47 幕間・失恋男達を慰める会(ナディア、ザック、クレメンス)
――エステルヴァルの要塞、陥落。
その報は瞬く間に領都トリス第三街区を駆け巡り、トリス支部は騒然となった。ある者は呆然と天を仰ぎ、ある者は愕然と床に座り込む。そしてある者は――黄色い歓声を上げた。
「やったわ! とうとうシオリにも好い人が出来たのね!」
ひゃっほうと歓声を上げながら、その年齢に見合わぬはしゃぎぶりでその場を飛び跳ねて回るのは、槍使いのマレナ・ラネリードである。若い娘じゃねぇんだから、と妻をつつき、次の瞬間腹を槍の柄に抉られて呻くのは彼女の夫である魔法剣士のルドガー・ラネリードだが、その顔はどこか嬉しげだ。――念の為に言っておくと、別に槍の柄を突っ込まれて喜んでいるわけでは決してない。
何しろシオリ・イズミときたら大変な努力家でトリス支部にも多大なる貢献をしているにも関わらず、本人はあまりにも無欲に過ぎるのである。何者にも寄り掛からず、ただ生きる為だけに淡々と身を粉にして働く様子がどうにも痛々しく、どうにかならないものかと気を揉んでいた者は多かったのだ。
そのシオリに恋人が出来たというのであれば、これほど喜ばしい事は無い。
――対して、密かにシオリに想いを寄せていた面々は、げっそりと卓の上に突っ伏した。
いつかは彼女の隣にと思いながらも心の傷を知ってうかつに手を出せずに二の足を踏んでいた者や、思い切って突撃して見事に玉砕した者など様々であるが、あまりにも男に依存しない態度を貫くその徹底ぶりに、いつまでも誰の物にもならず高嶺の花であり続けてくれるのだろうと、心のどこかで安心してもいたのだが――まさか出逢って三ヶ月足らずの男にあっさりと掻っ攫われるとは。
ちなみにザックは聞こえないふりを決め込んで書類仕事に没頭し、クレメンスはと言えば――壁に頭をめり込ませていた。おっさん大丈夫? とリヌスに突っ込まれ、「おっさん……」と呟きながらめり込む領域を更に増やしている。壮年期を超えてあと数年で中年期に差し掛かろうとしている男の心は繊細なのだ。
――エステルヴァルの要塞。
シオリの異名である。
ストリィディア東部の国境地帯を臨む高台に位置するその要塞は、青々と生い茂った美しい草原に囲まれ日の光を受けて白亜に輝いている。一見すると風光明媚な景勝地のように見えるその要塞は、平時には観光地としても有名だ。
だが、その美しく穏やかな光景に騙されて攻め易しと侮れば、たちまちにして返り討ちに遭う恐るべき要塞。遠目には白亜の宮殿のようにも見える城塞に向けて馬でも走らせればさぞや爽快であろうと思わせるその草原の実態は、葦に覆い隠された泥炭地だ。ひとたび足を踏み入れれば長年に渡って堆積し続けた泥炭の底無し沼に足を取られ、ゆっくりと飲み込まれてしまう。仮に抜け出すことが出来たとしても、泥に潜んで忍び寄る水棲魔獣の餌食となるか、要塞から降り注ぐ矢と魔法の雨に撃ち抜かれるかの何れかである。
穏やかで風光明媚な光景とは裏腹に、天然の死の罠が張り巡らされたエステルヴァルは、難攻不落の要塞としても名高い。
――穏やかで優しげな佇まいが口説きやすそうだと思う男は多いが、相手がどれほど美形だろうがどれほど高給取りだろうが、そしてどれほど身分が高かろうが、まったく靡こうとはしなかったシオリに付けられた異名が、穏やかな見目に反して難攻不落の「エステルヴァルの要塞」なのである。
数々の男を袖にして来た難攻不落の要塞が落ちた――初めてその報せを齎したのが、ブロヴィート派遣組であった。
曰く、丁寧さを崩さなかったシオリの口調が砕けたものになっていた。曰く、シオリが相手の男を呼び捨てにしていた――と。
