16 肖像画の君
夜明け前。
二度目の交代で起き出し、身支度を整える。
ルリィは天幕の外でいつもの伸縮運動を始めた。ナディアは手馴れた手付きで手早く薄化粧を終える。元々目鼻立ちが整っているから薄化粧でも十分に人目を惹く容貌だ。別に目立ちたいわけではないけれど、女としてはそれが少し羨ましくも思える。
「じゃあ、見張りしてるからね。朝食の支度、頼んだよ」
「うん。後でお茶持って行くね」
交代したアレクとクレメンスは毛布に包まるとすぐに寝息を立て始めた。
休める時にどこでもすぐ眠れるようにするというのは冒険者としては大切なことだ。これも、冒険者に成りたての頃は随分苦労したものだった。今ではすっかり慣れたが、当時は寝心地が良いとはお世辞にも言えない野営でなかなか眠れず、同僚に訊いてみても「誰でも通る道なんだよねぇ……慣れしかないと思うよ」と苦笑気味に言われて困ったものだった。個人差もあるが、元貴族や都会暮らしなど恵まれた環境で育った者ほどやはり慣れるまでに時間がかかるらしい。
とはいえ、慣れてはいても熟睡とは程遠い。
『シオリのおかげで野営でも良く眠れるようになった』
そんな風に評価されるようになって、努力は無駄ではなかったのだと最近ではしみじみ思う。
「さて……では始めますか」
身支度が終わったところで、早速仕事に取り掛かる。ルリィが目覚めの運動を終えて見張りの為にぽよぽよと巡回を始めたのを見送ってから、シオリは深呼吸して気合を入れた。
まず気温の落ちていた結界内に空調魔法を施す。それから干していた洗濯物を取り込んで畳み、食卓の長椅子に置いてから、次はそのままになっていた浴室を解体した。土魔法で干渉し、元の石畳に戻していく。
それが終わったら次は食事の支度だ。
「……と、その前に」
湯を沸かし、目覚めに飲むと良いと言ってニルスに勧められた雪薄荷の薬草茶を淹れる。吸い込むだけでもすっきりと目が覚めるような爽やかな清涼感のある香りが漂う。二つのカップに入れ、飲みやすいように瓶詰の蜂蜜を落として溶かしてから、ナディアのところまで持って行く。
「姐さん、お茶」
「ありがとね――ああ、いい匂い」
雪薄荷の香りを楽しんでから、少しずつ口に含む。じんわりと薬草茶の温かさと蜂蜜の優しい甘さが身体に染み渡った。
「あ、ルリィも飲む?」
ぽよぽよと近寄って来たルリィに薬草茶を示すと、少しだけ考えてから、触手をシオリに向かって伸ばした。
「水の方がいいの?」
訊くと、ぷるんと震えた。魔法で水を出してやると、嬉しそうにつるつると飲み込んでいく。満足するまで飲んでから、ルリィはもう一度ぷるんと震えて見せた。ご馳走様ということらしい。
「朝ご飯はどうする? 食べられそう?」
今度は触手を左右に振って見せる。昨日の雪熊でまだいっぱいのようだ。しばらくは水分だけで良いのかもしれない。
「そっか。じゃあ、欲しくなったら教えてね」
了解した、というようにぷるんと震えてから、再び巡回に戻って行った。こちらも飲み干したカップを回収して、朝食の支度を始める頃合いだ。
「朝食のメニューはなんだい?」
「南瓜のポタージュに棒付きパン。あとは林檎のコンポートかな」
「おや……棒付きパンにはソーセージも付くのかい?」
「うん、付けるよ。皆結構食べるみたいだから、お腹に溜まるものにしようかと」
「そうかい、そりゃ楽しみだね」
見かけによらず肉好きなナディアが嬉しそうに微笑み、それにこちらも笑って返しながら調理場に戻った。
「まずは棒付きパンかなー」
