あなたの夫婦愛、1億円で買います ―究極の選択―
「あなたの奧さんを僕に〝貸して〟もらえませんか?」
喫茶店で金髪の若い男はそう切り出した。顔を見合わせる夫婦をよそに、男はスマホをテーブルに置いた。
「実は僕、こういう者です」
スマホには自身の顔のアイコンが入ったYouTubeのページが表示されていた。チャンネル名は「TOURU」。フォロワーは200万人を越えている。
「インフルエンサーというやつです。ライブコマースをご存知ですか? 僕が勧めた商品は飛ぶように売れるんです。一時間で三千万円を売り上げたこともありますよ」
トオルは自慢げに語った。金回りもさぞいいのだろう。まだ若いのにブランドのスーツで固め、手首には高級時計が巻かれている。
夫の真吾がさえぎるように言った。
「それで、そのインフルエンサーの方が私たちに何のご用でしょうか? 妻を貸せ、とはどういうことですか?」
週末、夫婦で街を歩いていると、急に金髪の若者に声を掛けられ、「10分だけお時間をください」と半ば強引に喫茶店に連れ込まれた。
「ああ、すいません。インフルエンサーというのは、とにかく華やかな生活をフォロワーに見せなくちゃならないんです」
豪邸に住み、ブランドものを身につけ、外国製のスポーツカーを乗り回し、高級レストランで食事をする……視聴者にとって憧れの存在であることが大事なのだという。
「女性をとっかえひっかえというのがSNSでの僕の〝キャラ〟でしてね。これまで六回結婚をしています。次のパートナーを探していたとき、たまたまお二人を街でお見かけしました」
カラコンを入れたトオルの青い目が妻の知世に向けられる。ショートマッシュの金髪の下はクール系のイケメン、ぱっと見は韓流スターのような容貌である。
「率直に言って、奧さんが美人だなと。ぜひ僕の七番目の〝妻〟になって欲しいと思いました」
真吾の顔が不快そうに歪み、トオルが手で制した。
「怒らずにもう少しだけ聞いてください。妻になって欲しいと言っても、あくまで妻の役を演じて欲しい、という意味です。夜、同じベッドで寝てくれとは言いません」
フォローされても夫はまだ怒った顔を崩さない。
「一ヶ月の間、奧さんには僕の家に寝泊まりしてもらい、一緒にご飯を食べ、週末にはデートをします。それをウチのスタッフが撮影し、YouTubeで配信します。その対価として――」
トオルは人差し指を一本立てた。
「一億円をお支払いします」
隣で夫の真吾が息を呑むのがわかった。知世も耳を疑った。一億円と言ったのか?
動揺する夫婦をよそにトオルは続ける。
「で、これは提案なんですが、旦那さんも奧さんと一緒に私の家に来ませんか?」
「私も……ですか?」
真吾が思わず訊ね返す。
「一ヶ月、奧さんをよく知らない男の家に預けるわけです。旦那さんも心配でしょう。実はお願いしたい仕事があるんです。撮影の助手とか、食事の用意とか……ようはアシスタントです。もちろん、そちらのギャラは別にお支払いします。さすがに一億円とはいきませんが」
たたみかけるようにトオルが早口でまくしたてる。
「前金で五千万お支払いします。一ヶ月の同居生活が終わって改めて五千万円をお支払いします。事前に弁護士が作成した契約書もご用意します」
五千万を前払いするから、真吾に今の仕事を辞めろと言ってるのだ。あまりに話が現実離れしていて、夫婦は言葉が出なかった。
引き時と思ったのかトオルが言った。
「ご夫婦でよく考えてみてください。ただ、こんなチャンス、人生でそうあるわけではないと思いますよ」
金髪の若者は、連絡をお待ちしています、と頭を下げ、伝票を持って席を立った。
