本来の姿で
30日、3回目
じれったくて、急展開させます
ケンドリック伯爵邸に戻ることが許されたイレーヌ。もちろん「良からぬ考えは起こさぬように」と釘を刺された上での釈放だった。
帰ったイレーヌはまず、父のケンドリック伯爵に戻った旨の報告をしに父の書斎を訪れた。
「ただいま戻りました。お父様」
どこまでハロルドから聞き及んでいるのかわからないが、イレーヌの目には父の顔に安堵の表情が浮かんだように見えた。
そこからいつもの伯爵らしい顔つきに戻り、粛々と告げる。
「イレーヌ。殿下から、婚姻の申し入れがあり、婚約したいというありがたい申し出を受けた。謹んでお受けするように」
「はい。身に余る光栄ですわ」
父から正式に言われ、婚約者の話は現実だったのだと再確認する。このまま婚約者として、アレクシス地方へ行く旅行も話が進んでいくだろう。
どこまで知っているのかわからない父に、全てを話すのは憚られ、イレーヌからはなにも話さないまま退室した。
イレーヌは慣れ親しんだ自室のソファに座り、胸にクッションを抱え長く息をついた。
テーブルには落ち着けるように、モニカが用意してくれたハーブティーが注がれる。
「お疲れですね。急なお話でわたくしも驚きました。お嬢様が選ばれるのは、ここ何回かのお招きで多少は想像もしておりましたが……。最終候補者は数名選ばれるのだと」
皇太子妃は大役だ。何十、何百といる令嬢の中から選ぶとしても、いきなりひとりを選ばない。何事も向き不向きがあるため、まず何人かを選び、皇太子妃として必要な特性を備えているのか見定めていく。
そして、最終的に選ばれたひとりが皇太子妃となり、そのほかの令嬢は側室として囲われるのだ。
「わたくしは、自分がこんなにも性悪だとは思わなかったわ」
「お嬢様が性悪、でございますか」
モニカとしては、純粋過ぎると感じても、イレーヌが性悪だと感じる機会は皆無だった。なんなら令嬢であるイレーヌに、少しくらい駆け引きのできる女性になってもいいと思うくらいであった。
けれど、今の純粋さがお嬢様のいいところだといつも思い直すというのに。
「お心が自分に向いていないとわかっているのに、立場を利用してお側にいたいだなんて考えているんですもの」
悩ましげに言うイレーヌに、モニカはハッとする。
「もしや、皇太子様に想いを寄せられておいでですか?」
胸に抱いていたクッションを、ギュッと強く抱きしめて顔を埋める。
ハッキリと言葉に出されると、落ち着かない気持ちになる。
返事はしていないのに、モニカは「そうですか。そうですか」と何度も頷いている。
精霊と関わりを持つ疑惑のかかる人間は、皇太子妃に相応しくない。横腹の君が皇太子でないとわかった今、潔く処罰を受けると申し出るべきだ。
頭ではわかっているのに、声が出なかった。
横腹の彼がハロルドかもしれない。そう思って接した期間があったからだろうか。違うとわかった途端に、彼への淡い恋心を自覚した。
「想い人の元に嫁げるだなんて、イレーヌ様は幸運なお人ですね」
「でも……」
殿下の心はガレン様のものですわ。
喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。
だから世間を欺くために、お側にいられるんですもの。
イレーヌはハロルドに呼び出され、王宮に来ていた。王国内では、皇太子が婚約者を選んだという噂で持ち切りだ。
祝福ムードの中、当のイレーヌは浮かない顔をしていた。
どのように話を進めているのか、婚約者との仲を深めるための婚前旅行もイレーヌが驚くほど周りが乗り気だった。
案内された部屋でハロルドを待つ。
あんなにも苦手な方だったのに、どうして恋心なんて……。
自分の気持ちも理解できずに、ため息をつく。
部屋に現れたのはハロルドとガレン。なにやら大荷物だ。
「アレクシス地方へは身分を隠して向かう。皇太子と婚約者との婚前旅行と同じ時期であっても、まさか当人たちだとは思わないものだ」
「それに」と大荷物の中から、服を取り出して言う。
「服装も変え、そして」
指をパチンと鳴らすと艶やかな黒髪が、癖毛のブラウンの髪に変わった。
「えっ」
目の前で起きる変化に、イレーヌは息を飲む。
「どうも私の髪はこの国では目立つ。よくある髪色に変えれば」
目を見開き、マジマジとハロルドを見つめる。
「な、なんだ」
あまりの気迫にハロルドはたじろぐ。
イレーヌは全てを悟った気がして、ガレンに視線を移した。ガレンは呆れたような顔をして肩を竦めてみせた。それだけで十分だった。
「殿下!」
「な、なんだ」
進み出たイレーヌに、ハロルドは声を上擦らせる。
「殿下。観念して横腹をお見せください」
「なにを言うか。前に見せたであろう」
突っぱねるハロルドにイレーヌは重ねる。
「本来の殿下の横腹を、です」
目を見開いたハロルドも、なにかを察知したらしく平然と言ってのける。
「一度で十分だ」
「ですから!」
横腹の君が殿下でなくてもいい。その方がきっといい。そう言い聞かせていた思いは、全て吹き飛んだ。ただ真実を知りたかった。
するりと逃げていってしまいそうな気がして、思わず手を伸ばす。
イレーヌの小さな手は、ハロルドの両手を掴んだ。
その瞬間、ハロルドの周りの空気が弾けた。覆っていたシャボンのような膜が破れた、そんな感覚だった。
「ハロルド、さま。変身魔法が……」
ガレンの動揺している声が、切れ切れに聞こえる。
ハロルドは、すぐ近くにあるイレーヌの瞳に映る自分をなんなく確認できた。
情けない顔をしている黒髪の男。
「まさか、解除魔法……」
「え」
驚いたイレーヌが手を離す。変化はなにも起こらない。ハロルドは指先が震え、苦労しながらもう一度パチンと音を鳴らした。
ブラウンの癖毛と、そばかすまで追加して。完璧に容貌が変わっている。
そして、片手をそっと前に出し、イレーヌの頬に触れる。予想していた通り、ハロルドの周りの空気が弾け、元の姿に戻った。