14 素直で可愛いひと
冷水で顔を洗って涙の跡を流し、軽くタオルで拭ってナディアを見ると、「ちょっと目が赤いのは、仕方ないね」と、どことなく苦笑の残る顔で頷いてくれた。自分もまた仕事中に泣いてしまったとあって居心地の悪さがあり、やはり苦笑いのようになる。
「……あんたが泣いたのは誰のせいでもなかったんだからね。あんまり気に病むんじゃないよ」
「うん。ありがとう、姐さん」
多少の硬い空気は残っているものの、いつも通りのシオリに戻ったことに安堵したのか、仲間は見張りの為に場を離れて行った。アレクはそれでもまだ心配そうではあったけれど、大丈夫と視線で伝えれば引き下がってくれた。そっと背中を撫でてから、ルリィとともに定位置に戻って行く。
アンネリエとバルトは濡れたままの髪を乾かすために、促されるままに食卓の椅子に腰掛けた。
デニスは身の置き所に困ったような表情で同じように座ろうとしたが、アンネリエとバルトに風呂に追いやられてしまった。些か乱暴なようにも思えたけれど、少しでいいから一人になって来いという女主人と同僚の気遣いのようなものだと察したのだろう。しばしの間入り口で立ち尽くしていた彼はそのうちに諦めたのか、大人しく中へと入って行った。
「……では、髪の毛乾かしますね」
「なんだかあの後では気まずいけれど……お願いね」
さすがに胸元が見えるような姿は改め、上着を着た上からタオルを羽織って服が湿るのを防ぎながら、アンネリエは眉尻を下げて上目遣いにこちらを見た。
それに対して「大丈夫です」と伝えながら、許可を得てアンネリエの水気の滴る濡髪に触れた。タオルで水気を軽く吸い取る。
そっと手のひらから発動した温風をプラチナブロンドに当てた。よく手入れの行き届いた柔らかい手触りの髪が風に棚引き、魔法灯の灯りを受けてきらきらと輝く。背中の中ほど辺りで切り揃えている髪の毛は程なくして乾き、光沢のある艶髪になった。
「終わりましたよ」
声を掛けると、温風の温かさと指先がマッサージのように頭皮に触れていく心地良さでうっとりとしていたアンネリエがはっと我に返った。水気が飛んでさらさらになった髪に指先を通して乾燥具合を確かめる。
「ありがとう。とても気持ち良かったわ。早く乾くし気持ち良いしで癖になりそう……」
デニスも良いのだけれどシオリさんがいてくれればもっと良いわね、そう言われてシオリは目を瞬かせた。
「え? デニス様?」
「あー、いつもはデニスが髪を梳いてるんですよ。この方は放っとくと碌に髪を拭わずにうろうろなさるんで……」
「……そ、そうでしたか」
普段はデニスがアンネリエの髪を世話しているという。基本的には一人で身支度すると聞いていたけれど。
この気さくな女伯爵は使用人からも好かれているらしいが、芸術家らしく奔放に過ぎるところもあり、並みの人間では侍女や従者は務まらないことも多いらしい。髪にしても、ざっくり拭って濡れたまま束ねてしまうアンネリエを見かねたデニスが面倒を見るようになったのが始まりだという。
ではこの手入れの行き届いた髪艶はデニスの仕事なのか。
(……うーん、やっぱりお母さんみたい)
思った以上に面倒見が良いらしい。移民嫌いという欠点を差し引いても、もしかしたらロヴネル家の使用人達に好かれているのではないだろうかと、ふとそんなことを思った。困っている者がいれば仏頂面のままながらも手を貸す彼の姿を想像して、あながち間違いではないのではないかとほんの少しだけ楽しくなった。
「じゃあ次、俺もお願いします」
「はい」
そわそわしているバルトの背後に立って、今度は彼の髪に温風を当てる。
「おおお……」
こちらもお気に召してもらえたようだ。先程のアンネリエといい、こうして緩んだ顔を晒している彼といい、そして感情を素直に露わにするデニスといい、この主従は感情の変化がわかりやすい。普段からこうだとは思わないが、私的な時間は素に近い状態でいるのかもしれない。
「はい、終わりです。お疲れ様でした」
「おー、本当に乾いた! ありがとうシオリ殿。風呂も良かったけど、確かにこれは癖になりそうな気持ち良さですね」
「でしょう? 気持ち良すぎてこのまま寝てしまいそうになったわよ」
和気あいあいと言葉を交わす様子は、主従というよりは親しい友人同士のようだ。いつかの迷子騒動で見た主従のような、互いに親愛の情を持ちながらもどこかで一線を引いているような接し方ともどこか違う。
「……あら、なあに? どうかした?」
いつの間にかじっと見入ってしまっていたらしい。視線に気付いたアンネリエに声を掛けられて、はっと我に返る。不躾に眺めていたことを詫びると、別に構わないわと返されてしまった。本当に気にも留めない様子で言われて安堵する。
「……仲がとても良さそうでしたので、つい……」
促されて躊躇いながらも答えると、アンネリエとバルトは顔を見合わせて笑った。
「実際主従らしくないという自覚はあるわ。だって、ほとんど幼馴染みたいなものだもの」
「小さい頃に、アンネリエ様の遊び相手に連れて来られたのが俺とデニスなんですよ。偶々他に年齢の釣り合うのがいなかったので、俺達が選ばれたんです」
バルトはロヴネル家の分家、デニスは更にその分家の家の出だという。幼いとは言え、貴族の令嬢の遊び相手に少年二人というのはどうなのかという意見も多かったらしいが、それをねじ伏せたのが先代の当主なのだそうだ。
「元々他にも候補は何人かいたの。でも、二人は一つ年上なだけなのだけれど、他の子達はもっと年上で微妙に話が合わないし、それになんというか……遊び辛かったのよね」
