第4回
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その日の夕餉は一人早々と済ませて、幸福論を書く為に自室に戻った。長い廊下、広々とした質素な造りの庭の前を通って。
東京に住んでいた頃の宅も広い庭を所有していたが、ここの庭はそれから思うと更に驚く程広かった。靖高として不満なのは、所謂日本庭園などと呼べるようなものではなく、所々に植樹されているだけの広場とでも云う様な、奥行きも深みもない詰まらない景色だと云う事だった。だからその庭自体よりも、それより遠くに広がっている田園風景の方がずっと好きだった。
久しぶりに雨は上がっていたが、雲は未だに厚く、風に木々は凪ぐ程に強く、月明かりの恩恵を受けない庭は一寸先も見えなかった。
靖高は襖を片手で押し開け、暗い書斎の中に入り、そうして襖をすっかり閉めた。慣れた盲人の様な正確さでマッチを取り上げ、洋燈に火を入れると、部屋は明るく灯され、机上にある分厚い原稿の束の、鉄の重しに押さえられた姿が煌々と照らされた。
風は怒った様に庭中の草木を揺さぶり、上空を切り裂いて通り行き、靖高はそんな乱暴なざわめきが好きだったので、むしろ気分の休まる心地だった。
靖高が原稿を途中から厚く掴み、持ち上げて広げ、更に数枚捲ると書きかけの頁が現れた。
「生き物の本質を捉えて云うのであれば、幸福の形は眼に見えて違うだけで、それらが求める精神自体は全て同じである。善であれ悪であれ、それが当人の求めた幸福であるのに間違いはなく、最終的な形は全く反対であるが、然しながらそれは一見してその樣に見えるだけで、幸福の動機の源泉は寸分変わらぬ所にある。
生きている幸せを享受している者には、これから死に臨む者の気持ちが理解出来ない樣に思われる。表面上の幸福の意味だけを互いに主張していれば、それは決して相容れない意見なのだから理解し合うのは恐らく不可能だろう。
だが、生きる事に拠って、或いは死ぬ事に拠って獲られる幸福が一体何であるのかを考えるのではなく、何故死にたいのか、何故生きたいのか、その爲に用意された心の材料はこれであると出し合えば、結局は全て同じ精神構造の上に成り立つ幸福の正体が見えて来る筈である。
つまりあらゆる動機は多角面的であるが、その根源は結局一面にのみ集約され、則ち唯一無二の幸福の爲の精神構造を基に派生して、全ての動機が存在しているのである。
何かを食べたいと云う動機も、誰かに逢いたいと云う動機も、何処かに遊びに行きたいと云う動機も、全てである。そしてそれらは、その目的が達成せらた後でも、達成せられる前と幸福の構造が変わる事はなく、よって時間と共に理解が複雑を極める事はない。複雑に思われるのは、その見た目に惑わされているだけである。
幸福の精神構造がその樣に変わらないのであれば、それは人も動物も同じ筈であり、然るべくして全ての生き物は、全く同じ精神で幸福を求めるのである」
ふと、襖の向こうに人の声を聴いた気がした。
(気のせいだろうか?)
そう思って耳を澄ませた。小さな物音が聴こえ、どうやらそうではないらしいのが分かった。
「誰だ?」
来て、すぐに向こうから声を掛けない奇妙さに、靖高は家内の者でない様な気がした。
――返事をするだろうか?
その思いは、そういう考えから来るものだった。だが、靖高の懸念とは裏腹に、その主はすぐに返事を返して来た。
「夜分遅くに失礼します。梅村です」
――客、だと?
益々以て奇妙である。何故、下男らの取次もなく、若者の客が(その高い声で、若者である事は容易に知れたのであるが)勝手知ったる我が家の様に入って来たりするのだろう?