初めは多くの者が信用しようとはしなかった。なにしろこの四年間、口説き落とせた男は誰一人としていないのである。それに加えてあの痛ましい事件――余程の事が無い限り、男に心を開くことは無いだろうと言われていたのだ。
だから、誰もが思った。如何にアレク・ディアが男前だろうが高給取りだろうがA級保持者だろうが、今度も絶対失敗するだろうと。
だが、意外にもシオリは彼に心を開く様子を見せ、ついには――
「アパルトメントの前でキスしてた!」
「うっそ!?」
「昨日なんかあいつ泊まったらしいぞ! 今朝アパルトメントから出て来るところ見たって奴が」
「マジか! 朝帰りとは恐れ入ります!」
……というような次第である。口付けを交わすような仲の男女が一晩を共に過ごしてすることなど一つしかない。
――実際には寝込んだシオリをアレクが看病していただけの話なのだが、今この場に居る者達にはそれを知る由も無かった。
ちなみに、「キスしてた」ではどうにか平常心を保っていたシオリの兄貴分であるザックは、次の「朝帰り」という言葉を聞いた瞬間、「苛烈なる王」として名高い国王陛下も裸足で逃げ出すのではないかと思われる程の凶相でぐしゃりと書類を握り潰したが、噂話に夢中の面々はこの事に誰も気付かなかった。
クレメンスはゆらりと身体を起こすとおもむろに窓辺に寄り、外の景色に視線を向けて黄昏れ始める。一見すれば黄昏る渋い美形だが、景色を眺めているはずのその目は――死んでいた。「……あんたまだ引き摺ってんのかい」と些か呆れたように声を掛けるのはナディアである。
「ルリィ! 本当か!?」
未だに信じられぬという面持ちの男どもは、今日は一人で居るらしいルリィに詰め寄った。棚と棚の隙間に触手を伸ばしてなにやらごそごそしていたルリィは、そこから引き摺りだした何かをぺろりと飲み込むと、男どもに向き直った。
「キスして!」
「朝帰り!」
男どもを見上げたルリィは、頷くようにぷるんと震えた。肯定の意である。シオリの使い魔が認めたのなら間違いあるまい。
「ああああああああああ」
悲鳴だか雄叫びだかもわからぬ声を上げる男どもを尻目に、ルリィは再び棚の隙間に触手を突っ込んだ。先程から一体何をしているのかは気になるところではあるが、世の中には知らない方が幸せな事もある。
この騒ぎの裏で、密かに涙を呑む女達も居た。アレクに想いを寄せていた女達である。何しろアレクと来たら、それこそどんな美女がしな垂れかかろうが、まるっきりこれっぽっちも靡かないどころか汚物を見るような目で睨み返す始末だった。
ごく一部の特殊な嗜好を持つ女達にとってはむしろそれが良いらしく、「御褒美」とか「痺れる」とか「もっと蔑んで」などとよく分からない事を言っては身悶えていたことなどは、やはり知らない方が幸せな事の部類に入るだろう。
ともかく、この日多くの者が失恋し、涙酒に酔う事になったのである。
「……また酔い潰れちまったねぇ」
それでもどうにか長椅子まで移動して寝入ってしまったクレメンスに毛布を掛けると、それを眺めていたザックは葡萄酒を傾けながら苦笑いを返して寄越した。
「ま、そのうち吹っ切れるだろうよ」
「そうだねぇ。良い男なんだし、またどこかで可愛い子を見つけるだろうさ」
ナディアは長椅子の肘掛けに腰を下ろし、眠ったまま起きる様子の無い男のやや乱れた癖のある銀髪をさらりと撫でる。甘さに渋みが加わり、壮絶な大人の色気を放つ男。数多の女を虜にしておきながら、誰一人としてその腕に抱く事無くこの歳まで通してしまった。
(――そういえば、女が原因で家を出たんだっけかねぇ)