小麦粉と膨らし粉で手軽に作れるパンだ。酵母を使わず発酵要らず、しかも焚火で焼けるから野営には丁度良い。
空いた鍋に小麦粉、膨らし粉、塩を入れてよく混ぜてから、水を追加して混ぜ合わせる。それからブロヴィート村産のソーセージを串に刺し、その周りに引き伸ばした生地をくるくると巻き付けていく。後は皆が起きるのを待って焼くだけだ。
次は南瓜のポタージュ。手間がかかるようでいて、実は調理済みの南瓜ペーストとホワイトソースを使った時短メニューだ。
香味野菜とともに蒸し煮にした南瓜を魔法で撹拌したものと、溶かしたバターに小麦粉を加えて温めてから牛乳を入れてとろみがつくまで丁寧に加熱したものを、軽い金属製の密閉容器に入れて冷凍保存した自家製冷凍食品。これを鍋で溶かして混ぜるだけ。
「うーん、やっぱり買い足ししようかな」
金属製の容器を眺めて呟く。組合近くの雑貨屋で買ったその容器は、保存時の腐食を防ぐために魔獣素材で特殊加工してあるらしい。その分値は張ったけれど、軽くて持ち運びやすいのは魅力だ。
水を張った鍋に出汁取り用の燻製肉を入れて煮込み、冷凍してある南瓜ペーストとホワイトソースを投入して加熱する。くるくると混ぜながら溶かし、塩胡椒で味を調えればこれで完成だ。
「んん、甘しょっぱくて美味しい」
味見すると、南瓜の仄かな甘味と燻製肉の塩気が口いっぱいに広がる。
「よし、後は皆が起きるのを待つだけだねー」
調理台に食器と瓶詰にした林檎のコンポートを並べてすぐに配膳できるようにしてから、立ち上がる。
軽く伸びをしてから振り返ると、ちょうど天幕から出て来たところのアンネリエと目があった。既に髪を結い上げて身支度まで整えている。終えていないのは洗顔と化粧くらいだ。
「おはようございます。お早いですね」
「おはよう、シオリさん。なんだか目が覚めてしまって。もうちょっと頑張って寝てみようとも思ったのだけれど……」
昨日は早くに就寝してたっぷりの睡眠をとったせいか、こんな時間にすっきり目が覚めてしまったらしい。時刻は午前五時をまわったばかり。まだ起床時間には間がある。
「でも、おかげでよく眠れたわ。今までの野宿と比べるとやっぱり段違いに良いわね。野宿なのに温かいベッドで眠れるなんて思わなかったもの」
それでも貴族が屋敷で使うような立派な寝台とは比べ物にもならないだろうが、そう言われると嬉しい。
「よく休めたようで良かったです」
言いながら洗顔用のぬるま湯を満たした洗面器とタオルを差し出す。
「まぁ、ありがとう。ちょっと洗ってくるわね」
洗面器とタオルを手に天幕に引き換えしたアンネリエは、ほんの数分で再び顔を出した。清潔感のある薄化粧の顔。洗顔も化粧も手早く済ませて出て来たあたり、本当に野宿にも一人での身支度にも慣れているのだろう。そういえば、先程まで化粧もせずに素顔を晒していたが、細かいことには頓着しない性質なのだとも思う。もっとも、神経質であれば貴族の婦人が野宿しようとも思わないだろうが。
「ありがとう。さっぱりしたわ」
「はい。では洗面器はこちらへ」
使用済みのぬるま湯を外周の排水溝に流してから洗面器とタオルを洗い、魔法でざっと乾燥させて戻ると、アンネリエが食卓の上に画材を広げているところだった。スケッチブックと数本の鉛筆。
「食事の時間まで、ここ借りるわね」
「ええ、どうぞ。何をお描きになるんですか?」
そういえば昨日も何か一生懸命描いていたようだけれど。
「見てみる?」
「え。いいんですか」
どうぞ、と手渡されたスケッチブックを慎重に受け取った。
「うわぁ……」
