第1回
1
靖高は、朝からずっと机に向かって論文を書き続けていた。
空は重たく、今朝からずっと雨が降り止まないでいた。そのせいで空気は酷く湿り気を帯び、それでありながら真冬の様な寒さだった。
窓から表を眺めると、小高い山の中腹に建てられた宅からは、一面に広がる田んぼばかりの平野が、白糸の様な細い雨の中に霞んで見えた。道路はそれらを区切る様に東から西、北から南へと全ての方角へ延びているが、そこには人影も殆どなく、たまに自転車などの、泥を跳ね合羽の裾を汚しながら走って行く小さな姿が見えるだけで、散歩を愉しむ人など、いつまで見ていてもやって来る筈もなかった。
都会から愛する女性の為に引っ越して来てもう一年半以上経ったが、相変わらずここの土地柄には馴染めないでいた。
靖高は作家と云う職業を選んではいるが、その元来酷く社交的な性格は、明るく賑やかな雰囲気を水としていた。だから、ここの余りに辺鄙過ぎる田舎暮らしは、決して好もしいものにならないでいるのである。
東京に来ていた妻も明るい女性だったから好きになったのだが、しかしそれが、まさかこんな田舎に押し込められるとは夢にも思っていなかった。
「である為に……」
靖高は文章を書く時、時折声に出していくのだが、それは『哲学に追従する研究者の』と云うよりは、彼個人の癖であった。
今書いている本は、それを完成させるにあたっては包み隠さぬ思想の全てを書くつもりでいるし、またこれの為に、自分の人生の全ての時間を使い切ろうとも、決して後悔する積もりもなかった。
今や彼にとっては、投げ出す事のできないライフワークとなっているのである。
「旦那様……」
と、下女が襖を恐る恐る開けて入ってきた。
靖高は突然に自分の仕事を妨げられた事に腹を立てた。
「なんだ、声を掛けもせずに! 勝手に入るなと云ってるだろう!」
「申し訳ありません。でもいくらお呼びしてもご返事がなかったものですから……」
「嘘をつくな! 呼び掛けられて、それが聴こえぬものか!」
果たしてそれは、事実であった。下女はどうせ直接云わねば聴こえはしないだろうと思って勝手に開けたのである。
だが、今更そうとは云えない。
「いえ、そんな筈は……」
と、下女は飽くまで自分の過ちを認めぬ上で、
「申し訳ありませんでした」
と謝った。
「なんの用だ。早く云って、さっさと消えろ」
(書き始めるといつもこうだ……)
靖高は、普段からあまり他人に興味を示さない傾向にあるのだが、ひとたび書斎に籠もるとそれは更に強くなるタチだった。
邪魔されたくない――
そういう性格だった。
それは、自分の全ての時間をである。だから書き物をしている最も重要な時には、輪を掛けて非常に怒りっぽくなる。彼はそれが譬え妻や息子であったとしても容赦しない。とにかく周りから見ると、人が違う様にしか思えない。恐らく神経が鋭すぎるのだろう、無論、悪い意味で。
ある時、執筆の最中に突然部屋の中へ息子が飛び込んできた。まだ七歳になったばかりの、やんちゃ盛りである。
だが靖高は、子供っぽいと云う状態に理解を示さない。それが譬え子供相手であっても。
彼の性格の知性派を嘯く側面は、人は常に『考える』べきだとしていた。それが生き物の頂点に立つ責任であり、特権であると。そういった事を思う人が世に少ない訳ではないが、靖高はそれが極端であった。考えない人間を見ていると腹が立つ。つまり、子供を見ていると腹が立つのだ。
故に、
――我が子がそうあるべきではない――。
だからこそ、その息子が靖高の執筆中に無邪気に飛び込んで来た時、彼は猛然と腹を立てた。
「邪魔をするな!」
と怒鳴りつけて、いきなり殴り飛ばした。息子の頬は腫れ上がり、前歯が二本ぐらついた。
これには妙も頭に来て、一週間ほど全く口を利かなかった(直接抗議するのは、流石に恐ろしくてやめただけでもあるが)。
ところが靖高の方は、妻が何を怒っているのかさっぱり解らず、下女らに何があったのかを尋ねる始末だった。
下男下女らは妙から――自分で気づかせなくちゃ駄目――として、
「申し訳ありませんが、奥様から口止めされておりますもので、はあ」
と、鸚鵡の様にそれしか云わないので、彼女の機嫌をとる為に随分と苦労していた。
或る時はそんな態度はいけないと一方的に説教し、また或る時は必死になって怒りの理由を聞き出そうとしたり、とにかくその謙った姿は滑稽で、妙が見ていてもあまりに滑稽で哀れに思えた。が、それでもやはり赦す訳にはいかないので、彼女はそんな夫を気にしつつも、努めて怒りを演出し続けた。
