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最終回

     6


 ――猫だ。

 ――猫だ。

 ――猫か。

 ――猫が。

 ――猫め。


 靖高が書斎に籠もりっきりになって、もう二週間が経とうとしていた。その間彼は、一歩もそこから出ようとはしなかった。食事も下女が部屋の前まで運ぶのだが、食べた形跡があるのは五回に一度ぐらいだった。

 部屋にはあらゆる本が棄てられた様に散らかっていた。本棚には殆ど本が残っておらず、あたかも嵐が過ぎ去ったかの様である。

それらはみんな、靖高がまるでむきになって本と云う本を読み漁り、次々とその足元へ落としたのだった。

 靖高はぶつぶつと独り言を云いながら、或いは棚に残った本を手に取り、また或いは足元の本を再び取り上げて読み、長い時間そうして過ごしていた。

 彼は今、躍起になって幸福論を考えようとしていた。が、彼の口からは、別の或る一つの事についてばかり漏れていた。

「あれは猫だったんだ……間違いない。シュンスケとか云う猫だ。何故猫が幸福論なんか聴きに来たんだ? 俺の幸福論を聴いて一体どうしようと云うんだ?」

 妙の話では、梅村喜市に兄弟はなく、またこの土地には親戚さえもないと云う。

 また、彼らは北海道へ引っ越して行ったのであるから、こんな所へ遊びに来るなど不可能である。恐らくその青年とは二度と会う事もないだろうと云うのだ。

 一方下男下女の話では、誰一人として訪ねて来る者はなかったと云う。下女は土間に居たし、下男は庭に居たのだから、誰か入って来たのならば分からない筈はないとも。

 だが確かに梅村と名乗る若者が訪ねて来て、靖高から幸福論の講釈を受けたのだ。そして素早く身を翻して逃げる様に去って行ったのである。 

 と云って別段、なにか危害を加えられた訳ではなかった。だが、恐怖に憑かれた人間と云うものは、それがどれほど実際的であるかどうかでは判断しない。それが自分に為すあらゆる害を想定し、殆ど妄想と云ってもいい思考で想像を膨らませ考えるのである。

 ただ猫が部屋の前に来ただけでも、彼にとって恐怖だったと云うのに、それが人の姿を借りて人語で会話したのである。だれがどう考えても、

『化け猫』、

 だろう。

 突然、襖の向こうに足音が聴こえた。 

 靖高はぎくりとして、耳の感覚だけを研ぎ澄ませた。

 と、それは部屋の前まで歩いて来て、正にこの襖を挟んだ向こうでぴたりと止まった。

 汗が少しずつ額を伝って流れ、顎にまで辿り着いて離れ、自分の足元で畳に音を立ててはじけるのが聴こえた。

「旦那様」

 と、聴こえたのは下女の声だった。

「お食事を運んで参りました」

 靖高は自分の余りの怯え方に、我に返って何だか恥ずかしい気がしたが、反動的にこれ以上ない程の安心が彼の心に満ちていた。

 そうやって悪戯に時間ばかりが過ぎて行った。


 それから――。

 靖高は、いつの間にか座したままウトウトとしていたらしく、テーブルに置かれた西洋時計が、時刻は午後八時を差そうとしていた。

洋燈ランプの灯りは、油を与えられずにいた為に消えようとしている。

 空は久しぶりに晴れ渡っているのだろう、襖の間から月明かりの蒼い条が、洋燈のほの暗い灯りを切り裂いて部屋の真ん中を延びていた。

 靖高は洋燈に油を付け足しもせずに、再びその掌にペンを握った。


「人はその幸せを個々に見つけ、その爲に邁進すべきである。それを他人が完全に理解するのは殆ど不可能であり、故に個の幸福を具現化せんが爲に別の個を必要とするのであれば、それは生涯かけても決して実現し得ないだろう。それは人間の求める完全な幸福の理想が現実を超越し、且つ複雑化し、ほんの僅かな狂いが生じただけで最早その目的を完全に遂げる道はないからである。

「若しくは自己の幸福がなんであるかを見付けられぬ場合は、則ち遂げるべき目的がないのであるから、無意義な人生を送るか、或いは知性が僅か以上にある者は自殺する場合が多い。

