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都合の悪い記憶とは


 依然ハロルドの服の端を掴んだまま、イレーヌは眠りについた。


 絶対に離さないという強い決意を感じる。


 イレーヌから部屋に視線を移し、ぐるりと一周見渡してから、片手を上げる。


 ハロルドが指先で合図をすると、書類はたちまち元の場所に舞い戻り、本も巻き戻し再生をしたように本棚に収まっていく。重い置き物や、壁に飾られていた剣も何事もなかったように全て定位置に戻る。


 ただ壁の穴は風の魔法では元通りにはならないため、後に修理が必要だが、あらかた綺麗にはなった。


 こういう使い方ができるのは、便利だとは思う。しかし、やはり力などない方が、知らない方がいいと、未だに思ってしまう。


 それなのに……。


「精霊が、ふたりを引き合わせたと考えると皮肉だな」


 数奇な運命を共にするかもしれない当のイレーヌは、どうもピントがズレている気がしてならないが。


『その石のようになりたい』と恨めしげに石を見つめていたイレーヌを思い出し、「クッ」と短い声をこぼした。




 執務室の扉を開けると、通路に簡易的なデスクと椅子を置き、書類の仕分けをしているガレンが顔を上げる。


「案外早かったですね」


「イレーヌが眠ってしまったからな」


 縦抱きに抱えているイレーヌは名を呼ばれ、「んー」としがみついてくる。お陰でハロルドはむず痒いような、けれど甘い顔をして、ガレンは見ていられない。


 もちろん手にはしっかりと、ベロニカから渡された石が握られている。


「往生際が悪いのですよ」


「なにか言ったか?」


「いえ。なにも」


 イレーヌを政治に利用しないと、ケンドリック伯爵と約束したとはいえ、公には婚約は解消していないハロルド。


 ただ、婚前旅行に行ったハロルドがイレーヌを伴わず戻ったため、周りにはやはりハロルドに女性の相手は無理だったのだとの見られているだけで。


 ガレンと共に戻ってきたのも、噂に拍車をかけたのかもしれないが。


 離れようと固く決意をしたのなら、婚約を解消し、迎えもケンドリック伯爵家に最初から頼めばいい。


 未だぎこちない手つきとはいえ、大層大切に抱き上げるハロルドを横目にガレンは書類に視線を落とす。


 そんなガレンにハロルドは労いの言葉をかける。


「こんなところで、ご苦労なことだな」


「殿下はもう少し、休暇を取られても構わないですよ」


 イレーヌがいない一ヶ月。人間らしい表情を忘れてしまっていたハロルドを、近くで見ているのはつらかった。


「職務は放棄しない。やれる仕事は部屋に運んでくれ」


「お部屋に……ですか」


「ああ、イレーヌが許すまで側から離れないと、眠る前に誓いを立てた」


「御意」


 離れたくないのは、あなた様もでしょう。とは、口に出さないでおいた。




 上質なシーツを手繰り寄せ、夢から覚める。ハッとして慌てて体を起こすと、滑らかな布地の天蓋があるベッドにいた。視線をそのまま前に向けると、離れた場所に座る黒髪の後ろ姿を確認する。


 ゆっくりと振り返るハロルドは、穏やかな表情をしていた。


「起きたのか。まだ寝ていてもいい」


「守ってくださったのですね。約束」


 ハロルドは片眉を上げ、少しだけ意地悪く言う。


「また泣かれては困る」


 からかわれているのはわかるのに、頬が緩んでしまいそうで困る。ハロルドが手を軽く上げると、優しい風が頬を撫でた。


「くすぐったいですわ」


 肩を縮めるイレーヌに、ハロルドは思わぬ言葉を告げる。


「気持ちが落ち着いたのなら、ケンドリック伯爵邸に戻った方がいい」


「え」


 愕然とした顔をすると、苦笑された。


「ケンドリック伯爵も心配しているだろう?」


 父や母、それに侍女のモニカの顔が思い浮かび、無性に会いたくなった。


「ですが……」


 まだ話し足りない。なにをどこまで話せば、この不安がなくなるのか。


 俯いていく顔のすぐ下に、ひとつの花がくるくると舞った。花瓶に生けられた花だろうか。


 踊る花の行き先につられ顔を上げると、花はイレーヌの髪に差し込まれ留まった。


「美しいな」


 目を細め言われ、心臓がキュンと鳴く。花に対して言っているのだと自分に言い聞かせ、人たらしなハロルドに文句を言いたくなる。


「あ、あの、ベロニカさんからお手紙を預かっています」


 どこに仕舞い込んだんだっけ? と、思っているとどこからともなくふわふわと手紙が現れ、ハロルドに渡される。


 呆気に取られるハロルドが、「今のは、精霊が?」と、なにもない空間と手の中に落ちた手紙とを見比べる。


「多分そうです。ベロニカさんの家を出てから、わたくしにも姿を見せてくれなくて」


 ハロルドを警戒しているのかもしれない。精霊はみな、ハロルドをあまりよく思っていないみたいだったから。


 手紙を開封し、無言で読み進めるハロルド。すると再び手紙は浮かび上がり、ハロルドの手を離れ、空中で燃えて灰になった。


 黒い灰はハラハラと落ちながら、灰さえも消えていく。


 ベロニカさんはなんと?


 質問していいのかわからず、ハロルドを見つめる。


 視線に気づいたハロルドが、「婆さんがまた顔を出せだと」と、気安い言葉で言う。


「そうですか。わたくしも殿下と一緒にまたお会いしたいですわ」


 ベロニカと話すハロルドは新鮮で、また違った一面が見られる。ガレンと話している姿も、主従の関係を越えた結び付きを感じる。


 不意にハロルドは椅子から立ち上がり、イレーヌの眠る傍らまで歩み寄る。片膝を付き、イレーヌの髪に手を差し入れると、頬に手を添えた。


 まるで、愛おしい者を慈しむように。


「もう少し眠った方がいい。目が覚めたらケンドリック伯爵に会いに行こう。私の独断で魔女の家に滞在させた。それについて改めて謝りたい」


「父に謝ることなどありませんわ」


「私と関わったせいで、いらぬ心配をかけている」


「ですが……」


 親指の腹で下唇を撫でられ、肩を揺らす。顔はカーッと熱くなり、恥ずかしくて堪らない。


 顔が近づいてきて、額に唇が寄せられた。


「おやすみ。眠るまで側にいよう」


 柔らかな微笑みに頷き、頬に添えられた手に自身の手を添えて体を丸くする。未だ甘やかな痛みを伴う鼓動は早く、眠れそうにないが、まぶたを閉じる。


「本当に猫みたいだな」


 ハロルドの呟きを聞きながら、いつの間にか夢の世界に入っていった。




 ハロルドはイレーヌの穏やかな寝顔を見つめながら、ベロニカの手紙の内容を思い返していた。


『嬢ちゃんは言わないだろうから、伝えておくよ。忘れていた過去の記憶には、兄さんに都合の悪いものも含まれているさね』


 都合の悪いもの。心当たりがないわけではない。


 手紙には続きがある。


『嬢ちゃんを大切だと思っているんなら、全て話してしまいなさいな』


 大切だと、かけがえのない人なのだと、嫌というほど再確認した。


「全て話して……か」


 柔らかな温もりに、胸が切なく痛んだ。


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