横腹の君は
27日分、2回目
厳しい眼差しがフッと緩む。
「警戒しないでください。イレーヌ様は皇太子妃候補の中で、殿下が初めて二度どころか三度お会いした方です。ぜひとも頑張っていただきたい」
激励の台詞も、彼女には届かないらしい。浮かない表情のままだ。
「おふたりが想いを遂げられるのでは、ダメなのでしょうか」
目をまん丸に見開いたガレンが、ハハッと笑う。
「本当にお優しい方だ。私の記憶では、皇太子妃は女性でなければならないと思いますが?」
「そう、ですよね」
表情を曇らせるイレーヌに、ガレンは不思議に思う。
「横腹の君が殿下であらせられるのなら、なんの障害もないのでは? 仮にも、イレーヌ様は皇太子妃候補のひとりである伯爵令嬢ですし」
イレーヌは憂いを帯びた眼差しで、ガレンを見上げる。
「わたくしがよろしくても、殿下がお可哀想ですわ。もしもあのときの彼が、本当に殿下であらせられるのなら……」
声は萎んでいき、視線も下を向いていってしまう。
「どういう……」
ハロルドとどこで知り合ったのか。どういう経緯で横腹のホクロを目撃したのか。
もしも本当に横腹の君がハロルドだとしてもハロルドが口を割るとは思えず、イレーヌから聞き出してしまいたい衝動に駆られる。
しかし、再び顔を上げたイレーヌの潤んだ瞳と目が合い、言葉を飲み込む。
「言わない約束ですわ」
潤んで揺れる瞳は今にも涙をこぼしそうなのに、気丈にもガレンに縋ろうとはしない。
ガレンは、心の中で深いため息を吐いた。
ハロルド自身は女嫌いであるくせに、いつどこでこんなにもいたいけな女性の心を奪ったのか。
罪作りな男だ。
彼を形成する組織全てが、女を呼び寄せるように出来ているというのに。
いや、だから本人も悩んでいるのか。
ガレンはふたりが不憫に思えてならなかった。
イレーヌがまだ十歳にならない頃。上流階級の人々を集めたお茶会に、子どもたちも参加する機会があった。
かしこまったものではなかったが、将来の練習になればとたくさんの令嬢が参加した。
初めはお茶会での作法や礼儀など、おとなしく教わっていた記憶はある。
けれど途中で飽きてしまったイレーヌは、美しい花に誘われるように庭園の奥に迷い込んだ。
とてもいい季節で、庭園の花は競うように咲き誇り、イレーヌを楽しませた。
花に夢中で迷い込んだ先には妖精と見まごう美しい女の子がいた。白い肌が陶器のようで、ふわふわした髪はプラチナブロンド。
シクシクと泣いている涙は、まるで宝石がこぼれているみたいだった。
「どうして泣いているの?」
「いいの。放っておいて」
可愛らしい見た目とは裏腹の相容れない拒絶の反応は、子ども心に傷ついた。
けれど、ドレスをギュッと握りしめたまま赤い顔で下を向く女の子を置いて、お茶会の場には戻れなかった。
妹がいたイレーヌは、フッと閃いて「もしかして」と口を開く。
「お漏らし、しちゃった?」
女の子の頬がカアッと真っ赤になって、返事を聞くよりも先にイレーヌはドレスを脱ぎ始めた。
ギョッとした顔で目を剥いた女の子を横目に、お漏らしだと決めつけて促す。
「ほら、あなたも脱いで。濡れたドレスが恥ずかしいのでしょう? 交換してしまいましょう」
半分脱いだ状態で、女の子のドレスに手をかける。
あとから思えば、どうしてあんなに大胆な行動をしてしまったんだろうと悔やんでも悔やみ切れないが、そのときはこれが最善の方法だと信じて疑わなかった。
「やっやめて!」
抵抗はされたが、お人形遊びの延長で妹のドレスを脱がすのを手伝うのが日常だったイレーヌにとって、簡単な作業だった。
上半身を脱がしたところで、決定的なひとことを彼女が口にした。
「わたくし、男だから‼︎」
彼女、ではなく彼がキッと涙目で睨みつけ、剥かれたドレスをかき集める。
衝撃のひとことに、イレーヌは固まったまま動けずにいた。ただ、ドレスの合間から見える白い素肌に、横腹のホクロが視界に入って、記憶の隅に焼きついた。