「自殺の感情は然し、更なる知性によって転換されると、自己の存在意義等を確立させる爲に他者或いは多種生物を助ける行動に移す事も可能である。が、他方、他者或いは多種生物を殺して自分が助かろと云う行動に移る危険性も孕んでいる点は認識すべきかも知れない。

「他者を助ける感情は決して人間だけが持つ物ではない。寧ろ動物の方が強い事さえあると云う愛情論は自虐的であり賛同し兼ねるが、動物も強い感情で持っている事は間違いない。親が子供を助けるのは勿論、群を成して生きる者は同種族であれば自分の子供でなくとも助けるのである。

 だがその点に於いて人間は、理性を有する唯一の動物であり、命の危機に関わらなくとも他者を助け合い、その命運を共にする事が出来る事実は云うに及ばない。

「個の幸福が他者と交差する時、破滅は訪れない。破滅は離れる刹那以降に訪れる。則ち幸福が独りで成し得る物でない証明であり、必ず誰か或いは何かとの交差を必要とするのであれば、人間と動物と植物の間に垣根を造る事は如何にも間違いである樣に思われる。共存共栄とは、個が幸福へと脱却する爲の重要な通り道なのである」


 廊下を通り抜けて、土間から息子の喜ぶ声が響いて来た。

 靖高は妙な胸騒ぎがしたと云うか、何か好からぬ出来事があったのだと、直感的に感じて襖を開けたが、一層大きく聴こえて来たその声には、案の定不快な名前が繰り返し叫ばれているではないか。

 即ち、

「ネネ! ネネ!」

 と。

 靖高は恐ろしい不安を抱え、ゆっくりと廊下を歩いて行った。どうやら皆は土間に居るらしい。

 客間の前に来た。

 つまり、目標の土間はすぐ目の前である。だが靖高が来られたのは、ここまでだった。そこで彼は、あり得べからざるものに我が耳を疑った。

 土間から声が聴こえる。小さな、だが元気のある瑞々しい声が。


 ――ニィ。

 一つではない。

 ――ニィ。

 ――ニィ。

 ――ニィ。


 譬え他の誰が聴いてもその声と間違う筈はなかった。

 靖高は廊下を大股で駆け抜けて部屋に戻り、襖をけたたましく閉めた。それは猫に対する怯えと、もしかしたら妙に伝える警告の積もりだったのかも知れない。

 それから座り、考えた。

(歓喜の声だったぞ、あれは。あの忌々しい畜生が幸運にも息せぬ肉塊になろうと云うのならば、寛二郎があんな声を上げる筈はない)

 苛立ちはまだ湧き上がって来なかったが、怒りと恐怖は胸の内から露わになりつつあった。

 やがて、恐る恐る近づいて来る足音が聴こえ、それが部屋の前で止まると、靖高の不安は一気に大きく膨れ上がり、問う事さえも恐ろしかった。

「……誰だ?」


 ――そこに居るのは人なのか?


 が、聴こえた声は聞き間違う筈もない愛する妻のものだった。

「……あなた……」

 靖高の不安はそれでも拭われなかったが、少なくとも応えられる気持ちは出来た。とは云え、それにしてもか細い声であるが。

「どうした?」

「あの……あなたに云わなくてはいけない事があるの……」

 それが何かは、勿論既に靖高には解っていた。

「構わんから入って来い」

 そう靖高が云うと襖が開き、妙の白い指と、それから彼女の黒い影が、蒼く輝く月を背景にして現れた。それはある種神秘的にも見え、靖高などでは到底逆らえない、とてつもない凶兆の様にも見えた。しかし、妙が怖れつつ部屋に入って来て、両の眉をすっかり情けなく下げて座るのを見ていると、俄然打ち克つ勇気が得られた。

「……どうした?」

 靖高は襖越しにした質問を再び繰り返した。

 妙はそれを云いかねている様子だった。靖高のこれからの反応を怖れているのである。

「実はあの、ねえ、怒らないで聴いて欲しいの」

「何を?」

「あの……実は……ネネがね……」

 彼女の上目遣いは、決して媚びている訳ではなかった。ただひたすらに恐れているのである。

 だが靖高はそんな妙の心にも構わず、脅すつもりのある低い声で、

「……云ってみろ」

 と、深く、鋭く細めた眼で、彼女の細い口を押さえつける様に睨み付けて云うのだった。その恐ろしい眼に、妙は思わず驚いて飛び上がり、掌を握りつぶして汗で湿らせてしまった。

(莫迦な事をした。なんと云えば、彼に殴られないで済むだろう?)