「誰だと?」
「梅村です」
「知らんな。だが何故そこに居る? 誰の赦しを得て入って来たんだ?」
「奥様のお赦しを頂いて参りました」
それを聴いて、靖高は更に腹を立てた。妙は何故、主人の執筆を分かっていてそういう事をするのか? しかも勝手に上がらせるなど、一体どういう積もりかと怒鳴りつけてやりたいものである。
「帰りたまえ。私は赦していないのだから」
「実は先生に是非ともお聴きしたい事がありまして、こうやって参らせて頂いた次第であります。」
人の言葉を理解せぬろくでなしだと、靖高は思った。
「帰るんだ。私の云う事が解らないのか?」
しかし梅村は平然とした声で、
「先生は今、幸福論を執筆なさっておられるとお聞きしました。その内容は人間の為だけでなく、凡そこの世に生きる全ての生物に普遍的に通用するものであると聞きましたが」
と、自分の思う様に勝手に話を進めて行った。
靖高は襖を開ける気にもならず、もうこれ以上話すのは止める事にして、再び執筆に没入しようとした。
「聴きたいんです。それがどういったものなのかを。駄目ですか?」
靖高は応えない。
「先生。僕は是非ともお話しが聴きたいんです。先生の唱える幸福論と云うのが一体どの様なものなのか、凄く興味があるんです。お願いです。聴かせて下さいませんか」
(何と嫌な小僧だろう)
更に返事はしなかった。
しかし、それにしても妙の口の軽さには腹に据えかねるものがある。主人が執筆中の本の内容を他人に話すなど、有ってはならない事である。靖高の腹立ちは、時間が経てば経つほどに増して行き、梅村の声を聴くほどに強い不快感となって胸の内に渦巻いた。
しかしながらこの小僧、少しも相手にしていないと云うのに、その諦めの悪さは尋常ではないとも思わざるを得ない。
それにしても、妙は何をしているのか?
靖高は幸福論への没入を決め込み、梅村が帰るに任せる事にしようと思ったが、その考えは間も無く挫かれるのだった。
「先生のお書きになってらっしゃる幸福論と云うのは、普く全ての生き物の為だと聴きましたが、そんな事が実際的に可能なのでしょうか?」
そう云われた時、靖高の胸中に、
――随分と生意気な口を利く奴だ。
と、抑え兼ねる苛立ちが産まれ、ともかくも莫迦にされている様な気がしてならなかった。到頭靖高は腹立ち紛れに、
「不可能だな」
と、梅村の質問に応えてしまった。そして更に、
「多種の生き物同士がお互いを尊敬するなど幻しだ。実際には隷従するしかない」
と、続けて講釈してやったが、それは教えてやると云うよりも、強く突き放す様な冷たい言い方をした積もりだった。だが、梅村には余り効果はなかったらしい。
「と云う事は?」
梅村の声には、縋る様な震えが籠もっていた。
「その種の幸福はその種で考えるしかない」
「そんな! それじゃあ結局、幸福論には意味がないと云う訳ですか? 先生、それはあんまりだと思います!」
梅村は酷く驚き、抗う様に思わず襖を叩いた。戸は低い音を立てて揺れ動いた。
「それでは一体何の為にそんな本を書いてるのですか? 実際に不可能なら、意味なんて何処にもないじゃないですか!」
「唯それだけの事で無意味かどうか、どうして解る? 重要なのは幸福の源泉を知る事だ。それには幸福の理論を展開し、追究しなければならん」
梅村は頷いていた。その憤慨した様子が瞬間的に消え、既に落ち着いた様に感じられるのが、靖高には何だか酷く奇妙なように思えたが、とにかく話を続けた。
「一見すると幸せは個々によって根本から違う様に見えるが、それは実体に過ぎない。実体は本物ではなく、仮初めの姿だ。目に見えるからその様に取り違えるのだ。精神は最も単純な結晶体の様に、普遍的に全ての生き物の源泉にある。個々に精神の源泉が幸せと感じる物を共通して持っていなければ、人は人と愛し合う事は出来ない筈だ。ましてや真に動物を愛しく想うなど、天地がひっくり返ろうとも不可能だ。その源泉の上に経験が塗られ、人々をそれぞれ違う道に歩ませる。解るか?」
「すると、その源泉にある幸せの根本とも云うべきものが解き明かせれば、人間同士はもとより、動物や植物とも啀み合う事も無くなると云う事ですか?」
靖高は再び口を閉ざした。
「解ります、先生。僕には解ります。幸福をもしも人間だけの物にしていたら、これほど不幸な事はありませんからね。人間は生き物の頂点に立っていますが、その責任の重さを少しも感じてない。だから、結局はその罪を被って他の生き物が不幸にも中途でその生を奪われる事になるんです。素晴らしいです。僕には先生のおっしゃる事が本当によく理解出来ます」
梅村は酷く感動していた。
「先生はその根本を解き明かそうとしてるんですよね?」
