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安城 栄は1年前まではごく一般的なミドルクラスの少女であった。高い建物がそびえたつ一等区から少し外れた二等区の家に生まれ、学校に通い友人に恵まれ、有名なオフィサーの一人である清水治安維持部長にあこがれ、何一つ不自由なく暮らしていた。もう一つ、彼女が恵まれていたのは幼いころに遊びに行った川のほとりでカードを1枚拾ったことだ。“ぺちぺっち”と名のついたそのカードはピンク色の柔らかい何か。ゲームでは終盤に出せば出すほど数字が高くなる実用的なカードであるが現実世界では何も役に立たない。それでも彼女はゲームをしないにもかかわらず、初めて手に入れたそのカードを可愛がり意味もなく出しては愛情を注いできた。18で学校を卒業し、実家でたまにバイトをしながらぺちぺっちと過ごしてきた彼女に受け入れがたい事態が起こるのは丁度19になるころ。いとこの一人がオフィサーになるための試験の受験資格を得たので確実に合格するために力のあるカードを集めているという。女子であるためオフィサーになれない彼女は、家族からぺちぺっちを彼に差し出すよう強要される。家族のことは嫌いではなかった彼女だが、そのいとこのことは彼女を見る視線が妙に気持ち悪さを感じていたので苦手だった。そんな彼に小さいころから愛情を注いできたカードを差し出すことなど到底我慢ならなかった彼女は家出し、ワーカークラスが集まるエリアで何とか住居を借り新たな生活を始めた。彼女の学校での成績は国語も社会科も、芸術も音楽も体育も平均的で特に秀でたものはなかった。それゆえ彼女も特技がない自身が生まれ育ったそれとは違うワーカークラスの文化が根付いた土地で生活を始めることが簡単ではないと覚悟していた。しかし彼女の心配は杞憂に終わり生活は順調、1年もすればずいぶん慣れる。その日も彼女は得意料理であるパイを焼き、道端で売っていた。日が落ち始めもう客足も少なくなり、そろそろ帰ろうかなと考えていた彼女の目の前に現れたのは、顔立ちはかつて家族と暮らし生活に余裕があったころ憧れていた清水治安維持部長にどこか似ているが、危険な香りがする、ジーンズをはき、裸に革ジャンを羽織った長髪の男である。そのファッションは新しく、ミドルクラスのエリアでは顰蹙を買うかもしれないが、この男に非常に似合っていることもありこのエリアなら彼の影響で流行ってもおかしくないと彼女は考える。

「よお、何やってんだ?こいつはずいぶん甘そうだな。」

彼女の前にいた男はタカ。パイの甘い匂いに引き寄せられてやってきたのだ。高い建物目指している彼は少し前にその外周にあるこのエリアに迷い込んでいた。彼の前の少女はここに初めて来たときその汚さに顔をしかめたのとは対照的に、タカはその奇麗さに驚いていた。さらにタカは道端で貴重な食糧を見せびらかしている彼女を発見し、何を考えているんだ、と不思議に思ったのも彼女に話しかけた理由である。

「はい!とっても甘くておいしいです!一つ100円です!どうですか?」

そう彼女が答えるとタカは困惑する。それは彼の想定していた会頭の方向性とはかけ離れていた。かろうじて何かと交換したいんだなということは読み取ったが100円が何かわからない。

「ほー、“ヒャクエン”か。そいつはいいな。だが姉ちゃん、そんな風に食い物を見せびらかしていちゃ素直に渡さず奪っていくやつのほうが多いんじゃねぇのか?」

タカはとりあえず知ったかぶりをして疑問に思ったことを聞く。知らないことを知らないといえないのはゲームをよく行う者の悪いところである。いかなる時も心理的優位をとられないようにする癖がつくのだ。そんな彼の疑問に対し彼女は答える。

「ええっ!そうですね、考えたこともなかったです!でも、確かにこの辺は悪そうな人が多いですが、話してみると意外といい人ですよ!それに、この辺にだってちゃんとオフィサーはいますから!」さらに彼女は続ける。「それに、ただのパイですよ。正直安いですし、そんなにありがたい物じゃないですから。」