 今、妙の頭の中で駆け回っているのはそれだけである。


(泣こうと云うのか?)


 己がきちんとあの畜生を管理していなかったが故の結果であると云うのに。一つ思い切りぶん殴ってやれば、事の重大さに気付くかも知れない。そうやって妙の眼にうっすらと涙が浮かんでいるのを見ると、余計に腹立たしかった。

(泣きたいのは俺の方だ)

 何時までも応えない妙に靖高は我慢出来なくなり、低く唸る様な声で一言、

「猫が産まれたんだろう」

 と云った。

 妙は驚かなかった。無論、靖高が慌ただしく廊下を駆けて行く足音が聴こえたからだった。彼女は怖れつつ正座をし、頭を下げて夫の赦しを請おうとした。

「……あなた、ごめんなさい……まさか、こんなに早く産まれるなんて思ってなかったものですから……」

「……それはどういう意味だ? お前、産まれる事は知っていたのか?」

 妙は、その問いに言葉を詰まらせた。靖高は彼女の頬を伝う涙に

更なる怒りに駆り立てられつつ、もうこれ以上彼女を見たくもないと思い、顔を背けて部屋の中に向いた。


 その瞬間――靖高は己の眼を疑った。


 そして、訊いた。

「誰だ、お前は?」

 妙にでは、勿論ない。

 靖高は素早く立ち上がって飛び退り、妙を越えて襖に背をピタリと張り付けた。

 そこには――暗い部屋の中、靖高の机のそばには、見た事もない男が足を崩して座っているのである。

 実直そうな面もち。だが、その大きな鋭い眼は、まるで威嚇しているかの様に靖高を捉えていた。

「……梅村ですよ……先生」

 見たこともない若造だ。

 だが、聴き憶えのある声だった。そう、この部屋で、襖越しに聴いたあの無法な男の声である。

「妙……こいつがそうなのか?」

「こいつって?」

 妙の頬はまだ涙に濡れていたが、靖高の指差す所を見るなりきょとんとしてしまった。

「……梅村なんだろう?」

 そう彼は云うが、妙の見るこの部屋には自分と夫以外の誰も居なかった。だから靖高が何を云っているのか彼女には全く解らなかった。

「先生」

 と、梅村と名乗る若者が云った。

「幸福論は書き進んでいますか?」

 靖高は震える手で妙の腕を掴み、引き寄せた。その怯えは凄まじく、彼の手から云いようのない恐怖心が伝わり、妙も一緒になって訳も解らず怯えた。いや、もしかしたら一緒ではないかも知れない。彼女が怯えたのは靖高の、突然の奇行に対してだからである。

 梅村は机から靖高の原稿を取り上げ、声に出して読んだ。

「或る生き物が、他の生き物の幸福を壊す事が自然の権利であるならば、同時に幸福の為に働く事も権利である。その為に幸福を感じる者があるとするならば、幸福は如何にも単純な部分で見いだす事が研究の第一歩ではないだろうか」

 原稿から眼を離し、再び靖高を見つめた。そして、自分の手にしていたそれを差し出した。

「……何が目的だ?」

 靖高は、恐怖が収まった訳ではなかった。だが、勇気と、何より怒りの勢いを借りる事で漸く話し掛けられたのである。

「この原稿はこうした方がいいですよ」

 梅村はにこりともしない。

 靖高は妙の腕を掴んだまま、梅村には近付こうともしなかった。

 梅村は仕方なく、原稿を靖高の足元に投げてよこしたので、原稿はまるで無残に散らばった。

「どれでもいい、拾って読んで下さい」

 靖高は怖れつつゆっくりとしゃがみ、一枚拾い上げたが、暫く梅村から眼を離さなかった。

「いいから読んで」

 そう云った梅村の口調が微妙に低くなった様な気がした。同時にその声色も少しだけ変わった様に感じた。

 靖高は、恐る恐る原稿を見た。そして、

「猫の為の幸せとは……」

 と、一言口にして黙ってしまった。

「あなた……」

 妙は不安に怯え続けていた。

 彼女には若者はおろか、靖高が手にしている原稿すらも見えないのだから。

 ――主人の気が触れてしまった。

 妙は靖高の腕を振り払おうとしたが、彼が余りに恐ろしい力で握り締めている為に、どうしても放す事が出来なかった。だが、それ以上に不思議なのは、靖高が少しも自分に眼を向けていない事だった。妙は助けを呼ぶのも忘れ、呆然と怯えるばかりだった。