◇
「へー、先月はドバイとプーケットの高級ホテルを毎日〝はしご〟して、今月は毎日、百万円を使い切る生活にチャレンジだって……まだ26歳なのに、YouTuberってすごいのねー」
リビングのテーブル、知世がパソコンでトオルのYouTubeチャンネルを見ていた。
「金持ち系YouTuberってやつか」
風呂上がりの夫の真吾がタオルで頭を拭きながらパソコンを覗く。トオルがモデル風の美女とスカイダイビングをするリア充感満載の動画を苦い顔で見つめる。
「こっちは毎朝、満員電車で会社に通って残業してるのに……遊んで大金を儲けられるなんて、インフルエンサーってのはいい身分だよな」
「でも、これも〝ヤラセ〟かも」
トオルは言っていた。インフルエンサーは、フォロワーに憧れを抱かせるような生活を常に見せなくてはならないのだと。
真吾がため息をつき、パソコンから目を離す。
「断りの連絡をしておくよ。前金で五千万やるから俺も仕事を辞めろって……話が非常識すぎる。ひとの人生をなんだと思ってるんだ」
夫の真吾とは大学の演劇サークルで知り合い、付き合うようになった。卒業して社会人になり、自然な流れで結婚した。
ともに29歳。夫婦仲は今も良い。休日は二人で小劇場に好きな劇団の芝居を見に行くし、街では手をつないで歩くこともある。
ぽつりと知世が口にした。
「……私はやってもいいと思ってる。一ヶ月間、妻の役を演じるだけでしょ」
「本気なのか?」
「うん……一億円あれば、もっといい治療を受けられるし……」
円満な夫婦の間にも問題があった。
結婚して五年になるのに子供ができないのだ。不妊治療を始めて二年になる。
不妊治療は先へ進むほど自由診療の割合が増え、費用も高額になっていく。今はお金のためにあきらめている治療法もあった。
以前は知世も働いていたが、不妊治療に本腰を入れるため、半年前に会社を退職した。治療費の問題には頭を悩ませていた。
「一ヶ月、期間限定で妻のフリをするだけでしょ? 真ちゃん、私、大学で演劇部だし、主演女優だってやったわ。演技にはちょっとは自信があるの」
真吾は苦い顔になった。妻を金持ちインフルエンサーに〝貸す〟ことに抵抗があるのだろう。
(でも、あなたが子供を欲しがっていることを私は知っている……)
兄妹の多い大家族で育った真吾は子供が大好きだった。街で子連れの夫婦をいつもうらやましそうに見ていた。
自分が子供を産んであげられない申し訳なさがあった。何よりもこの人の子供を産みたかった。
「真ちゃん、私やりたい。私たちの未来のために」
体外受精には一回につき百万円近いお金がかかる。一億円あれば高度な不妊治療にもチャレンジできる。
「お願いがあるの。真ちゃん、トオルさんのところに一緒に来てくれない?」
「俺が? でも仕事が――」
「この機会に辞めたら? 真ちゃんも今の仕事には将来性がないって言ってたじゃない」
真吾はパチンコ台を主力にする遊具メーカーで営業マンをやっていた。スマホのゲームなどにユーザーを奪われ、業績は年々悪化し、社内ではリストラも行なわれていた。
「一億円よ。真ちゃんの15年ぶんのお給料を一ヶ月働いてもらえるのよ。トオルさんが言ってたように、こんなチャンス、何度もあるものじゃないわ」
知世が夫の手を握り、張り詰めた目で見つめる。
「これが終わったら転職活動をすればいいじゃない。仕事なんて、他にいくらでも見つかるわよ。私も子供を産んだらまた働くし」
「……本気なんだな?」
「ええ、あなたにも応援してほしいの」
妻の覚悟を知り、真吾は、わかった、とうなずいた。
「やるよ。俺も一緒に行く」
