身分を隠した旅路
30日、6回目
アレクシス地方へ向かう旅は想像していたよりも楽しく、思っていたよりも大変だった。
王都以外の街に行くのが初めてだったイレーヌは、見る物全てが新鮮だった。
街はどこも雑多で、人であふれていた。活気があり、人間味にあふれていた。
伯爵令嬢でも田舎の小さな領土の育ちであったイレーヌは、自分が箱入り娘だったとは知らなかった。
「ほら。これもうまい」
すっかり街に溶け込んでいるハロルドは、市場で売っている肉の揚げ物をイレーヌの口に放り込む。
「むぐっ。お、おいしいです」
「我々は、きょうだいだろう? 敬語はおかしい」
小声で突っ込まれ、「すみま……えっと、ごめんなさい」と小さく謝る。
商人の若旦那と許嫁の婚前旅行の予定が、イレーヌの変装後の姿がどう見ても結婚を控えた女性に見えないとなり、きょうだいに変更となった。
色気の足りなさにイレーヌは、ひとり落ち込む。
反してハロルドは、髪色を変えていても人を惹きつけるオーラは健在で、売り子の美しいお姉さま方に「あら男前ね」「おまけするから、店番終わったらデートしましょうよ」と誘われてばかりいる。
ただ、表面上はにこやかにしているものの、ものすごく嫌だと感じているのがイレーヌには伝わってきて、どことなく安堵している自分がいた。
「でん……ハルは、どうして慣れているんですか?」
「領地の視察は、領主の仕事のうちだろう?」
「要は、絶えず城を抜け出していたのですよ」
イレーヌだけに聞こえる声で、ガレンは当時の恨みも込めて愚痴る。追いかける方は大変だっただろうなと、目に浮かぶ。
「しかし、イレーヌは相変わらずだな。俺の名は、デン、ハルではないかといつか思われそうだぞ」
「それは、慣れなくて」
視線を漂わせ、どうにか誤魔化す。人懐っこい笑みで言われると、胸がキュンと鳴いて困る。
女嫌いで、ともすれば人嫌い。そんな噂のある皇太子であるから、柔和な表情で揚げ物を食べている姿はカモフラージュになっているに違いない。
この状況下で"殿下"と呼ぶのはまずいとはいえ、愛称呼びはイレーヌにとってハードルが高かった。
きょうだいであれば、ガレンの心配する"仲睦まじく触れ合う"必要もないため、変身魔法が解ける懸念もない。
という事情もあったはずなのに、ハロルドは自由気ままでこちらがハラハラする。
カモフラージュのためではなく、完全に楽しんでいる気がしてならない。
肉の揚げ物を口に放り込むときも、誤ってどこか肌が触れたら……そう思うとドギマギして仕方がないというのに。
帽子を目深にかぶってはいるものの、突然髪色が変わったりしたら注目を受けるに決まっている。
というよりも帽子を被っていても、女性に声をかけられるんだもの。ガレン様だって整った顔立ちをなさっているのに、声をかけられる割合は殿下の半分以下だわ。
なんとなく可哀想な気持ちになって、ガレンに視線を向けると、「憐れんだ目で見るの、やめてもらっていいですか」と心を読んだような言葉をかけられる。
「ハルの隣にいれば、誰だって霞みます。慣れてますから」
敬語ではあるものの、ガレンはハル呼びもお手のもの。視察という名の城下めぐりをよくやっていたのだろうなあと、羨ましくなった。
宿に着くと、もう何日か目のやり取りなのに、イレーヌは落ち着かない。
「きょうだいが同室。まだなにか不満か?」
百歩譲って、許嫁ならわかる。けれど「きょうだいなのに」と訴えたところで、「極度のシスコンなのですよ。諦めてください」とガレンに言い含められる。
「人の目がないところくらい、婚約者らしくしてもいいだろう?」
意味深に言われ、肩を揺らす。
ハロルドの瞳は、真っ直ぐにイレーヌを見つめていた。