ザックやアレク、そしてシオリと比べれば、それほど己の過去を隠すことは無いクレメンス。それでもごく親しい者に限ってではあるが、一度だけ語った事がある。
どうにかして大店の息子――それも美貌の――の婚約者に収まろうとした娘が、彼の酒に薬を盛って事に及ぼうとしたのだと。実際にはクレメンスの強靭な忍耐力によって互いに身綺麗なままで終わったのだが、娘が騒ぎ立てた事で醜聞に発展したという。彼の人柄を知る者の多くは娘の訴えに懐疑的ではあったが、女絡みの醜聞が堅い商売の妨げになると判断した彼は家を出る選択をしたということだった。幸い彼自身は次男であり、家業は兄が継いでいるという。
それ以来酒を警戒し、舐めるようにして味わうのも異物が混入していないか確かめているうちに付いた癖なのだという。
(良い男なのに勿体無いねぇ、色々と)
いつの世も、良い条件が揃った人間というものは苦労するものだ。男も、女も。
「――あんたはどうなんだい、ザック。兄貴面してるけどさ」
「あ?」
思考を目の前の赤毛の男に戻して問い掛ける。
「兄だ妹だなんだって言ってるけどさ、あんただって――あの子に気があったんだろ」
「……女の勘ってやつは怖ぇな」
否定はされなかった。
「何年付き合ってると思ってるんだい。隠してるつもりだったろうけどね、あんた達があの子を好いてる事ぐらいとっくに気付いてたよ」
保護した女を見る目にいつしか熱が籠っていた事に。
「勿体無いねぇ。あんた達二人とも、あの子に一番近い場所に居たってのにさ。いっこうに口説きやしないんだもの」
ナディアの言葉にザックは苦く笑う。その手で弄ぶグラスの中の葡萄酒が緩く波打ち、芳醇な香りを放った。
「――俺もこいつも、あいつを守れなかったからな。手を出す資格なんざねぇよ」
「難儀な性格だねぇ……」
意図的に回される仕事に忙殺されて、シオリが傷付き死にかけている事に気付かなかった。彼女が生還出来たのは、本当に運が良かっただけなのだ。助けたなどとはとても言えない。愛する女を守れなかった男にその手を取る資格など、無い。
そう言うと、ザックは残りの葡萄酒を呷って飲み干した。
(――でも多分……あの子だってあんたが好きだったんだよ)
女同士だからこそ分かる心の機微。
互いに想い合っていながらその気持ちを確かめ合う事は遂に無く、あの痛ましい事件で永久にその機会は失われてしまった。一体どれほどの想いを封じ込めて、兄と妹として在る事を決めたのか。二人の心の内を思えば、胸が焼き切れそうな程に痛む。
二人が辛く哀しい決断を下した分だけ、シオリとアレクには幸せになってもらいたかった。
「――まぁ、あんた達にもそのうちまた良い子が見つかるさ」
ザックに近寄りその頬をしなやかな指で触れると、彼はにやりと笑った。
「なんだ、慰めてくれるのか?」
武骨な手が伸び、ナディアの紅を引いた唇を親指の腹で撫で上げる。
「――馬鹿お言いでないよ」
ナディアは嫣然と微笑んだ。
「知ってんだろ。あたしはねぇ、死んだ婚約者に操を立ててるのさ」
娘時代の恋人に。今でも。
――けれども。
そろそろ、この想いを解放してもいいのかもしれない。いつまでも未練を残したままでは彼も落ち着いて眠ってはいられないだろうから。
怪しげな手付きで腰を撫でたザックの手を捻り上げながら、ナディアは手にした葡萄酒のグラスを彼の唇に押し当てた。
夜半と呼ぶには早い時間。
失恋者達の酒宴は、未だ終わりそうになかった。
ルリィ「人と環境に配慮した害虫駆除ならお任せください」
残念な美形になりつつあるクレメンスさんのかっこいいところをそろそろ書かないと。