知世が安堵したように夫の胸に頭を預けた。
「ありがとう……言うべきかどうかすごく迷ったの……でも、このまま時間だけが過ぎていくのが怖くて……」
「君に一人で背負わせてたんだな……気づけなくてごめん……」
知世がううん、と涙目で顔を振った。
「愛してるわ、あなた……」
「僕も愛してるよ……」
夫婦は互いの身体に腕を回し、抱き合った。
この一ヶ月を乗り切れば、ふたりの絆は今よりも強くなる。自分たち夫婦には明るい未来が待っている。知世は本気でそう信じていた――
◇
「やあ、いらっしゃい。お待ちしましたよ」
初老の運転手がドアを開け、夫婦が後部座席から車の外に出ると、短パン姿にサングラスをかけたトオルが出迎えた。
知世は辺りを見渡した。
(すごい……プールにテニスコートにゴルフのグリーン……日本にこんな豪邸があるなんて……)
運転手が車のトランクから荷物運び出す。トオルが夫の真吾に言った。
「真吾、なにをボーッとしてる。おまえも荷物を運ぶのを手伝え」
一瞬、夫はあっけにとられたが「あ、はい」と答え、運転手を手伝った。
一ヶ月間、トオルの妻役を引き受けるにあたり、夫婦は弁護士を交えてトオルと正式に契約を結んだ。
真吾の仕事はアシスタントスタッフ。期間中、トオルの個人会社の社員になる。社長から部下が「荷物を運べ」と命じられるのは別に変ではないが――
「…………」
知世は夫の背中を黙って見つめた。年下の男に顎で使われ、いそいそと荷物を運ぶ夫の姿に哀れみを覚えないではない。
「知世、家を案内するよ」
新しい夫に手を引かれ、〝新妻〟は豪邸の中に連れて行かれた。
広いリビングには、ベッドを三つ組み合わせたような巨大なL字ソファが置かれ、ガラスの向こうには緑の芝生と青いプールが見えた。住居というより美術館のようだった。
「これから一ヶ月、ここが君の家だ。リラックスして過ごしてくれ。それとこれを渡しておくよ」
トオルは黒いクレジットカードを差し出した。限度額のないブラックカードだった。
「欲しいものがあれば好きに買えばいい」
トオルはリビングの隅に所在なげに立つ真吾に目を向けた。
「真吾――今夜は知世のお披露目も兼ねて、庭でバーベキューをやる。これで材料を買ってこい」
トオルはお札の束をテーブルに置いた。
「わかりました」
お金に手を伸ばした真吾の手首を掴む。
「いい肉を買えよ。普段おまえが食べてるような安い肉を買ってくるんじゃないぞ。金はケチるな。俺が渡した金はぜんぶ使い切れ」
「……はい」
やり取りを聞いた知世が言った。
「あの……じゃあ私は下ごしらえをします。キッチンはどこですか?」
「はは、僕の妻は料理なんてしないでいいんだ。洗濯も皿洗いも掃除もぜんぶ使用人がやる。なあ真吾、そうだろ?」
「……はい、やらせていただきます」
お金を握りしめて真吾が答えた。
◇
その夜、豪邸のプールサイドではバーベキューパーティが行なわれていた。ゲストはトオルの仲間のインフルエンサーや若手実業家、モデルや俳優の卵などである。
(あれってモデルの神石ニコル? あっちは若手実業家の一ノ瀬社長?……すごい……有名人ばっかり……)
知世は豪華な客たちに圧倒されていた。
スタイルのいい美女がグラスを手に近づいてきた。モデルの神石ニコルだった。
「トオル、この人が新しい奥さん?」
「知世だ。よろしくな」
ドレス姿の知世の腰に手を回し、トオルが〝新しい妻〟を紹介すると、ニコルが知世の顔をまじまじと覗き込んだ。頬が赤らんでいる。酔っ払っているようだ。
「今度もきれいな人だね……これで何人目の奥さんだっけ?」
「7人目かな」
「26歳でバツ7? 人生早すぎじゃない?」
