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第3回

     3


 ここで一人の男が登場する。名前を梅村喜市きいちと云った。

 彼は靖高の思想に熱狂的と云える程に深く傾倒している若者だった。

喜市は近隣|(と云っても、ゆうに三粁キロメートルの道のりを隔てていたが)住んでいたのだが、靖高が出無精で、しかも知人以外には滅多に会おうとしない性格な為、二人の面識はかなり薄かった。それでも靖高にその鋭い哲学思想を語ってもらいたくて、時折訪ねて来ていた

 今までに何度足を運んだろうか? 会ってもらえた事は二回しかなかった。それ以外は、いつも冷たく拒否され、結局は妙と雑談をして帰って行くのである。

 だから妙は、いい茶飲み友達が出来たと喜んでいた。

 それも、若い。

 そしてまた、彼も大の付く猫好きである。

「先生は素晴らしい哲学者だと、常々尊敬しています」

 この若者は、そんな事を云っていつも妙を喜ばせていた。主人を褒められて悪い気がする妻など居まい、彼女はもう一杯お茶はどう? お菓子を焼いたの、いかが? と、しきりに勧める。

「でもやはり欠点と言えば」

 と、喜市は妙の焼いたお菓子を頬張りながら云った。

 それを妙が続ける。

「どうしてあんなに猫が嫌いなのかしら? お陰で結婚した時、私の猫は実家に預ける羽目になってしまったのよ」

 それから程なくして彼女の猫は死んでしまった。山に囲まれた田舎の事である。人里に下りて来た何かの動物に殺されたのだろうと思われていたが、事実それは、人に捨てられて凶暴化した野犬だった。猫は体中を引き裂かれて殺され、山沿いを流れる小さな谷川に、まるでごみの様に棄てられていた。その変わり果てた姿に、妙は、彼女自身の責任ではないとは云え、後々までずっと後悔していた。母などに任せず一緒に住んでやっていれば、もしかしたらこんな事にはならなかったかもしれないと、根拠もない、やるせない想いに嘆き続けていたのである。

 以来、主人が為に猫を飼う事はならず、妙の心の隅には、その事への後悔がいつしか寂しさとなり、ずっとしこりとなって残り続けていた。だから気が向いた時などに喜市の宅まで出掛け、彼の飼い猫を抱かせてもらう事もしばしばであった。

 だが漸く、妙の宅にも待望の猫が飼われる事になった。


「こんにちは、先生はいらっしゃいますか?」

 誰も居ない庭にまるで当たり前の様に入って来て、その癖莫迦に丁寧な立ち居振る舞いを見せている。手足を爪の先まで伸ばし、顎はぐっと深く引いていた。純朴そうなとても真っ直ぐな瞳を向け、それはまるで、戦場へ赴く哀れな兵士か、或いはお使いを申し付けられた丁稚奉公の様だった。妙が思わず吹き出したくなる程滑稽な姿である。

 それが果たして真面目過ぎるのか身勝手なのか、全く妙の理解を超えていたが、しかし一緒に話していると実に楽しいので、彼女は喜市を必ず笑顔で迎えていた。

「いらっしゃい」

「こんにちは。先生はいらっしゃいますか?」

「居るわ。でも朝からずっと書斎に籠もりっきりだから、きっと今日も会えないと思うわよ」

 ――そうですか。

 と、喜市には別段がっかりした様子もなかった。それがいつもの事だったからだ。

「でもどうぞ、暇なら上がってちょうだい」

「勿論、暇ですよ。それじゃあ……」

 妙だけが相手となると、喜市のその慇懃な態度は途端に崩れてしまった。要するに慣れきった相手であり、そして同時に尊敬するに価しない人物でもあると云う訳だ。その失礼な判断を、彼自身果たして意識してそう思っているのかどうかは解らないが。

 客間に通され、洋風の大きな椅子に沈む。喜市は、他の家では見た事もないこの柔らかな椅子をとても気に入っていた。一度深々と沈んでから、いつも二三度小さく腰で跳ねる。そして決まって無邪気な笑顔を綻ばせるのである。そうしている内に、やがて妙が手製のお菓子を運んで来る。それがいつもの流れだった。だから喜市は、

「今日はどんなお菓子を焼いたんですかァ?」

 と、客間から姿を消した妙に声を上げて訊いた。それは一つには、自分が来ている事をさりげなく靖高に伝える積もりでもあった。うまい事先生が顔を出せば、と思ったのである。

 だが靖高はおろか、妙の返事すら返って来なかった。

 ――いつもと様子が違うな。

 と、喜市は感じた。そういえば妙の様子も妙に浮き浮きした所があった様に見えた。

 漸く妙が戻って来ると、彼女はその腕に一匹の猫を抱いていた。

 喜市は驚いた。

 ――何故猫が?

「可愛いでしょ?」

 と、妙は無邪気に自慢した。

「実はあの人、いま幸福論を書いてるの。それがこの世界に生きる全ての生き物の為に書くそうで、それなら慣れる必要があるって貞方さんが連れて来たの。あの人、何にも云い返せないまま引き取ったのだけれど、ねえ、だからと云ってあんなに嫌いな人が行き成り仲良く出来る訳ないじゃない。だから私が可愛がってるのよ」

 妙は嬉しさを隠しもせず終始にこにことして、ネネを力一杯抱き締めた。ネネは後ろ足をもがき、少しばかり窮屈そうだった。

「良かったですね」

 と、喜市は世辞のない笑顔で云った。それから暫くはいつもの茶飲み話だったが、今日は猫が居るせいか、いつにも増して熱く語り合っていた。無論、猫の話である。

 そうやって熱く喋っている内に、喜市の胸に一つの思惑が浮かんで来た。

(先生が飼われている猫)

 実際にはそうとは言い難い主従関係であったが、崇拝者の心理にそんな事はどうでも好かった。憧れの人物の宅に飼われていると云うだけで、彼にとっては充分な名目なのである。

「ねえ……奥さん」

 と、愛嬌あるこの漢には到底似合わぬ薄ら笑いを浮かべ、もじもじした調子で切り出した。

「その子はこれからずっと飼っていくんでしょう? そうしたら、その子を一匹だけで終わらせてしまうのは勿体無いと思うんです」

 彼の云わんとしている所をすぐに察する事が出来る程、妙の頭の回転は早くなかった。

「僕のシュンスケは牡です」

 ネネは牝だった。そう云われて妙は漸く気づいた

 ――あの人が怒らないかしら?

 そんな事を考える程の機転も、この女にはなかった。

 妙はを打って喜んだ。

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