真新しいスケッチブックは今回の旅の為に用意されたものらしい。表紙には『シルヴェリア』という題字と日付が書かれている。
そっと、表紙を捲った。最初の頁にはシルヴェリアの街並み。次の頁には昨夜泊まった宿の外観や内部の様子、宿の人々が描かれている。
鉛筆の黒だけで描かれているのに、まるで風景からそのまま切り取ったかのように錯覚させる精密な絵だ。
(モノクロ写真みたい……)
これをもとにキャンバスに描くのだろうか。鮮やかに色付けられた絵を見てみたいと思った。
頁を繰る。
デニスやバルトを描いた絵が数頁続き、それから――
「わあ……格好良い……」
思わず声を上げた。アンネリエがにんまりと笑う。
「そうでしょう? ああやって間近で戦うところを見たのは初めてだったから、是非描かなきゃって思ったのよ」
――戦闘中の、仲間達の姿。
しなやかに伸びる指先から巨大な火炎を放つ、凛とした美しさのナディア。
双剣を構え、敵に向かって跳躍するクレメンス。
風魔法で障壁を張る自分や、雪海月を丸飲みにしているルリィの姿まで描かれている。
そして――魔法剣を振るって攻撃を受け流しながら、眼光鋭く敵を見据えるアレクの姿。
戦闘中は仲間と敵の動きに集中しているから、それぞれがどんな顔をして戦っているかなんてよく見たことはなかった。特にアレクとは出会ってからまだ日も浅く、一緒にこなした仕事もそれほど多くはないから、余計にそうだ。
「……こんな顔して戦ってるんだ……」
鋭い視線。白黒なのに、その強い意志を宿した瞳の紫紺色が鮮やかに見えるような気がして、シオリは食い入るようにその絵を見つめた。いつも優しく見つめてくれる紫紺の瞳が、その絵の中では力強い光を湛えている。
指先で、描かれたその顔の輪郭をそっとなぞった。
「――その絵、気に入ったの?」
「え、あ……」
声を掛けられて、はっと我に返る。顔を上げると、どこか悪戯っぽい笑みを浮かべたアンネリエと目が合った。
「気に入ったのなら、差し上げるわ」
「えっ……いいんですか?」
「ええ。気に入ってくれた人のところに行く方が、絵も喜ぶもの」
言いながらスケッチブックから取り外して手渡して来る。
「わぁ……ありがとうございます。大事にします」
「いいえ、どういたしまして」
両手で受け取った絵を、もう一度眺める。微かな溜息を落とすと、ふふ、とアンネリエが小さな笑い声を立てた。
「今のシオリさん、貴女を見つめてる時のアレク殿と同じ表情だわ」
「え」
言われて思わず口元を抑える。同じ表情。どんな顔をしていたのだろうか。
「……彼、とっても優しい顔で貴女を見てるのよ。最初は少し厳しくて気難しそうな殿方だと思ったけど、よく見ていると意外に表情豊かだし、それに――貴女を見ている時は、吃驚するくらい柔らかく笑っているの」
「う……」
さすが画家。短い時間でも随分とよく観察している。
そうだったのかと気恥ずかしくなり、言葉を紡げずに黙りこんでしまった。ということは、自分もアレクを見ている時はそんな表情をしていたのだろうか。
「――お互いにとても大切に想っているのね。いいわね、なんだかそういうの。羨ましいわ」
最後に付け加えられた言葉に、羨望と――諦念のようなものを感じた。スケッチブックに視線を落としているアンネリエの横顔をちらりと見る。その口元には薄っすらと笑みが浮かべられているけれど、瞳はどこか悲しげにも見えた。
――その視線の先にあるのは、こちらを見て微笑んでいるデニスの肖像画だ。
ルリィ「好きなんだけど~~~~~♪」