一週間経って、靖高がご機嫌とりのプレゼントを持って来たので、
「そんな事じゃなく、寛二郎に謝る事をして下さい」
と云った事で、初めて愛妻の怒りの理由を知った。とは云え、思い出すのには首をひねって、もう一つ二つヒントを要しはしたが。
下女らは、時折自分の仕事を不安に思う事があった。
主人に忠義を尽くすのが自分の役目であるのに、それを果たそうとして怒られるのはどうも宜しくない、と云う訳だ。主人が最も忠誠を必要とする時にこそ、自分は役立たねばならない。当然の事である。だが、当の主人が自分を必要とする時――主人の仕事が物書きであるが故に、自然、その機会はペンを振るっている最中が多くなる――に役目を果たそうとすると、決まって怒られるのである。
何とも滑稽な話ではないだろうか。
それで、二人の使用人は自分の存在意義を不安に思うのである。
「貞方様がお見えですが」
「追い返せ」
靖高は、既に下女を見ていなかった。
「しかし、大切なご用事だそうでございますが……」
「私の仕事より大切な事があるか、莫迦者!」
靖高は、女を一喝した。
(何時もの事だ)
挫けつつも下女は思った。だからここで引き下がれば、後で更に怒られる事も解っていた。
「ただ今お通しして参りますので」
彼女は形だけ報告して、後は客人の案内を強行する積もりであった。
ところが不意に、
「貞方だって?」
と、靖高が振り向きもせずに頭をもたげて云ったのである。
下女は、何か不意打ちを喰らった様な気分だった。
「はい?」
余りに突然の事だったので、つい声がうわずって疑問口調にさえなってしまった。
「貞方が来たのかと訊いたんだ」
靖高も、今度は振り向いて念を押した。
「左様でございます」
(ふむ。きっとまた何か思いついたに違いない)
と、靖高は思案した。
彼が今書いている本は、全ての生き物が幸せになる為を目的としたものであるが、抑抑これを書く切っ掛けを作ったのは、今訪問してきて、玄関で立ちん坊を喰らわせられている当の貞方であった。
その本は、初め数十頁程度の小論文として書く積もりだった。ところが書き進むうちに、どうも簡単なテーマではない事に気がついた。というのも、他人の幸せを願う者としこれほど不適格な人間も居まい、と他人から云われる程に靖高は身勝手な人間なのだが、軽い興味を抱きつつこの論文を書き始めてみると、意外に自分と他者との繋がりを考えさせられ出したのであった。
「幸せとは」
という書き出しで始まるこの論文には、自分の事に一切触れる積もりはなかった。だが、触れずば書けまい、という事に早いうちに気づき、しかも、己の心を裸にしなければならないという考えにまで至った。
それで、いつしかライフワークになってしまったのである。
貞方が、ある時こう云った。
「妻が忌々しい」
彼は、靖高と馴染みの珈琲喫茶で日本茶を飲んでいた。
こんな田舎には不似合いな舶来風の店だが、店主の外国人がこの土地を大いに気に入って、日本人の妻と共に開業した小さな店であった。無論、珈琲などまだまだ田舎の人々には馴染みの薄い飲み物だが、田舎暮らしに飽き飽きしていた靖高はこの喫茶店を真っ先に気に入り、週の半分以上をここで過ごしていた。
靖高は決まって砂糖抜きの珈琲だったから、声にはしないものの、いつも貞方を邪道と思っていた。
(西洋喫茶に来て日本茶なんか飲むな)
と。
「いや、正確に云えば、妻の飼っているペットが忌々しいんだ。あの野良犬め」
貞方はそう云ったが、実際には野良犬などではない。西洋人から二十円という大金で買った、たいそう立派な大型犬である。数ヶ月前、横濱に鉄道旅行をした際、そこで知り合った何か粉の輸入をしているとかいう外国人の飼い犬を妻が大いに気に入り、三週間も交渉し続けて漸く譲って貰ったものだった。
だがいざ飼ってみると、妻には非常に懐いたが、渋々金を出した主人には、ほとんど見向きもしないのである。何とも莫迦げた話ではないか。
貞方はお茶を少し口に含んだ。
「あいつはお前と同じで、洋風の生活に憧れ過ぎだ。広くもない家の中に、あんなでかい犬を連れ込みやがって。俺達の寝床にまで入ってきやがる」
「寝床に?」
靖高は可笑しかった。
貞方の話に聞いた所では。子供が三人は座れそうな犬らしい。それが二人寝の狭いベッドに潜り込んでくるとは。
「いつも犬を抱いて寝やがるんだ」
(犬に妻を寝取られたか)