ただ歳が離れているからということだけが理由ではなかったらしい。言うことを聞かせよう――言い方を変えれば、手懐けようという態度が幼心にも感じ取れて居心地が悪かったという。
「俺やデニスは親父達から『お嬢さんのお相手だ、存分に遊んで来い。ただし危ないことだけはするなよ』って送り出されたんですけどね。他の家はどうも違ったみたいで……」
「……要するに『ロヴネル家の令嬢をモノにして来い』って言われてきたみたいなのよね。男の子でも女の子でも、自分の思い通りに誘導しようとするか、さもなくば私の言いなりになるかのどちらかよ。これじゃ遊び相手の役を果たせてないわ」
「ああ……なるほどそういう……」
遊び相手。その意味を正しく理解していたのはデニスとバルトだけだったということなのだろう。そして彼らの親もまた。
候補から漏れた者達は野心を持って近付いたから遠ざけられた。そういうことだ。
「お父様はただ遊び相手をさせたかっただけではなくて、側近候補選びのつもりでもあったみたいなの。ロヴネル家の人間は美術なり音楽なり、大抵はそういう道を歩む者ばかりだから、その創作活動の妨げになるような人間は要らないのよ」
「ロヴネル家は一に領地運営、二に芸術活動のお家柄です。領地と領民の生活の安定は貴族家の義務。そして創作活動は自己表現の場であるとともに、資金調達の手段でもある。どれが欠けてもロヴネル家たりえません」
「……はい」
何か凄い話になってきた。話の展開に驚きながらも、興味深い話につい聞き入ってしまう。
「ロヴネル家の領地や家名、潤沢な財産目当ての人間は、貴族の義務を真っ当に果たせるはずがないから論外よ。それに、創作活動の産物をただのお金儲けのように考えてもらっても嫌なのよ。さっきバルトが言った通り自己表現の場でもあるのだから、それを変な横槍を入れて自分好みに変えようとされれば気分が悪いわ」
「かと言って『仰せのままに』なんて言いなりになってるようじゃ、側近なんて務まりませんしね。場合によっては苦言を呈して主人を諫めなければならないこともありますし」
「その合格基準を満たしたのがデニスとバルトだったっていうわけなの。ある程度私の希望を聞いてくれつつも、ちゃんと自分のしたいことも言ってくれたし。一緒に遊んでても楽しかったわ。勿論私が危ないことをしようとすればちゃんと叱ってくれたしね。お兄様面するでもなく、お友達にするようにごく自然に――」
「……そうだったんですね。それで……」
主従でありながらも気安い様子だったのは、本当に親しい友人のようにして育ったからなのだ。
そして、「存分に遊んで来い、ただし危ないことだけはするな」とそう言って送り出したデニスとバルトの父親達は、きっと人柄も良かったのだろう。元より陽気で気さくなバルトの人柄の良さは見ているだけでもわかるし、あの気難しく根強い偏見を持っているデニスも、向き合って話してみれば、根はとても素直で潔い。
「……まぁ、俺とデニスの親父なんかは『うまいことやって潜り込ませたな』なんて大分揶揄されたらしいですけどね。でもどうかな、うちの親父もデニスの親父さんも、どっちも面倒が嫌いだしざっくりしてさばけた人達ですからね。野心もへったくれもなく、ただ単純に遊んで来いって言っただけのような気もするなぁ。二人して『本家の庭は広くて楽しいぞ』って笑って……」
「――なんの話だ?」
話を付け足したバルトの後ろから入浴を終えたデニスが声を掛けて、彼は飛び上がった。
「うっわ吃驚した! なんでもないよ、お前が素直で可愛いからアンネリエ様に大事にされてるねーって話」
「な……んだそれは」
何故か狼狽えたバルトが適当に話を濁したが、デニスはそれをそのまま信じたようだった。風呂で身体を温めて来たばかりだからというだけでもなく、彼は顔を赤らめた。
「……ね、本当に素直で可愛いでしょ」
「……ええ、そうですね。本当に」
ぽそりとアンネリエに耳打ちされて、シオリも小さく笑った。それからデニスに椅子を勧める。
「髪の毛、乾かしますね」
「いや、俺は、」
先程のこともあってどこか気まずそうに遠慮する言葉を口にしかけたが、「せっかくだからやってもらいなさいな、風邪をひくわよ」とアンネリエに言われて従うことにしたようだ。
「……では、よろしく頼む」
「はい」
手のひらから発した温風を、少し硬い髪質の赤毛に吹き付ける。失礼しますと声を掛けてから、そっと赤毛に手を触れた。彼はほんの少しだけ肩を揺らしたが、あとはそのまま大人しくされるがままになっていた。ゆっくりと肩の力が抜けていくのがわかる。
バルト同様、女性のようには長くないから乾くのも早い。
「……終わりましたよ」
言いながらデニスの横顔をちらりと見ると、毛繕いされている猫のように幸せそうに目を細め、口元も柔らかく緩められていた。
(あ、本当に可愛い、この人)
そう思いながらアンネリエとバルトと顔を見合わせてくすりと笑った。
「ありがとう。心地良かった」
母さんがしてくれたみたいだった。
――恐らく無意識にだろう落とされた言葉は、聞かなかったことにした。多分、そうした方が良いだろうと思ったから。
ルリィ「男にも可愛げは必要らしい」
あ、前回後書きに書いた「エンクヴィスト家のマルティンさんとクラース君」は第一章の迷子騒動の時の主従です。今回の主従と比べるとあんまり濃くは書いてませんので、記憶に残らん方も多かったと思います(;´Д`)




