第2回
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「だが、人間だけがその爲に生きると云うのは、どうも正しいとは念われない。我々は理性を以て知性とし、それは確かに人生への活力とするが、形は違えども動物の幸福も結局は同じ所から派生せらるべきものである事を私は強く提唱するものである」
靖高の執筆は、ここの所どうも上手く行っていなかった。だが、妙は頗るご機嫌であった。
貞方は靖高を一方的に丸め込もうと、幸福論の執筆に際し如何に嫌いな生き物に慣れる必要があるかを懸命に説いた。妻が友達から引き取り手を探すよう頼まれた時、恐らくこれは今の靖高にこそ必要なのだと思い浮かんだのである。
だが靖高は、執筆と掛けてその重要性も解らないのかと莫迦にされる事が我慢ならなかっただけであった。無論、貞方の意思を深く汲むのが嫌だと云う訳でもなかったが。
だが、何よりも妻である。
妙は何も云わないが、彼女が猫を飼いたがっているのはその表情から容易に窺い知る事が出来た。
その妻の無言の想いにとうとう靖高は折れ、彼が承諾した事で話が丸く収まると、貞方は早々と引き揚げて行った。
妻ははちきれんばかりの笑顔で、両手の平でくしゃくしゃに丸められそうな程小さな子猫を抱え、飛び跳ねて喜んだ。
一方靖高は、何よりも嫌いな猫を前に、貞方に対する恨みが胸中ふつふつと湧いて来るのを感じたが、これほどまでに愛妻に喜ばれると、今更、
「やはり猫を飼うのはよそう」
などとは云い出せず、とにかく自分が慣れるまでは決して書斎に近づけないように云い聞かせて、自分はさっさと独りになる為に書斎へと引き揚げて行った。
「あなた。この子の名前、何がいいかしら」
と云う妻の声は、既に聴こえなかった。
さて、と、再びペンを持ち、机を前ににかじりついた。筆は流れる様に運び、実に好調であった。
(このぶんなら、来年内に二巻も書き上がるかもしれない)
と、独り嬉しく思っていた。
窓から空を眺めると、遠くの山が霞む程度の柔らかな雨が降っている。緑の濃い山からは白く靄が立ち昇り、まるで昔話の様な幻想的な景色がそこにあった。
靖高は、その山にも居るであろう動物達が、雨を除けながら、或いは濡れながら生きている姿を想い浮かべ、彼らは穏やかに、そして逞しく、生まれながらにして与えられた幸福のみを享受しているのだと、感慨深い想いに耽った。
ところで、彼は周囲には単に猫が大嫌いだと云ってあるだけで、本当の事は誰にも話していないが、実は靖高は猫に対して酷い恐怖症なのである。
それは、子供の頃のトラウマに原因があった。大体動物が恐ろしいと云う者は、大抵過去に何か負うものがある。
彼がまだ四歳になったばかりの可愛い盛りの事だった。
悪戯を仕掛けたのは靖高の方だったが、攻撃性に優れていたのは、親の友人宅に密かに飼われていた山猫だった。
当然である。
親達の見ぬ間に石をぽんぽんと投げつけて遊んでいたが、山猫がゆったりと近づいて来た時、その手を檻の隙間に入れて顔を叩こうとしたのだ。
当然、噛み付かれた。腕に。
親が慌てて友人を呼んだ。
飼い主が山猫に飛び掛かり口を放させたのは、時にすれば十秒程度だったかも知れない。しかし靖高には、何もかもが永遠の静止をした様に感じられ、その中で己の腕の皮膚を穿ち、肉を裂く何千本何万本もの鋭い牙だけが、唯一動いているもの様に思われた。
そのとき間近に体験した、荒々しく、四肢を萎えさせる程臭い鼻息と、巨大なビードロの様に光る恐ろしい猫の両の眼は、靖高の心に一生の恐怖を刻み込むのには十分過ぎる程であった。
自尊心の高すぎる靖高は、猫ごときが怖いなどと誰にも知られたくなかった。
無論、妙にさえも。
「幸福とは本来、平坦で眞っ直ぐな道を往くものである。全ての人間が型に嵌められた道を往けば、これ程危険のない社会はあるまい。或いは全人類が隣人に対して無頓着で有っても好い。ただひたすらに歴史の齒車として存在するのである。一匹の女王によって完全に統制された蜂や蟻の樣に。だが、其れは知性と理性を持ち併せ無ければこそ成し得る社会形態であり、つまり、理と知の人間が其れをすれば、忽ち崩壊の一途を辿るのである。