「バツ6だ。まだ知世とは離婚してない。知世とは気が合うんだ。なあ、そう思うだろ?」
「ええ、あなた……」
ぎこちない笑顔で知世は答えた。人前ではトオルのことを「あなた」と呼ぶように命じられていた。
「前の奧さんのときもそう言ってなかったっけ? まあ、いいけど――知世さん、ネットで見ましたよ。すごい再生数ですね」
神石ニコルに言われ、知世は恐縮した。
「ありがとうございます」
すでに一回目の動画は配信されていた。トオルが新しい妻に豪邸を案内する映像だ。ただ、その動画を知世は見てはいない。
疑似夫婦生活を送る間、ネットを見ないこと――契約書でそう決められていた。パソコンは持たされず、最低限の機能がついたスマホを渡されていた。
よけいな情報を絶ち、〝妻〟を完璧に演じきるため――トオルからはそう説明されていた。
「コメント欄もすごいですねー。今までで一番の美人だって」
神石ニコルに言われたが、見ていない知世は苦笑しかできない。
(逆にネットを見れなくて良かった……どうせ七番目の妻がいつまで持つのかとか、そんなコメントばっかりなんでしょう………それにあんな真ちゃんの姿を見たくないし……)
知世はちらっとプールサイドに視線を流した。給仕のユニフォーム姿の真吾が汗だくで肉や野菜を焼いていた。
「おい、真吾――」
トオルが呼ぶと、真吾が駆け寄ってくる。
「ばかやろう!」
いきなり怒声を浴びせる。
「テーブルに汚れた皿やグラスが溜まってるぞ。さっさと片付けろ。あと網はまめに交換しろ。肉が焦げやすくなるし、焼きムラができる」
「はい、わかりました」
真吾が答えると、別の方向から「おーい、ボーイさーん」と手が上がった。
「ビールがないよー」
「はいっ、ただいま参ります」
忙しく働く夫を見ると哀れみを覚える。自分から一緒に来て欲しい、と頼んだ手前、申し訳ない気持ちもあった。
「楽しんでるかい?」
トオルの声で知世は意識を引き戻された。
「これが僕の日常なんだ。毎日パーティパーティパーティさ」
「すごいですね……」
「ほら、もっと笑顔。パリピはみんなで幸せをシェアするんだ。君が楽しまないと、他のみんなも楽しめないよ」
「はい……」
バンドが演奏を始めると、プールサイドでゲストたちが踊り出した。
「来いよ」
トオルに手を引かれ、踊りの輪に加わる。
「ネットを通して全世界の人たちが君を見ている。君は学生時代、演劇部だったんだろう? 今は主演女優なんだ。完璧に僕の妻を演じてくれ」
耳元でそう囁かれ、知世の顔に覚悟が宿る。
(そうよ……私は女優……私はトオルさんの妻……)
気づけばトオルの腰に手をあて、音楽に身を任せて身体を揺らしていた。頭から夫の真吾の姿を追い払った。
◇
目を覚ますと、何も身につけずにベッドに寝ていた。キングサイズのベッドの隣には同じく裸のトオルがうつ伏せで眠っている。
(どういうこと?……)
知世はのろのろと身体を起こした。パーティで強いお酒を飲み、そこから先の記憶がない。
(なんで私とトオルさんが裸でベッドに寝ているの?……)
ガチャッと寝室のドアが開き、あわててタオルケットで胸を隠す。
(!…………)
ドアの前に夫の真吾が立っていた。知世の顔が驚きで強張る。
「ち、違うのこれは……」
真吾は「失礼します」と車輪のついたワゴンカートを運び込む。
「トオル様に朝食をこちらにお持ちするように言われました」
窓際のテーブルに黙って食事の皿やカトラリー類を並べる。ワゴンカートを転がして戻ると、ドアの前で立ち止まり、「失礼します」と頭を下げる。
顔を上げた夫と目が合った。真吾の顔が能面のように冷たい。