と、靖高はますます可笑しくなって、つい含み笑いをした。
今度寝る時はメガネを掛けたまま寝てみろ、妻の浮気現場が見られるかもしれないぞ。と品のない冗談が浮かんだが、それは云うのをやめた。
貞方は、決してペットの名前を云わなかった。
「犬」
或いは、
「野良犬」
と云い、酷い時には、
「畜ち生め」
と、何故か『畜』と『生』の間に『ち』を入れて、吐き捨てる様に云うのである。
訪問して来た客人にすら、
「愚妻の犬です」
と、ともすれば紹介された方が戸惑う様な云い方を平気でするのだ。
お茶を手にしたまま、貞方が続けた。
「動物を可愛がるのは、そりゃいいことだってぐらい、俺にも解るさ。でも、それを誰にも彼にも押し付けるのは間違ってると思わないか? それなのに、目障りな犬ころをもっと可愛がれとかそんな事、グチグチ云われたくないぜ。つまり俺が云いたいのは、俺があの犬を蹴飛ばす前にどこかへ隠しとけって事さ」
一度興奮しだすと、止まらないタチである。酒を酌み交わしたくない型の男だった。
靖高は犬が好きだから、この話自体には納得し難いものがあった。
「俺はあの犬よりも偉いんだぜ。それなのに多津の奴、俺に餌を買ってこいとかぬかしやがる。本来餌と云うのは、飼われている者が捕ってくるものだ。そりゃあの畜ち生めが店に行って金を払えるわきゃないさ。つまり俺が云いたいのは――」
云いたい事の多い男である。
「個々を保護するべきだと云う事さ。犬を認める様に、俺も認めるべきだとね」
「犬の餌は多津が買ってくるべきだと云いたいのか?」
「そうさ!」
貞方は、だんとテーブルを叩いた。
危うく靖高の珈琲が零れそうになった為、靖高は慌てて小さなカップを掌で支えなければならなかった。
「なあ、どうしてこうも世の中ってのは上手く出来てないんだろうなァ。お前は書斎でカリカリと書き物をしてるだけなのに、奥さんや子供からは酷く敬われてる。それに引き換え、俺は職場で頭の悪い部下共に胃を痛めながら一生懸命働いていると云うのに、多津の奴は少しも尊敬しようとしない」
この後二人の話は、個人の権利の主張について大袈裟に広げる事になった。それは多少の飛躍を伴いながら、やがて全人類から、普く全ての生き物の独自の幸福論にまで至ったのである。
「面白い。幸福論はこれまでも多数書かれてきたが、どれも宗教染みてて気に食わなかったんだ」
と、靖高は腕を組み、椅子に深くもたれ掛かって感心した。主張のない生き物にまで主張を持たせて、危うく収拾がつかなくなる様な幸福論にである。
「書いてみようかな、この論文を」
と、靖高は軽々しく云って、カップを口に運んだ。
気に入りの珈琲は、すっかり冷めていた。
書斎に通された貞方は、いつもの様に本棚にもたれ掛かって靖高を見ていた。
「随分書き進んだなァ」
書き始めてもうすぐ半年は経つが、漸く一巻目が終わろうとしている。このまま書き続けて何巻まで続くのか、靖高自身にもそれは解らなかった。
靖高は、椅子の背もたれを仰け反りつつ、腕を組んで睨み付けた。
「それで」
と、靖高は苛立つ様に云った。
「今日は何の用だ?」
彼が怒るのも無理はなかった。大事な話でもあるのかと仕事を中断してみれば、貞方はにやにやしながら、その腕に子猫を抱いているのである。
靖高は、大のつく猫嫌いであった。
貞方は猫の喉元を撫でつつ、その毛で覆われた小さな顔を覗き込んだ。
「君が幸福論を書き出して随分なるが、まだ当分終わりそうもないね。ところで――」
と、貞方は顔を上げた。
「君の本には自分の不幸を皮きりに色んな動物の事が書いてあるが、君が本当に心から信じてそれを書いているのか気になったんだ」
靖高は腹が立った。
ライフワークたらんとして書いているものを、こうもサラリと侮辱されては、譬え親友と言えども当然の事であった。
「何を云いやがる。俺の書く内容に間違いがあるとでも云うのか?」
「そうじゃない。間違いがあるなんて云ってやしないさ。ただ、心が本当かと訊いているだけだ」
貞方の云わんとしている所は、いまいち掴み取れなかった。
「幸福論を書いているが、実際の君はこうして書斎の中で、独り自分の興味に没頭しているだけの事じゃないかって思ったんだ。確かに君は頭がいいからそれでも良い物を書く。でも今回の本ばかりは実際的である必要があると思ったのさ」
――だから猫。
と、貞方は云うのである。
「奥さんは居るか?」
貞方は、不意に訊いた。
「奥さんは確か、無類の猫好きだったよな」
靖高には不満が残った。