13 ある男の独白
しくじった。
その東方系の女を初めて見た時、まず思ったのがそれだった。
アンネリエがどういうわけか行きたがっていた冬のシルヴェリアの塔。
出来る限りその望みを叶えてやりたいとも思っていたが、雪の積もる季節に日帰りで行けるような場所ではなかった。幾ら野外活動に慣れているとは言え大切な女主人を雪の中で寝泊まりさせるわけにもいかず、数年もの間先延ばしにしてきた件だった。
商談で訪れたエンクヴィスト家のマルティンから、野宿でも快適な環境に整え身の回りの世話をするという「家政魔導士」なる冒険者がトリス支部にいると聞き、ようやくアンネリエの希望を叶えられるとすぐさま飛びついたのが失敗だった。
何故移民の女だと教えてくれなかったのかと随分恨んだものだが、考えてみればトリスヴァル領やエンクヴィスト領は国内でも最も移民に寛容な地域だ。元より北部や東部は帝国に統治されていた時代もあり、帝国や属州民などの異国の血が混じっている者も決して少なくはない。トリスヴァル辺境伯夫人も移民の血を引く庶子の出だ。移民だとあからさまに色眼鏡で見るような土地柄ではないのだから、その家政魔導士の女が異民族であるということを敢えて口にしなかったのも道理だ。
しかし、だからこそもっとよくその女の素性を調べておくべきだった。
まさか移民――それも黒髪の辺境民族だと知っていれば、初めからアンネリエに引き合わせようなどとは思わなかった。
移民など信用できない。止むにやまれぬ事情があって異国に流れ着いたというその不幸な境遇には同情もするが、それゆえに安定した生活というものに貪欲な者も多い。条件の良い人間を見つければどうにかして取り入ろうとする。この国に辿り着くまでの道程が過酷であった分――遠方の国の民であるほどそれは顕著だった。
裕福な者や貴族と知るや、色目を使い媚びへつらう。取り入って、あわよくば――そんな思いが透けて見える者の何と多いことか。
彼らの身の上を理解していても、その姿が酷く浅ましく思えてデニスにはどうにも我慢ならなかった。
ロヴネル家の分家の次男であった父は、継ぐべき領地も爵位も無く、生計を立てる為に冒険者の道を選んだ男だった。芸術家を多く輩出する本家の為に、被写体や顔料の材料となる植物や鉱物の採集を主に行うハンターだった。
その仕事をする中で相棒として選んだのが南国出身の冒険者だった。デニスと母から父を奪い、挙句に心中にまで持ち込んだ遠国の南国系の――すらりとした身体つきの女とも男ともつかぬ中性的な容貌の、浅黒い肌と緩く波打つ黒髪の女。
デニスは直接女と対面したことは無い。時折打ち合わせで屋敷を訪れる女の姿を何度か遠巻きに見たことがあるだけだ。ただ、その打ち解けた様子から、父だけではなく母もその女を友人のように思っていたということだけは感じ取れた。いつぞやなどは母のお下がりのドレスを与えて着せていたこともある。
母は信頼し、信用もしていたのだろう。夫の仕事の相棒としても、友人としても。
それだけに、あの日――結婚記念日を数日後に控えたあの日、依頼だと言って出掛けて行った二人が遂に戻らず、数週間後に無残な遺体となって発見された時の母の嘆きようは相当なものだった。遺髪しか戻らず、空弔いの葬儀の最中に囁かれていた噂話で父の死の真相を知った時の怒りは今でも忘れられない。
――二人、手を取り合って倒れていた。
――その手に「永遠の愛」を意味する花を握り締めて。
――心中。
『何故。どうしてなの。どうしてこんなこと――』
そう言って深く嘆き悲しんだ母の姿は忘れられるものではない。その後、最愛の夫を亡くした母は床に伏せがちになり――冬を迎える前に肺病を患ってこの世を去った。
――それ以来、移民――特に黒髪の女を受け付けられなくなった。
『得体の知れない異人をアンネリエ様に会わせるわけにはいかない。貴女はお引き取り頂きたい』
何の躊躇いも無くそんな言葉を女に浴びせると、女は僅かに瞠目してから指名された家政魔導士であることを告げた。女は媚びたりもしなければ食い下がるわけでもなく、それどころか淡々とこちらの意思を確めた上であっさりと引き下がる素振りを見せた。
むしろ激昂したのは彼女の仲間の方だ。連れの男二人が怒るのはまだ理解できた。この東方の女に篭絡されて囲っているかもしれないからだ。しかし驚いたことに、もう一人の女――ストロベリーブロンドの髪色から判断するに恐らく旧リトアーニャ王国からの亡命者だろう女までもが、黒髪の女を庇いだてしたのだ。その後の様子からも、どうやら男だけではなく女からも随分と大事にされているらしい事が窺い知れた。