「……これはどういう事だ?」

 靖高は、この生意気な男を睨んで云った。

「そう書き直した方がいいと云う事ですよ、先生」

「俺は猫の研究をしている訳じゃないぞ。何故こんな物にしなくちゃならんのだ?」

「でも、猫の幸せも研究しているでしょう?」

「全ての生き物の……だ。猫だけを……お前らだけを研究してる訳じゃない。勘違いするな」

「先生。僕は頼みがあって来てるんです。先生」

 煌々とした月が傾き、梅村の姿が蒼い輝きにすっかり包まれた。梅村は背中をクル病の様に丸く曲げ、足は胡座あぐらをかいてまことに格好悪く、その癖鋭い眼だけが奇妙な程に青く光っていた。

「僕の頼みとは先生、ささやかなものです。その幸福論に書かれている事を、先生自身が実行して下さればそれでいいんです」

「……実行だと……」

「そうです、先生。幸福を誰かの為に働かせると云うのなら先生。僕の妻と、子供達の為にしてくれませんか?」

 靖高の眼には、恐怖と、怒りと、後悔とが複雑に、且つ交互に現れては消えていた。そして、更に別の原稿を取り上げた。

「あなた……大丈夫……?」

 妙がそう訊いたが、靖高はその言葉には全く反応もせず、

「……子供……だと?」

 と、梅村に訊いた。

 梅村は、まるで誰かを抱き締めようとするみたいに、両手を広げ恍惚とした表情――靖高には不気味なにやけ面にしか見えなかったが――をした。

「いい夜ですね、先生。蒼い月が僕達の為に喜んでくれている。そう思いませんか?」

「……貴様の子供が……どこに居る?」

「現実から眼を逸らさないでくれ、先生」

 梅村はそう云いながらも靖高を見ようとはしなかった。

「解ってる筈だ。どうして知らないふりをしようとする? 幸福論の為かい? こんな紙切れが誰を幸せにすると云うんだ。あんたが望んだ訳じゃないくらいの事、解ってるさ。でもね、先生、幸福なんてのは、言葉にしてどうのと云うものじゃないんだぜ。生きる者を守るのに、どうして理論が必要なんだ?」

「……今すぐ俺の部屋から出て行け……」

「話を聴いて下さい、先生。僕は何も難しい事を云ってる訳じゃない。あんた自身がこの紙に権利と書いたそれを守って欲しいと云ってるだけだ」

「……帰るんだ……」

「……話を聴けって、先生……」

 梅村の声が、更に低く下がった。

「貴様! 俺の部屋から出て行くんだ!」

「話を聴けぇ!」

 瞬間、梅村の声がまるで虎の咆哮となって響き、靖高を更に壁に張り付かせた。

 それは、妙には瞬間的な突風の様に感じられた。彼女は驚いて庭を見たが――部屋の中から風が吹くなどと思う筈もないのだから、それは当たり前だが――そこは静かな風にさえもそよいでいなかった。

