婚約者は仮の姿
29日、2回目
差し出された手に支えられ、立ち上がるとすぐにハロルドは歩き出す。
イレーヌはハロルドの半歩後ろを歩きながら、気付かれないように一瞬だけ彼に触れた手をギュッと胸に抱いた。
庭園を抜け、石畳みの美しい通路を進む。城壁に伸びる蔦や、青々と生い茂る木々が本来ならイレーヌの目を楽しませるのだが、風景を鑑賞する余裕はなかった。
ある一室まで連れてこられ、促されるままイレーヌが先に入室する。あとに続いてハロルドが中へと入ると後ろ手に鍵の閉められた音を聞き、恐怖で数歩後退る。
部屋にはふたりきり。近衛のガレンも、使用人も誰もいない。
自分の息をする音や鼓動さえも煩わしく感じていると、ハロルドが静かに告げる。
「良からぬ考えは起こさぬことだ。城には私以外にも魔法を使える者はいる」
話しながら一歩進み出たハロルドに、イレーヌは肩を揺らす。するとハロルドはククッと軽く笑った。
「数時間前の威勢の良さはどうした。『皇太子妃に迎えてくださいませ』と息巻いていたではないか」
若干、馬鹿にされている感は否めないのに、初めて見るハロルドの崩れた表情に目を見張る。
「わたくしは、今から拷問を受けるのでしょうか」
「そう急かすな。まずはケンドリック伯爵に、ご息女を無断で連れてきた説明をしなければ。人さらいだと言いがかりをつけられては堪らない」
踵を返し、ハロルドは部屋から出て行った。閉められた扉からは、再び施錠する音が冷たく耳に届いた。
ケンドリック伯爵は堅実で有能な男だ。小さな領土を治めているが、領土の大きさでは人間の質は測れないと、彼を見ていると肌で感じる。
イレーヌとの面会に際し、彼女に精霊の話を問い正すつもりでいた今回は、本人が言うように投獄なり、拘束なりをするかもしれないと予想はしていた。
有無を言わさずの投獄となれば、父親の了承を得る必要などないのだが、今はことを穏便に済ませたかった。
どこからともなく現れたガレンが、隣を歩きハロルドに指示を仰ぐ。
「ケンドリック伯爵をお呼びしますか」
「ああ、頼む」
イレーヌとの茶会に合わせ、ケンドリック伯爵が王宮に滞在しているよう根回ししてあり、すぐに対話が可能な状況にしてある。
そう仕向けるようガレンに伝えた際は、「どこまでも抜け目がありませんね」と賞賛に見せかけた嫌味を言われたが、行動は迅速だ。
「さて、どう転ぶか」
ハロルドは口の端を僅かに上げた後、誰をも寄せ付けないいつものオーラを身に纏った。
「ケンドリック伯爵。お呼び立てして、すまない。数度、貴殿のご息女に会い、婚姻を申し込むつもりでいる」
現れたケンドリック伯爵に端的に伝えると、伯爵は刮目したまま言葉を失った。
「了承と受け取ってよろしいか」
話を先に進めようとすると、ケンドリック伯爵は表情を出さぬように告げる。
「娘では不相応ではありませぬか。殿下にはもっと相応しい方が……」
仮にも伯爵なのだから、皇太子からの結婚の申し込みを喜び勇んでもいいものを、謙遜ではなく本気で迷惑がっているのがわかる。
やはり、一筋縄でいくはずがないか。
結婚に向け王宮に滞在させたい、婚前旅行をしたいと申し入れれば、並の伯爵ならば泣いて喜び、娘を差し出すだろう。
ハロルドは、ケンドリック伯爵が絶対に断れない事実を突きつける。
「彼女は精霊と関わりを持ち、交流しているのは、ケンドリック伯爵もご存じで?」
腹を見せぬよう注意していたであろうケンドリック伯爵の顔に、一瞬だけ狼狽と父の顔が垣間見えた。
「イレーヌは、精霊とは……。いえ、申し訳ございません。わたくしが至らぬばかりに」
僅かばかりの抵抗を試みたケンドリック伯爵は思い直し、腰を低くし頭を下げた。やはり賢明な男だ。
「取り調べたいゆえ、王宮での滞在を許してもらいたい」
ほんの数秒で一気に老け込んだケンドリック伯爵は、唇を戦慄かせながらも懸命に忠誠を見せる。
「寛大なお心遣い感謝いたします」
「気に病むな。悪いようにはしない」
「今回の件、国王陛下はご存じでは……」
本来、皇太子の結婚の申し込みともなれば、国王も同席するのが通常だ。しかしこの部屋にはハロルドとガレン、ケンドリック伯爵のみ。
内々に告げられているのは明確だ。
「正式に決まった暁には、陛下にもお許しをいただく。今は私の裁量で行動している。伯爵にもご容赦願いたい」
暗にハロルドの裁量次第で、どうとでもことを運べるのだと示すと、伯爵は黙って頭を下げ、部屋を出て行った。