「お願い、話を――」
ベッドから降りようとした知世の手が後ろから引かれた。トオルが身体を起こしていた。
「やめろ。君は今、僕の妻で、彼は使用人なんだぞ」
知世は手を振り払った。
「どうして私がこんな格好をしているの? 何もしない約束でしょ!」
「別に何もしてないさ。約束は守ってるよ」
トオルはガウンを羽織ると、ベッドから降り、真吾が用意したグラスの水をゴクゴクと飲み干した。
「昨日の夜、君は酔っ払ってプールに落ちて、僕がここに運んだんだ。覚えてないのかい?」
思い出そうとして頭がズキンと痛み、顔を歪ませる。かなりお酒を飲んだ記憶はあるが、よく覚えていない。
「ほら、これが昨日のパーティの動画だよ」
トオルがスマホを見せた。YouTubeには、酔っ払った知世がモデルの神石ニコルと手を手をつないでプールに飛び込む映像が流れていた。
「おっ、公開から30分で1万再生か。これは伸びるぞ」
知世の耳には何も聞こえなかった。夫の真吾の冷たい顔が脳裏から離れない。
「知世、今は僕だけを見てくれ」
トオルの声で我に返る。
「僕だって冗談や遊びでYouTuberをやってるんじゃない。こっちは一億のギャラを払うんだ。君も真剣にやってくれ」
知世はハッとした。裸で同じベッドで寝ただけで何をうろたえているのだ。女優だって映画で濡れ場を演じるではないか。
「……ごめんなさい。ちょっと驚いただけです……これからはあなたの妻をちゃんと演じてみせます」
胸の前でタオルケットを握りしめ、知世は自らに言い聞かせるように口にした。
◇
「奥様、ようこそいらっしゃいました」
ホテルに着くなり、支配人の男性がうやうやしく出迎えた。
「エステの方、準備ができております」
「楽しみね。ここのアロママッサージは何度も受けたくなるわ」
「ありがとうございます。奥様、丸菱百貨店の外商の富田様がお見えになっていますが」
「エステの後にお会いするわ。次のパーティに着ていくドレスを選ぶの」
奥様と呼ばれるのも慣れた。ホテル、レストラン、ブランドショップ……どこに行っても最上級のもてなしを受ける。最初は〝妻〟を演じていたが、今ではこの暮らしを楽しんでいた。
「かしこまりました。それと丸菱百貨店の沢田社長からお花が届いております」
支配人の背後でホテルのスタッフが、胡蝶蘭と薔薇をアレンジしたギフトフラワーを抱えて立っていた。
「あら素敵ね。真吾――」
後ろに控えていた使用人に命じる。
「部屋に運んでおいて。私はエステに行ってくるわ」
ロビーを離れる知世の背中に支配人とスタッフがお辞儀をする。セレブになった元妻の後ろ姿を真吾がさみしそうに見送っていた。
◇
「素敵ね……」
観覧車の外に広がる光の海を知世はうっとりと眺めた。
「今夜はこの景色を君が独り占めだよ」
向かいのシートに座るトオルが言った。
一ヶ月はあっという間に過ぎた。最終日、トオルは知世のために特別なイベントを用意してくれた。遊園地を貸し切ったのだ。
「この一ヶ月、二人でいろいろなところに行ったけれど何がいちばん楽しかった?」
トオルに訊かれ、知世は指を折っていく。
「……有名五つ星ホテルに七連泊、高級ブランドショップ貸し切り、クルーズ船パーティ……どれも楽しかったけど、やっぱり今夜かしら? ラビットランドを丸一日貸し切りなんて、人生で二度と体験できないわ」
窓の外に広がる夜景を目に焼き付けようと思った。
「これが最後じゃないとしたら?」
「え?……」
驚いたように知世が振り返る。
「僕の〝本当の奧さん〟になったら、こんな生活が毎日できるよ」
「冗談はやめて」
知世は笑って受け流した。