それを聞いたタカはショックを受ける。食料がありがたい物じゃなければ何がありがたい物なのだと。そして壁の外の住民からすべてを奪っていく壁の中の住民に対して、それについて何も思っていなさそうな、考えてすらいなさそうな目の前の少女に対して憤りを覚える。しかし彼はゲームプレイヤー、表情には出さない。

「そうだな。あいにく“ヒャクエン”を今日は持ってきていないんだ。これで一つ譲ってくれないか?」

とりあえずタカはパイを食べてみることにし、少女に1の、現実世界でも大して使えなさそうなカードを渡そうとしてみる。しかし彼女は「えっ、カードじゃないですか!そんな貴重品受け取れません!」と断る。その言葉にタカはもう壁の中では何に価値がありないのかわからなくなる。

「仕方ないですね。特別ですよ。」と彼女が言うと売り物の小さめのパイを2つに割り、片割れをタカに渡す。「いいのか?」と彼が問うと、「誰にも言わないでくださいね。」と彼女はお茶目に笑う。感情を悟らせないようにしていたタカはパイを一口かじったとき、それを忘れる。

「甘いな。」

そう呟くとタカは思わず一粒だけ涙を落とす。ケンがこれを食べたら喜ぶだろう。きっと世界で一番おいしい食べ物だと大騒ぎするだろう、なぜケンはここでは貴重ではないこれを食べることもできずに死んで行ってしまったのだろうと思ってしまったのだ。涙こそ一粒で止めた彼だが一度思い出してしまった仲間との思い出を止めることはできない。さっきまでそこにいた生粋のゲームプレイヤー、タカはもうそこにいない。そこにいるのは様々な感情で心が張り裂けそうなただの一人の男だ。

そんな彼を見て彼女、安城 栄は初めて違和感を覚える。思い返してみればパイを売っていることなんて一目見ればわかるはずなのに聞いてきた。ファッションも独特。なんだか危ない変な質問。“100円を今日は持ってきていない”という言い回し。わずか100円の物をカードと交換しようとしてきたところ。考えだした彼女は何でもっと前に疑問に思わなかったのかが不思議なくらい妙なところを次々と見つける。そこで彼女は彼の正体に思い当たる。数日前、今池先生を殺害した男が壁の中に侵入し、一度オフィサーが逮捕するも途中で脱走したというニュースを彼女は聞いていた。彼女は半分、まさかこんなところにいるわけない、もう半分は絶対そうに違いないと考える。彼女はとりあえずオフィサーに通報するべき、と一瞬よぎったが、それはやめる。今、彼女の目の前にいるのは凶悪な犯罪者ではなく、何かにひどく悲しんでいる一人のただの男なのだから。

「あの、」彼女は意を決したように話し始める。「今日はどこで寝るつもりですか?」

それに対しタカは「その辺の空き家だろうな。どうした?」と返す。その返答は彼女の予想通りではなかったが方向性はあっていた。やはり彼は寝る場所がない、逃亡犯なのではないか、と。「空き家なんかあるわけないじゃないですか!」と彼女は返す。しかし先ほどまでは本心から元気いっぱいな受け答えをしていたが、今回は空元気だ。しかしタカは現在感情を上手くコントロールできていないので、ゲームプレイヤーでもない彼女の虚勢に気付かない。

「もし、よければですが、」彼女が切り出す。「家に、泊まっていきませんか?」。彼女は若干恥ずかしがりながらそう言う。その心はこの可哀そうな男を放っておけないというのが5割、話を聞いてみたいという好奇心が3割、残りは下心と、今日あった男を家に誘うことは悪っぽくてちょっとかっこいいんじゃないかというものである。この発言を聞いたタカはまず驚き、疑う。彼女の瞳を見た彼はとくに大したことは考えていない、子供の目だなと判断する。それでも彼の中には壁の中の人間の助けを借りたくないという感情も大いにある。感情に従いそうになる彼をぎりぎりで止めたのはゲームプレイヤーの性。とりあえず情報を収集するにあたってこの提案の利が大きいぞと、最後に勝つためにはここは負けておけと、まとまらない感情の中でも勝負師の勘はささやく。

「いいのか?助かるぜ。」とタカは結局彼女の提案に乗ることにする。「ああ、そういえば。」とタカは付け加える。「俺はタカだ。よろしくな。」それに対し彼女は「私は安城 栄です!じゃあさっそく帰りましょう!」と内心ドキドキしながら元気いっぱいに返す。



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