奇妙な女だ。
次に抱いた感想がそれだった。
黒髪の女に対する不信感が消えたわけではなかったが、今まで見たどのような移民とも様子が違った。豊富な知識量と冷静で的確な判断力、高度な魔法の技術、そして休憩地や野営地での働きぶり。
特に料理の腕前は秀逸だった。きっと料理屋でも開けば繁盛するだろう。手際の良さもそうだが、そのどこかひどく懐かしい、望郷の念を掻き立てるような味わいの手料理が――
しかし、それをどれだけ称賛しようとも、驕るでもなく受け流し、それどころか本気で謙遜する始末だった。どうやら彼女の故国ではこれが当たり前の水準らしい。女が学府を出ているということも驚きだが、それもやはり珍しいことではないという。
高い水準の技術力と教育環境の整った優れた国が東方にあったとは初耳だった。興味を惹かれて訊ねてみたが、女の口ぶりからどうも亡国であるらしいことが知れた。地図にも載らない国。王政が廃止されて共和制を敷いたリトアーニャのように、国という形が残されているわけでもないのだろう。
女が時折感じさせる、現実味の薄い存在感――儚さとでも言うのだろうか、その正体が知れたような気がした。
己の好奇心を満たす為とは言え――嫌いな移民の女とは言え、幾ら何でも不躾に過ぎた。謝罪すれば、女は「慣れておりますので」と少し困ったように言うだけだった。
(慣れている……か)
恐らく移民の、それも珍しい東方系の女というだけで興味本位に身の上を探られることも多かったに違いない。さぞや不快だっただろう。
自分もそうだ。
男爵家の出である父親が異民族の女と駆け落ちした挙句に心中した、帝国の血を引く妻とその子を捨てて――ゴシップとして楽しむには格好の話題であっただろう。興味本位に話を聞き出そうとする輩には随分とうんざりさせられたものだ。
その場に下りた沈黙がどうにも気まずく、間を持たせる為に些か強引に話題を振った。先程味見したスープの味。両親が健在で、まだ幸せだった頃に母が作ってくれたものと同じ味わいのあのスープ。懐かしい味だった。こんな味を出せる女が、母と同じ味を出せる女が、得体の知れない人間であるわけがない。少なくとも――真っ当な家庭で育った、真っ当な人間であるはずだ。
そのことを持ち出して柄にもなく褒めてみれば――
「シオリ殿!?」
デニスはぎょっとして立ち上がった。
シオリという女の常に不思議な微笑を浮かべたままで穏やかだった表情が崩れ、その双眸から涙が溢れ出した。慌ててハンカチを差し出せば、ひどく不思議そうな顔をされた。とめどなく流れ落ちる涙に、彼女自身は気付いていないらしい。
だが、異変に気付いたシオリの仲間――アレクという男が駆け寄り、彼女を抱き込むようにしてその泣き顔を隠してしまった。
「こいつを泣かせるなど、一体どういうつもりだ」
敵意を隠そうともしない、恐ろしく剣呑な瞳で睨み付けられる。
騒ぎを聞きつけて他の二人も駆け寄って来た。やはり、向けられる視線は厳しい。
「あーっ! お前何泣かせてんだ!? 気に入らないからってそこまでするか!?」
入浴を終えて出て来たバルトにも非難された。それどころか、
「泣かせたですって!?」
もうひとつの浴室からも叫び声が聞こえ、いよいよデニスは本格的に焦りだした。道理に合わないことを嫌うアンネリエが裸のまま飛び出して来かねない状況だからだ。
浴室の中で乱暴な物音や衣擦れの音が激しく鳴り響き、直後に彼女が飛び出して来る。幸い全裸ではなかったものの、濡髪をほとんど拭わず、羽織ったシャツも上まで全てボタンを掛け切らずに胸の谷間が見えるような危うさだ。貴族女性が晒すには煽情的に過ぎる姿だが、彼女はそれどころではないらしい。
ずかずかと歩み寄って来たアンネリエはシオリの様子を確めると、腕を組んでじろりとデニスを睨み付けた。
「どういうことなの? 説明してちょうだい」
「いや、これは誤解……というか、いえ、泣かせたのは事実ですが」
旗色が悪過ぎる。自分が彼女を疎んでいたのは周知の事実だ。しかも、彼女には全く非が無いにも関わらず邪険にしていたという自覚もある。そして、理由は分からないが自分が原因で泣いたのは間違いない。
しかし、何を言われようともほとんど表情を動かさなかったシオリが何故突然泣き出したのか、全く見当も付かなかった。この二日間厳しい態度で接し続けたことで我慢の許容量を超えてしまったか。見たところ自分よりも年若い女だ、初対面の男にああまで理不尽に冷たくされては泣き出さない方がおかしい。