自分がトオルの妻を演じるのは一ヶ月。明日からは他人に戻る。後日、YouTubeで離婚を報告する段取りになってる(夫婦で離婚報告をする動画も撮影済みだった)。
(本当の奧さん?……真吾と別れてトオルさんと一緒にならないかってこと? 演じるのではなく本物の夫婦に?……まさか……)
冗談とわかっていても、知世は動揺を隠せない。
観覧車が地上に着き、遊園地のスタッフがゴンドラの扉を開け、二人は外に出た。
「知世――」
トオルがすっと地面に膝をつき、ポケットから何かを出し、片手で差し出した。
「僕の妻になってくれませんか?」
「え?……」
知世は驚いたように指輪を見つめた。
「この一ヶ月、君と夫婦を演じているうちに、偽の夫婦ではなく本当の夫婦になりたくなったんだ。この先の人生を君と一緒に歩んでいけたら素敵だろうなって」
いつもフザけてばかりの青年の顔が真剣な表情になっていた。
「結婚してください」
指輪を差し出し、トオルが頭を下げる。
(私と結婚?……本気で言ってるの?)
この一ヶ月でトオルの印象は大きく変わった。撮った動画の編集をスタッフと徹夜でする姿も見た。チャラい金持ちYouTuberという偏見は消えていた。
(この人と一緒になったら、刺激的な人生を送れるだろうな……)
ふらっと心が揺れた。だが――
「ごめんなさい……あなたと結婚はできません」
知世が言うと、トオルが顔を上げた。
「なぜ? 僕が浮気男だから?」
知世が笑って首を振った。
「あなたは軽薄で女好きなキャラクターを演じてるだけで、本当はまじめで誠実な人です」
トップYouTuberであり続けるプレッシャーと日々戦っていた。稼いだ金の一部を慈善団体に寄付していることも知った。
「なら――」
「私には夫がいるんです。真吾さんがいます。帰るべき家があります。芝生の庭も、プールも、ゴルフのグリーンもないかもしれませんが、そこが私の家なんです」
トオルの顔に失望が浮かび、指輪を手にしてのろのろと立ち上がる。
「やっぱりダメですか……」
「はい……ごめんなさい……」
トオルのことは尊敬している。だからといって結婚したいかといえば話は別だ。
「くっそぉー! だめだったかぁー!」
突然トオルが夜空に向かって叫んだ。その瞬間、ひゅるるるーと高い音がして、夜空に大輪の花が咲いた。
(花火?……)
遊園地の照明がいっせいに点灯し、明るい光が辺りを包んだ。物陰に潜んでいた撮影スタッフがやって来る。夫の真吾の姿もあった。
スタッフの一人がトオルに声を掛けた。
「トオルさん、プロポーズに失敗した今の気持ちをお聞かせください」
「撃沈、それだけです」
トオルが唇を噛むと、撮影スタッフから笑いが起こった。
(これは?……)
困惑する知世のもとへスタッフが近づいてきた。手に「ドッキリ大成功」と書かれた小さな看板を持っている。
「すいません、知世さん。実はこういうことなんです――」
スタッフがスマホでトオルのYouTubeチャンネルを見せた。動画のタイトルを見て、知世は目を見開いた。
《一億円で夫婦愛を買えるか? ――ぜいたく三昧なセレブ夫婦生活の果てにプロポーズされたら、人妻は元の夫と離婚してトオルとの再婚を選ぶか?――》
(なにこれ?……)
ごめんなさい、とトオルが謝った。
「これは最初から知世さん、あなたを試す企画だったんです」
「私を?……」
「あなたにぜいたく三昧のセレブ生活を一ヶ月させたら、今の旦那さんと別れて、僕と再婚してくれるかっていう実験企画です」
つまり「七番目の妻」との夫婦生活ではなく、視聴者には最初から偽夫婦だと明かされていたというのか?
