」

「…じゃあ頭で」

「おう。変な間があったのは実は胸の方が良かったとか?へへ、今も鍛えてんだぜ」


 そう言って、彼はシャツの生地を押し出すように胸を張った。彼が事ある毎にご立派な筋肉を触らせようとして、私がそれをあしらうというのは、私達にとってある意味では挨拶のようなものだった。

 今はもう、遠い昔の話だ。


 震える右の手を頭に伸ばす。彼は笑顔を薄れさせ、そっと頭を垂れた。

「こうすれば、穂乃は苦しまずに済むんだよな」


 その言葉を聞いた瞬間に、私の中で一つの堰が壊れる音がした。


「かわりにリクが消えてしまう」

 私はリクの額に重なった、色の薄れて半透明になった己の手のひらを視界に入れないようにしながら答えた。


 保ってあと一月。それが冥府の長が告げた私の残り寿命だった。

 人を刈れない死神に存在価値などない。

 

 彼に連れられて私を封じ込めていた冷たい家から逃げ出したあの日、二人乗りのバイクで私達のことを追いすがるパトカーから逃れようとして崖を転がり落ちた後、私は死神としてこの世に蘇った。


 死んだ後、死神になるための条件はたった一つ。

 生前に人を殺した経験があること。

 その償うことのできない罪を犯したことへの罰として、死神は寿命を迎える前の魂を刈り取るという永遠の定めを与えられる。それは世界の正しい循環のために必要な間引きだが、しかし望まぬ死を与えられる人々の悲鳴や苦痛を我が物とする任を正気のままに遂行し続けるのは不可能に等しい。無限の時間と苦悩の末に心をすり減らし手を止めたなら、役立たずの死神には「無」が与えられる。何も感じない、何も変わらない、永劫の牢獄。


 善良な一般女子高校生として十七年の短い人生を終えたはずの私が他人を殺めたとすれば、その相手はたった一人しかいない。


「いいんだ、身を捧げようって決めたのは俺なんだから」


 不死鳥は笑う。

 死んだ後、不死鳥になるための条件はたった一つ。

 人生を他人の手によって終わらせられること。

 その抱えきれない無念を一身に引き受けさせられたことへの神からの償いとして、不死鳥には永遠の自由が与えられる。世界を自由に飛び回り、長い時間を過ごすことに飽いたならば、この世・あの世問わずに生まれ変わり、新たな生を謳歌することが許される。


 繰り返された衝撃の後に手の中に抱えていたはずの温もりが消え、意識を失う直前に目の前におびただしい量の血と肉が降ってきたあの瞬間を、私は今でも鮮明に思い出せる。


「私が貴方を殺したのに」

「違う、俺達は二人で死んだ。その罪を穂乃が一人で背負う必要はないんだ」


 ああ、どこまでも彼は私を温かい場所へと誘う。

 それが何を意味するのか、分かっていない彼ではないのだろう。


 死神が罪を許され、永遠の無から逃れるための条件はたった一つ。

 不死鳥の魂を刈り取ること。

 刈り取られた不死鳥の魂は、死神の中に囚われる。それは「自由」などとはほど遠い、不死鳥にとっての死と同義である。

 それでも尚、自由の象徴たる不死鳥が死神に己の魂を捧げるとき、神は不死鳥の願いを汲む。

 即ち、


「俺が穂乃の罪を赦す」


 私は駄々をこねるように首を横に振った。


「私はもうリクを殺したくない」

「俺は消えるかもしれないけれど、俺だったものはここに残る」


 リクは私の胸をそっと握りこぶしで叩いた。その確かなメッセージに、私は唇を結んだ。

 必死の抵抗も空しく、リクの額に合わせた手には契約のための力が集まっていく。

 

 不死鳥は死神に対しての絶対的な命令権を有する。

 不死鳥は「自由」だ。誰を生かすも、誰を殺すも。

 罪人に自由を侵す権利はない。


 だから、もしリクが「俺を殺せ」と言うなら、私はそれに応じるしかない。


「それは今ここにいるリクじゃない。私が一人で消える方が、ずっとずっといい。それか、私がちゃんとした死神になって真面目に魂を刈り取れば、少なくともその間は私は消えることはない」

「なぁ、落ちこぼれの死神様」


 唯一自由に操れる言葉を以ってリクを殺さないための理由を連ねても、リクの顔は微塵も揺らがない。


「俺は穂乃のことをずっと見ていたんだ。冥府で「誰も殺さない」って誓ったところも、先輩たちに腑抜けだっていびられながら耐え忍んできたところも、自分の身体が消える恐怖に震えながらくじけなかったところも。俺はただ穂乃を好きだからこうしてるわけじゃない。不死鳥として穂乃を認められると決めたから、今、願ってるんだ」

「契約が、かかっちゃうの。止めて」


 私の喉から最後の抵抗が殆ど叫びとなって溢れ、辺り一帯に響いた。しかしそれを音として感じられるのは私とリクの二人だけで、丘上の広場は今も子どもたちの笑い声で満ちている。そこには鮮烈なまでの生の気配だけがあって、死神にとっては何の力の足しにもならない。


 そして、私の手は確かな手応えをリクの額と『魂』から感じ取った。

 ようやく神経に信号が通ったのか、自由が利くようになった手が今更ピッと引き戻された。

 呆然として半透明の手を見つめる私の前で、リクが息をふうと吐く音が聞こえた。


「これで、大丈夫ってことか」


 悲しみに暮れる私の頬に、リクの手が伸びた。

 血の通わない死神の冷たい肌を、慈しむようにしてリクは暖める。その手はやがて私の背中に回って、反対の手と一緒になって震える私の体を包み込んだ。

 高らかな鼓動が私を満たす。


「…じゃあな。次こそはきっと、幸せになれよ」


 そう言い残して、リクは私から体を引き剥がし、流れるような動きでフェンスの向こうに身を躍らせた。背中から伸びた翼をはためかせ、苦しまずに死ぬのに必要な高さを稼ぐためか、少し私から遠ざかり、そして止まった。


「リク!」


 リクは私が縋るように伸ばした手の先で親指を立て、そして翼の動きを止めた。

 後は重力に従って彼の身体が落ちていくのを、私は力なく眺めていた。すぐに、あの時にも聞いた、肉が潰れ、骨が割れ、液体が飛び散る、そんな音が聞こえた。



 やがて私の身体は何かの異物が自身に入ってくるのを捉える。

 その感覚は極めて甘美で、止めどなく溢れていた涙すらも止めるのに十分な快感を伴っていた。そのことがまた辛くて悔しくて、でもどうしようもなくリクの魂は美味で、私の心は矛盾を抱えきれずにボロボロと壊れていった。


 不死鳥の魂を刈り取った死神には、再びの生が与えられる。

 全ての記憶を封じられ、またゼロから人生を歩み直すのだ。

 そこで罪を犯せば再び死神として、悲劇の最期を迎えれば不死鳥として、真っ当に死ねば真っ当な霊として、死後の世界を旅することになる。


 そこに、確実な救いも、運命に定められた再会も、ありはしない。リクの魂は、リクと私の紡いだ軌跡は、私の中にただ封じられ潜むだけで、生まれ変わった私に思い出されることはない。


 私の見る世界が崩れていく。

 それはつまり、穂乃という存在が終焉を迎えていることを意味するのだ。

 それは同時に、リクという存在の終焉でもある。


 

 ああ、ああ。



 風が消える。

 音が消える。

 色が消える。

 光が消える。



 せめてあなたのことを、覚えていたかった。


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