――だからこそ書いているのではないか。
応えるのも莫迦莫迦しい質問だった。
「所で」
と梅村が云う。
「先生には嫌いな生き物がおありですか?」
「猫だ」
とは、云わない。
当たり前だ。何故自分の弱点を他人に教えねばならないのか。抑抑それが幸福論と何の関係があろうか? 靖高は、自然腹立たしくなった。その質問に応える代わりに、
「帰り給え」
と、再び冷たく強い口調で云った。
梅村は、直ぐには応えなかった。
靖高も、梅村の反応を見ようと、暫く押し黙った。
やがて、梅村が口を切って、
「僕は」
と、靖高の返事を期待しないかの様に続けた。
「猫が好きです」
(――こいつ)
その言葉が含む音の軽さは、その間と云い意図と云い、あからさまに靖高を怒らせるものだった。
(知っている。その上で俺を莫迦にしているんだ――)
所でこれが果たして、本当に彼をからかって云った言葉なのか、それともその様な意図は靖高が勝手に妄想したものなのか、それはとにかく解らない訳だが、しかし靖高の猫嫌いを知った上での云いようであるのに間違いはなかった。
だから刹那的に怒りを起こしつつ立ち上がり、思わず襖を押し開けた。が、既にそこに梅村の姿はなく、すぐに廊下に顔を突き出して見たがやはりどこにも見あたらなかった。
「餓鬼め……」
梅村の去った方を睨みながら、歯ぎしりする様に呟いた。
靖高が恐ろしさに身を震わせたのは、翌日の朝餉の時であった。
「清」
と、御飯を盛る下女に声を掛けた。
「昨夜、どうして私の赦しも得なければ案内さえもせずに、勝手に客人を通したのだ?」
下女は、目を丸くしている。
「申し訳ありませんが旦那様、あたしには何の話か解りませんです」
そこで表で掃除をしている下男を呼びつけて同じ様に訊いたが、やはり知らないと云うのである。
靖高は腹を立てて、
「梅村と名乗る若者が俺の部屋まで来たんだぞ! お前達が知らなければ誰が知っていると云うんだ!」
と、激しく怒鳴った。だが、それでも二人は全く知らないと謝るばかりである。
妙はと云うと、昨夜は珍しく早い床に就いていた。だから当然知り得る筈もなかった。
だが、である。
彼女が云うには、梅村家はつい先日、父親の仕事の都合で蝦夷――今は北海道と云うべきか――に引っ越してしまったと云うのである(つまる所、邪魔者として災難を被ったと云う訳だ)。だから彼が訪ねて来るなど有り得ないと云った。
それでも確かに梅村と名乗ったと靖高は云い張った。事実、そうであった。
「どんな声だったの?」
妙は不審に思って訊いた。
「幼い声だったな。まだ十五か六ぐらいだろう」
「いやね、彼は大学も卒業してるのよ」
「ふん。やけに高い声だからそう思ったんだ」
「そんな筈は――」
だって、どう聴いても高い声なんかじゃないわ。と、妙は付け加えた。
それなら一体、誰が梅村の名を騙ってきたと云うのか? しかも、ただ靖高の幸福論を聴く為だけに。
下男に、改めて誰の姿も見なかったのかと問い質した。
「ハア、見ておりません。ゆんべは遅くに庭へ行きましたが、旦那様の部屋から灯りは見えたども、表にはだあれもおりませんでした」
下男は頭を何度も下げて云った。
なんと云う役立たず共だろうと靖高は思った。
それから、
――只、
と下男は云う。
「あの時、庭でネネが旦那様の部屋をジッと見ているみたいに居ましたもんで、わしゃあ、こりゃいかんと思って離れた所からネネを呼んでおりました。もしか不審な奴だと仰るんなら、わしの声を聴いて逃げたかもわからんです」
下男如きの考える、辻褄の合わない不合理な発想だった。
その話の中で靖高が特に身震いしたのは、ネネが自分に構っていると云う、今の話題の論点から少々ずれた所だった。
これに続いたのは殆ど雑談の様だったが、だがしかし、これこそが最も靖高を恐ろしさに怯えさせたのである。
その時下男は、幾度となくネネに呼び掛けたが、ネネは耳をこちらに振るだけで全く振り返ろうとしなかった。
そうしている内に、宅の中から一匹の三毛猫が現れた。
ネネはそれでもじっとしていたが、三毛猫がネネに早足で歩み寄ると、突然二匹は互いの体を擦り寄せ、少しばかりの毛繕いをして、それから三毛猫はフイと離れ、そうして下男を見ながら、そのそばを悠然と歩いて去って行ったと云うのである。
下男はその様子を唖然と見ていたが、振り返ると最早ネネの姿も見あたらなかった。ネネは、妙の元へ帰って行ったのである。
――三毛猫ですって?
「シュンスケだわ!」
それを聴いた妙がどこか恍惚とした様な表情で叫ぶ様に云った。
「それは梅村君の引っ越しの時に捨てられていったシュンスケに違いないわ。きっとネネに逢いたくて来たのよ」
その猫の正式な名前――妙が教えてくれた。
「梅村シュンスケよ」