「あなた……今のは何?……」

 彼女には何もかもが理解出来なかった。

「この前訪ねた時、先生は最後の質問には答えてくれなかったね。今日もまた答えてくれない積もりかい? 哲学者ってのは先生、そういうもんなのか?」

 靖高は暫し動けずにいたが、漸く勇気を振り絞ると、突然妙を押しのけて書斎から駈け出して行った。

 妙は突然置いて行かれた驚きから、慌てて靖高を追いかけたが、靖高は一足早く居間の前を駈け抜けて土間へ飛び込むと、その仕切りを塞いで妙を廊下に留めてしまった。

「来るなぁ!」

 靖高は妻に命令をし、仕切りを一つ、ばんと叩いた。

 妙は再び驚き、後ずさりをして離れ、床にへたり込んだ。

 中からは下女と息子の声が聴こえてきた。それは、靖高に対して何かを訴えているような響きだった。

「あなた……何をするの?」

 妙は呆然としている。

 一人書斎に残された梅村は、その襖の間から見える月を眺めていた。その眼の奥に虚ろな悲しみが映り、一条の涙が頬を伝って流れ落ちた。

「そうかい、炉に火を入れたのか……止めてくれって云ったって無理だよ……済まない、僕なんかの力じゃどうする事も出来ないよ……」

 誰と話しているのだろうか? 目頭に溜まった涙がもう一条、流れた。

 やがて、土間から幼い生命の叫びが響いた。


 ――ニャア!

 一つではない。

 ――ニャア!

 ――ニャア!

 ――ニャア!


「やめてぇ!」

 妙は両耳を塞いで泣き叫んだ。

 息子の、罵声ともつかぬ泣き声も聴こえた。

 下女の止めようとする声も。

「ごめんよ……ごめんよ……僕には……人の気持ちが解らないんだ……」

 梅村は月を見つめたまま、ひたすら誰かに謝っていた。だが、突然靖高の机から原稿を取り上げて立ち上がり、

「こんなものはあの人には不要だ。こんな下らない幸福論なんか、僕が捨ててやるよ」

 と誰かに話し掛けるみたいに云うと、素早い身のこなしで出て行った。

 その後妙は、ひたすら泣き続ける中で、何か小動物の様な足音がすぐそばを駈け抜けて行くのを聴いた様に感じたが、彼女にとってそんなのはどうでも良い事だった。



     7


 靖高は書斎に居た。


 原稿はどこに行ってしまったのか、一枚も見つからなかった。

 久しぶりに見る青い空には千切れ雲が流れ、明るくのどかな庭の草木を揺らすそよ風が、気持ち良く吹き込んでいた。

 筆は一向に進まないが、その表情は全くの安らぎを得ていた。

 と、下女が廊下に現れた。

「貞方様がお見えです」

「通してくれ」

 靖高は振り返りもせずに云った。

 やがて部屋の前に、貞方が現れた。

「どうだい、幸福論は? 進んでるか?」

 明るい口調だった。

 靖高はゆっくりと振り返り、貞方をじっと見つめた。そして、にこりと微笑んだ。

「まだだよ」

 と、落ち着いた声で一言だけ応えた。

「災難だったな、あんなに書き進んでいたのに。ま、でも、君ならまたもっと洗練された物が書けるよ。どうだい、気分はいいんだろ? 表情がそう云ってるもの」

 靖高は応える代わりに、再び笑って見せた。

 貞方は、ネネの事は既に聴いていたが、猫を押し付けた責任を感じて、一切靖高を責める積もりはなかった。


 あの晩。

 妻と息子を泣かせ、下女に責められたあの晩。

 原稿を全て失くしたあの晩。

 突然土間に三毛猫が飛び込んで来て、ネネを誘い、連れ去ってしまった。

 その数日後、野良猫として生きる二疋を見掛けた事があった。彼らは靖高をじっと見つめていたが、やがて藪の中へと潜り込んで、どこかへ行ってしまった。

 家猫と云う、食と安全が保障された居住を捨て、危険な自由を選んだ二疋の猫。

「誰かを守るのに、どうして理論が必要なんですか?」

 シュンスケの言葉が、不意に思い出された。

 だが、靖高にその思想を肯定する積もりは少しもなかった。

 彼らの姿は、靖高しか見ていなかった。

 そしてそれ以後、誰もネネとシュンスケを見掛ける事はなかった。


 靖高はおもむろにペンを握った。

「お、とうとう書くのか」

 と、貞方は嬉しそうに訊いた。

 靖高はペンを原稿用紙に押し当て、暫く考え込んでいたが、書く内容が纏まっていなかった訳ではなかった。それを書くのに躊躇いを感じていたのだ。

 が、漸く書き出した。

 いつもの様に、声に出して。

「幸福とは全ての生き物が平等に得る権利であり、決して誰にも邪魔されるものではない。その一番始めにあるのが生きる権利であり……」


 ――にゃあ。

 どこかで猫が、批判するように鳴いた。


                            終


 

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