「人間を型に嵌めおける大きさには限界があり、そして其れは決して大きな型枠ではない。安全で崇高な社会には、二枚の紙が張り付くが如く、危険な社会も併せ持っているのである。
「人間と動物は間近にありながら、その二枚の紙の樣に分け隔てられ、動物の歴史と人間の歴史は、交差こそすれど、決して融合するものではない。互いを殺し合い、食べて生きるそのおぞましい関係こそが本当の姿なのである。
或いは人間と一緒に住み、寝食を共にし、其処で生を全うする動物も居るが、彼らとて所詮は奴隷の身である。絶望的状況に追いやられた時、一番始めに処分されるのは彼らである。
それならば人間が動物を眞に幸福にするなど、不可能であると云う事になる。
果たしてそれは、結論だろうか?」
――その瞬間。
――血が凍った。
何故そういう事が起こるのか、靖高には理解が出来ない。と云うより、したくないのだ。それは靖高の最も恐れている事の一つだった。同時にそれは決して起きてはならない出来事の一つでもあった。彼の今の状況――執筆中――を考えれば。
ニャア――
と、聴こえた。襖の向こうで。
だがその後は、さらさらと降る雨音以外何も聴こえて来ないまま、時計の一分、二分と時を刻む音だけが煩く過ぎた。
(どうしてそこに居る? あれほど云っておいたのにもう近づけるとは、一体どういう馬鹿な女だ)
耳のせいだとか、或いはもう居なくなったのかな、などとは思わない。全く音を立てなくとも、それでもそこに居ると信じて疑わなかった(とは言え、実際に居るのだが)。
靖高は、恐ろしいものの存在を確かめる為に、躊躇いながら背中を振り返ってみた。
襖は閉まっている。が、まるですぐ側に居たかの様に聴こえた猫の声が耳に残って、尚も怯えていた。襖のみが隔たりであると云うのは、これほど安心を齎さない状況もないだろう。
やがて、カリカリと襖を掻く音が響いて来た。まるで手を伸ばした指先の辺りから聴こえてくるかの様であった。
音はやまない。
靖高の耳の奥に鋭く響いて来る。
しかし恐怖心というものは、そこに押し迫っていたものが危害なく過ぎると、間も無く怒りへと変貌するものである。
――ニャア。
と、もう一度あの声が靖高を震わせたのを最後に、襖を掻く音も消え、同時に『居る』という気配もなくなった。
靖高は一先ず落ち着きを取り戻そうと、大きく深呼吸をした。額にはいつの間にか汗が滲んでいた。それからもう一度耳を澄ませたが、やはり小動物が居る様な物音は全く聴こえなかった。
刹那、靖高は自分の胸に、反動的に燃える様な怒りが噴き上がって来るのを感じ、また、それを抑える事も出来なかった。
靖高は座布団を蹴飛ばして立ち上がり、襖に駆け寄り木枠を掴んだ。一瞬、それでもなお開けるのを躊躇ったが、自分の心にあれは居ないという確信を改めて云い聞かせ、勢いに運命を任せる様に思い切り押し開けた。
やはり、猫の姿は何処にも見えなかった。
「妙! 妙!」
靖高は入り口から半身を出し、何処かに居る筈の、年の離れた愛妻の名を叫んだ。
「なあにー」
と彼女の甲高く薄い声は、やはり居間から聴こえてきた。が、妻は呑気な返事をしただけで、一向に来ようとする様子がなかった。その彼女の対応が、最も望ましくない者に仕事を中断させられた靖高を更に苛立たせた。
「妙! 来るんだ!」
と、靖高は激しく叫んだ。
その穏やかならぬ口調に、妙は、靖高が執筆中であるのを思い出した。
彼は仕事中、決して人を書斎の中に入れないのだが、またそれと同時に、自分から出て来る事も決してしない男であった。それが今、書斎から出て来ている。しかも明らかに怒声であろう勢いのある声で自分を呼んでいるではないか。これはただ事ではないと漸く察した妙は、それまでしていた雑事をよそに、慌てて廊下をへ走ってきた。
確かに夫の声は廊下に響いていた。が、やって来てみると書斎の襖は隙間なく閉じているのである。
妙は、外から声を掛けた。
「……あなた……呼びました?」
彼女の声は、多少の怯えを持って襖越しの靖高の耳に入り込んだ。戸が閉じていたという事が、妙にとっては殊更に威圧的だったようである。それは、急務と呼びつけておきながら簡単には目通り赦さぬと言った、まるで徳川政権の傲慢たらんとした悪家老の様な威圧感であった。
「入れ」