「依頼途中で投げ出したくはないが、あまりにも依頼人との信頼関係を築くのが難しいのであれば、中断させてもらうことも考えねばなるまい」
「そうさねぇ、お互いに命にも関わるからね。さあ、説明してもらおうかい」
クレメンスとナディアが詰め寄る。
張り詰めて弾け飛びそうなほどに緊迫した空気が漂った。どう説明したものかも分からずになす術もなく、これは諦めて旅の中断も受け入れねばならないかと思い始めたその時。
「……あの、」
シオリがアレクの腕の中で遠慮がちに声を上げた。涙を拭い、彼女を抱きすくめたままの腕を軽く叩いて促すと、アレクは不満げにしつつもそれに応じて拘束する腕を緩めた。彼女はそこからするりと抜け出し、やや充血しかかった瞳をそれでも真っすぐにこちらに向けた。
「デニス様が悪いわけではありません。嫌なことも言われておりません。とても――とても嬉しい言葉を掛けてくださったので、つい」
「嬉しい? そんなことを言った覚えもないが……」
やはりデニスは困惑した。ただ少し、スープの味を褒めただけだ。
だがシオリは頭を振って笑った。
「いえ、言ってくださいました。良い家庭で育った、温かい家庭を知っていると言ってくださいました。私には、この国に来るより前の身の上を示す物が何一つありません。ですから、故郷のことも自分の身の上も、何一つ証明することが出来なくて――」
そばにいるアレクの手が、その華奢な肩に置かれた。気遣うように、労わるように、優しく彼女を抱き寄せる。アレクをシオリが見上げた。心の底から信頼を寄せ、心を預けているようなその視線。
(ああ、そうか。この二人は……)
――想い合っているのだと知れた。まるで、自分とアンネリエのような――
「……あるのは記憶だけです。形のある物で私の今までを証明することが出来ませんでしたから、私自身が故郷の想い出自体が実は妄想の産物だったのではないかと思うようにもなりました。でも、デニス様がそれを認めてくださったので……記憶にしかない家族との想い出を認めてくださったので、とても嬉しくなって、それで、」
泣いてしまったのだと思います、そう言ってシオリは申し訳なさそうに眉尻を下げた。
「すみません。仕事中に泣くなんて見苦しいところをお見せしてしまって」
深々と頭を下げられてしまった。やはり、媚びるでも取り繕うでもなく、本気で恥じ入り謝罪しているのだということが察せられて、デニスは急に気恥ずかしくなった。今まで自分がこの無辜の女にどれだけ無礼を働いたかをようやく完全に理解したからだ。
「いや……こちらこそすまなかった。随分と邪険にしてきたのは事実だ。むしろ謝罪せねばならないのは俺のほうだ。申し訳なかった」
こちらも潔く頭を下げる。
張り詰めていた場の空気が弛緩した。誰からともなく深い溜息を吐く。こちらを睨み付けていた皆の厳しい視線が緩んだ。やや釈然としない様子ではあったが、とりあえず許してはもらえたらしい。
「デニスが随分と迷惑を掛けたわ。本当にごめんなさいね、シオリさん。部下の不始末は私の責任でもあるわ」
アンネリエもまた頭を下げ、自身も同じように再び頭を下げる。シオリは慌てた様子だったが、彼女の仲間達はそれでようやく怒りを収めてくれた。
バルトが肩を叩いた。
アンネリエと視線が絡む。物問いたげな――しかし、どこか安堵もしているような。その視線がふっと緩み、微かな笑みの形に細められる。
この女主人にはずっと心配と迷惑を掛け通しだった。あの日から。父が家庭を捨てて死に、母も儚くなって自分一人が残されてから、ずっと。
移民の女――黒髪の女に対する不快感は完全に消えたわけではない。だが、自身の内に巣食った差別意識を本格的に見直さなければならないと、今初めて本気で思った。これはきっと切っ掛けなのだろう。それを逃してはならない。
幼馴染の自分が辛い想い出を受け入れ消化することが出来たなら、優しいアンネリエもきっと安心してくれるだろう。何の憂いも無く安心して良縁を得、良き伴侶を迎えてくれるだろう。
その喜ばしい日が来るまでは。
(――俺がそばにいてもいいよな、アニー)
不甲斐ない自分だけれども、それでも大切な幼馴染、惚れた女を守るくらいは出来るから。
ルリィ「地味に見せ場を奪われている人がいる」
ところでエンクヴィスト家のマルティンさんとクラース君を覚えてる方、どのくらいいらっしゃいますかね?ヽ(゜∀。)ノ