「このことを誰かに言ったら、い、命がないんだからな!」
正体がバレて半分男の子っぽい話し口調になっている彼は、見た目はやっぱり可愛らしい女の子だ。
「お、お漏らしをしたこと?」
クッと唇を噛み締めて、悔しさを滲ませてから「それはもちろん。あとわたくしが、男だって」と付け加えた。
「言わないわ」
「す、好きで女の子の格好をしてるんじゃない。上流階級の男は、女の子として過ごすのが決まりなんだ」
「そう、なんだ」
イレーヌも上流階級の端くれではあるが、姉妹で育っているため聞いたのは初めてだ。
「女は知っちゃいけないんだ。知ったなんて知れたらお前……」
大人の声が聞こえて来て、誰かがここに来そうな気配を感じた。
急いでドレスを身につけている彼。イレーヌも、脱ぎかけていたドレスを元通りに着ていく。
そこでなにを思ったのか、「名案を思いついたわ!」と、全くの名案ではない行動に出た。
「わっ。な、なにを!」
「あはは。冷たいっ。でも気持ちいいわ」
ドレスを着ても、お漏らしは隠せない。きっとこの子にとって、お漏らしは誰にも知られなくないだろうと思ったのだ。
それならば水浴びをしてしまえば、全て水に流れてしまうわ!
短絡的に思ったイレーヌは近くにあった水瓶の水を両手ですくって、思いっ切りぶちまけた。何度も何度も。
大人が駆けつけた頃には、ふたりともびしょ濡れで楽しそうに笑うイレーヌと、仏頂面の彼が女の子の顔をして黙って突っ立っていたのだった。
それから大目玉を食い、その子とはそれっきり。
いや、ただ一度だけ、何年か後のお茶会でイレーヌが別の令嬢に意地悪をされていたとき。
傍を通りかかった彼はそのときはすでに大人顔負けの女性の顔をしていて、取り巻きをたくさん従えていた。
イレーヌたちに言ったわけではないのかもしれないが、すれ違い様に確かに聞こえた。
「人を見て対応を変えるあなたの品位が透けて見えます」
イレーヌに意地悪をしていた令嬢は、自分は関係ないとばかりにそそくさと去っていった。
イレーヌが話しかけるのはおこがましいくらい、身分の高い方なのかもしれない。男の子を女の子として偽って育てる決まりがあるほどの家柄なのだから。
彼がその気になれば、それこそ無礼な振る舞いをしたイレーヌの立場くらいどうにでも出来ただろう。
あの日、水浸しになったお叱りは受けたものの、ドレスを脱がした行為や、男だと知ってしまった経緯を咎められることはなかった。
寛大な対応をしてくれた彼にいつしか感謝の念を抱くようになり、それなりの立場の人だろうから、イレーヌも令嬢として気品ある大人になろうと努力した。
いつか彼に一目でも会える機会があったとしたら、恥じない自分でいたかった。
それがどうだろう。
位が高いのは確かに合っていた。皇太子なのだから、王国の中で同じ歳の頃の男性の中では最高位だ。
イレーヌは彼に恥じない女性になりたくて奮闘していたのに対し、あの日の彼がハロルドであるのなら、彼は女性嫌いになっていた。
本当に彼が殿下であらせられるのなら、女性を嫌いになったのは、わたくしのせいだったんだわ!
導き出した正解に、頭を鈍器で殴られたくらいの衝撃に襲われる。
お漏らしをしただけでもショックなのに、突然現れた女の子にドレスを剥かれ、よほどの恐怖を感じたに違いない。
本当は知られてはいけない真の性別を口にするほどに。
申し訳なさが押し寄せて、自己嫌悪に陥る。
そして自分にできる最善の償いはなんだろうかと考えて、最良の答えを見つける。
事情を(本命は近衛のガレン)知った上で、皇太子妃になる!
新しい明確な目標が定まって、ぱあっと晴れやかな顔をする。
うんうん唸って思い悩んでいたイレーヌの傍らで、その様子をずっと見守っていたガレンは表情を明るくさせるイレーヌにホッとするものの、なぜだか背すじに寒気を覚えた。
「わたくし、おふたりを一番近くで応援させていただきますわ!」
ガレンの寒気はいよいよ本格的なものになり、意気込むイレーヌになにも声がかけられなかった。