知世はこの一ヶ月、ネットを見ることを禁じられていた。自分が出演するYouTube動画を見たことがなかった。
「でも契約書には……」
「あれはダミーの契約書です。本物の契約書は旦那さんと結ばせてもらいました」
知世が驚いたように夫を見ると、真吾が申し訳なさそうに言った。
「……ごめん、知世……そうじゃないと企画が成立しないって言われて……」
真吾もこのドッキリに協力していた? 仕掛け人の一人? トオルに顎で使われたり、叱られたりして、同情を引くようなみじめな姿もしていたのもぜんぶ演技?
「旦那さんを僕が叱り飛ばし、あなたが夫に幻滅するようにしたんです。真吾さんにはちゃんと後で謝っておきましたよ」
トオルが真吾と肩を組み、ピースサインをした。
「残念ながら、僕のプロポーズは断られました。おめでとうございます。あなたたちの夫婦愛は本物でした。一億円でも買うことができませんでした」
スタッフから拍手と歓声が沸き起こった。
「ちくしょー!」
最後にトオルは夜空に咆哮し、再び笑いが起こる。知世はまだ状況を呑み込めず、呆然としていた。
◇
それから半年が経った。
金持ちYouTuberトオルのチャンネルでその日、公開された動画は大きな話題を呼び、一日で100万再生を記録した。
動画のタイトルは『知世さん、今夜、再び登場。やっぱりトオルの妻になることを決断!?』。トオルと知世が今にもキスをしそうなサムネイル画像も話題を呼んだ。
再生ボタンを押すと、映像が流れ始める。
『知世さん、お久しぶりです。半年ぶりですか?』
夜、トオルの豪邸のプールサイドで二人が対談をしていた。
『そうね。この家に来るのも懐かしいわ』
紫紺のドレス姿の知世は、濃いめのメイクも含め、以前とは雰囲気が変わり、妖艶な大人の美女になっていた。
『で、今夜は僕の奧さんになりに来てくれたんですか?』
『だったらいいんだけど、コラボってやつね。来週はトオルが私のチャンネルに出演してくれるので、みなさん楽しみにしてね』
カメラに向かって知世が笑顔で手を振る。
『知世さんもYouTuberが板についてきたねー』
『ありがとう』
『でもすごいなー。あの企画の後に旦那さんと離婚、自分でYouTubeチャンネルを立ち上げて、今やフォロワー150万。僕もうかうかしてられないよ』
『トオルは私の目標よ。いつか追い抜かすけどね』
『言われちゃったな、ははは。でも、なんで旦那さんと離婚したんですか? 僕のプロポーズは断ったくせに。もしかしてあのドッキリ企画のせいですか?』
知世が「別に」と肩をすくめる
『女ひとりで生きてみたくなったの。あの企画のおかげで顔と名前が売れたしね』
『僕だってファンになります。あのときはシナリオ通りにプロポーズしたけど、今度は本気であなたに結婚を申し込みたいな』
『してもいいのよ』
『プロポーズしたら結婚してくれます?』
知世はグラスのカクテルを飲み、トオルに妖しい眼差しを向ける。
『今度、私がやる企画は知ってる?』
『知ってますよ。恋愛リアリティショー。女王・TOMOYOの心を射止めるのはどの王子だ?――でしょ。出演者を一ヶ月、別荘に缶詰にするんでしょ。すごいなぁ』
『あなた、アレに出てくれない? カリスマYouTuberのトオルが参戦。これ、ぜったい話題になるわよ』
『いいですけど……僕、高いですよ』
知世はそうね、とつぶやいて首を傾げ、赤いリップに濡れた唇を開いた。
『出演料は一億でどうかしら?』
(完)
「あなたの夫婦愛、1億円で買います」シリーズの短編は、他に……
「あなたの夫婦愛、1億円で買います ―天空のセレブ妻―」
……があります。