と、中から鋭い響きを持った一言だけが聞こえてきたので、彼女は襖を開き、一瞬躊躇いつつ、それでも夫の気勢を抜こうと思って、努めて明るい表情を見せた。
「なあに?」
もともとお嬢様として躾られた訳でもないので、主人に対する礼儀は幾分欠ける所がある、可愛いが安っぽい女である。
靖高は、書棚の前で分厚い哲学書を開いて立ち、
「……俺は仕事をしている最中だ……解ってるか?」
と、静かに云った。妙には全く振り向こうとはしなかった。
妙には、自分の主人が何を云おうとしているのか少しも理解出来なかった。
(自分から呼びつけた癖に)
仕事の邪魔をしたなどと責めようと云う積もりなのだろうか? 随分巫山戯た冗談だ。そう思うと、先程怯えていた自分が馬鹿らしく思え、逆に腹が立って来た。
「何なの、一体?」
妙は、一転して強い口調で靖高を責めようとした。事情を知らない彼女にとって、それは仕方のない事だったかも知れない。だが、それでも軽率過ぎた事には違いないだろう。
靖高が狂人だと云うのであればいざ知らず、それどころか彼は本を書くを生業としている、至って明知に長けた『理屈屋』なのである。いやむしろ、『屁理屈屋』とまで云っていいのかもしれない。また、彼の訳もなく怒ったりしない性格は、妻である妙自身が一番よく理解している筈だった。尚且つ、ひとたび怒れば見境もなく、手が付けられない事も承知していた。にも拘わらず、彼女はそれら一切を忘れて反抗的な態度をとってしまったのである。
靖高が振りかぶるのと分厚い哲学書が飛んで来るのは、ほとんど同時に見えた。本はどすんという大きな音を立てて、妙のすぐ脇で壁に跡を残した。無論、靖高に外す積もりはなかった。怒りで手元が狂っただけの話である。
二千頁も三千頁もありそうなこの本を、これほどの勢いで打付けようと飛ばすとは。彼の怒りの凄まじさに、妙は改めて驚き、且つ怯えた。
だが、その後の靖高の口調は、意外なほど抑えられたものであった。
「俺がそのようにと命じた事は、そのようにやるんだ。解ったか?」
妙は返事をしない。というより、出来ないのだ。当然だろう、何の事を言われているのか、全く解らないのだから。
「出て行け」
妙は、これ以上靖高に口答えも質問も赦されないと悟り、
「わかりました……」
と、一言だけ残して、ゆっくりと、しかし出来うる限り素早く、逃げる様に体を滑らせ、襖を閉めた。
閉めると同時に、妙の胸中に納得のいかない怒りにも似た感情が、少しずつではあるが、再び湧いて来た(彼女はどうやら、陰でしつこく思うらしい)。
不図、廊下に目をやると、そこにはもはや彼女の愛猫となった、事の発端者が現れた。
「どうしたのォ?」
ネネ(とは彼女が付けた名前である)は一鳴きし、妙の足元に擦り寄ってきた。
「あっちへ行きましょう、ネネさん。こんな所に居るとあなたまでとばっちりを喰うわよ」
自分のその言葉に、彼女ははっとはしない。もしここで妙が気付いていれば、この後のネネの悲しみは免れたかもしれなかったのだが。
彼女はネネを抱きかかえて、居間へと歩いて行った。
ネネは基本、家猫だった。
外に出せば病気に感染し、又、蚤などを連れて戻って来るかも知れないからと、妙は外へ出したがらなかった。
当然、靖高が一人で留守番をしている時は、ネネとだけで邸内に居る事になる。
書く、という作業は、並ならぬ集中力を必要とし、非常に神経を使うものである。用もない他人に側に居られると、自然、集中力は欠ける。だからこその書斎である。さもなければ、客間で仲のいい友人と談笑をしながらでも筆は走る筈である。
今、靖高に恐怖を与え、非常に効果的な方法でもってして彼の生涯の一瞬間を邪魔立てしようと企てている者。
猫。
無論、当人にその気は、ない。が、靖高にしてみれば、猫にその気があろうがなかろうがである。
いつ、どこに現れるのか全くの予測不能であり、気付いた時には既に遅しと嘲笑うかの様に靖高の肝を冷やすのだから。
靖高の仕事は、結局の所遅れていた。無論、ネネがやって来てからである。
「だが、自分が書こうとしているのは幸福論。猫を追いやっていて、全ての生き物の為になど書けるものか」
そう思う一方で、貞方の嫌がらせに嵌められた。第一、幸福論を書く為に必要だなどと、奴の穿鑿に過ぎないのではないか。と云う疑念ばかりが、彼の心に浮かぶのであった。