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46 幕間・或る夫人の独り言(2)

二話同時更新です。

前話をお読みでない方はそちらからドウゾ。

 あれは確か夏の前。陛下が崩御される二月ふたつきほど前だったでしょうか。

 ある夜の事、久しぶりにアレクセイ殿下からのお誘いがありました。遠目にお姿を拝見したり、廊下ですれ違う事は何度もございましたが、言葉を直に交わすのは本当にしばらくぶりの事でした。

 大事な話がある、と。そのような短い手紙でのお呼び出しでした。

 わたくしは舞い上がりました。久々の逢瀬もそうですが、何よりも大事な話があると――とうとうわたくしへの妻問いをしてくださるのだと、そのように思い込んだからです。

 仕事を終えた後は入浴して身綺麗にし、いつもより少しだけ華やかな化粧を施して約束の場所へと向かいました。

 既に殿下はいつもの東屋で待っておられました。久しぶりに間近で見る殿下は随分と窶れておいででした。やはり公務がお忙しかったのでしょう。

 殿下はわたくしが近寄ると、いつものように抱き寄せてくださいました。抱き締められた時、少し御痩せになったように感じられました。ですが、その時のわたくしは溢れる幸福感とこれから訪れるであろう妻問いの瞬間に心が昂り、殿下の体調を気遣う余裕すら無かったように思います。

 殿下はそっと触れるだけの口付けをくださいました。いつもの深く貪るようなものではなかったことに不満を覚えてその顔を見上げると、酷く真剣な眼差しでわたくしを見下ろしておいででした。

(――ああ、ついにこの時が来たのだわ)

 この後彼は騎士のように跪いてわたくしの手を取り、そして妻問いと誓いの言葉を掛けてくださる――そう期待したその瞬間でした。

「……城を、出る事になった」

 一瞬何を言われたのかわかりませんでした。期待したような言葉ではなく、言われた事の意味が分からずにわたくしが黙りこくってしまうと、もう一度殿下は仰いました。

「城を出る事になった。この下らない継承権争いに終止符を打つために、継承権を捨てて城を出る。ここへは戻らない」

「……どういう……意味ですの? ああ、もしかして、臣に下ると?」

 臣籍降下するということでしょうか。そのように問えば、殿下は首を振って否定なさいました。

「臣籍降下もしない。継承権を放棄して臣に下ったとしても、状況は然程変わらないだろう。俺という存在がある限り、この争いは続くはずだ。だから、市井に下って姿を隠すことにした。レヴィ、君には申し訳ないが――」

 わたくしは思考が完全に停止してしまいました。

 継承権は放棄する。臣籍降下もしない。市井に下る――それは即ち。

 王族でも貴族でもなく、唯の人になる、と。何の身分も持たない、唯人になると。

 ゆっくりと時間をかけて、言われた事の意味を完全に理解した時――わたくしの思い描いていた未来が完全に閉ざされたことを悟りました。

 殿下の口ぶりでは、もうこれは決定事項なのでしょう。恐らくは王太子殿下や、そして陛下と相談した上での。

 ――わたくしは王子妃にも公爵夫人にもなれない。

 そして恋人だった庶子の王子は、唯の人に成り下がる。公にも出来ない身分の女の子供、どこの馬の骨ともしれない唯の男に戻る。

 ではわたくしは?

 残されたわたくしはどうなるというの?

 十八歳まで待たされて、貴族の娘としては行き遅れに差し掛かるような年まで待たされて、その結果がこれ?

「……あんまりだわ」

「……すまない。だが、市井に下る以上、子爵家の令嬢たる君を娶る事はもう、」

「当たり前よ!」

 言葉の途中で遮って叫ぶと、殿下は肩をびくりと竦ませました。

「……本当にすまない事をしたと思っている。君と一緒になりたいと思っていた気持ちに嘘偽りはない。だが、オリヴィエの為にも国の為にも、こうするより他無かった」

「わたくしを選ばず、弟と国を選んだのね」

「――オリヴィエには、君が良縁を得られるように頼んである。だから、俺とのことは想い出として、新し――」

「勘違いなさらないで」

 王族という貴い身分を捨ててまで市井に下るようなくだらない男の、くだらない言葉など、聞きたくもありませんでした。

「継承権を放棄して王族の身分すら捨てる貴方に、その貴方との想い出に、一体何の価値があるというの」

 わたくしの言い放った言葉を聞いた途端、殿下は息を飲み、そしてその顔から全ての表情が抜け落ちて――酷く蒼褪めたまま、蹈鞴を踏むようによろよろと後退りました。

「不愉快だわ。もう二度とわたくしに話しかけないで」

 王子ではない男などとこれ以上話して時間を無駄にしたくはございません。少なくともその時のわたくしはそう思っておりました。

 わたくしは踵を返し、そのまま二度と振り返ることもなくその場を後にいたしました。

 ――立ち竦んだままの殿下を、その場に残して。




 その晩わたくしはほとんど一睡も出来ませんでした。

 最悪の気分でした。王子妃の身分をちらつかせて少女時代の貴重な時間を無駄にさせておきながら、呆気なくわたくしを捨てて唯の人に成り下がった男に酷く腹を立てておりました。

 苛々と収まらない気持ちを抱えながら、それでも明け方近くにほんの少しだけ転寝をしていると、部屋の扉を叩く音が聞こえました。まだ城仕えの者ですら、そのほとんどが朝の微睡に身を委ねているような時間帯です。初めは気のせいかとも思いましたが、もう一度扉を叩く音がしました。次は、もっと強く。

(こんな朝早くにどなたかしら)

 怪訝に思いながらも急いで見苦しくない程度に髪を整えて扉を開けると、そこには二人の近衛騎士が立っておりました。それもただの近衛騎士ではありません。王族付きの上級近衛騎士。

「レヴェッカ・ハロンスティン嬢でお間違いありませんか」

「……はい」

 わたくしの名を確かめると、お二人は目配せをしてから軽く頷き、それからわたくしにもう一度向き直りました。大変険しい表情で。

「貴女に拘束命令が出ております。一緒においでください」

「……え」

 拘束命令。どういうことなのでしょうか。

 わたくしは戸惑いましたが、それでもお二人に促されて急いで身支度を整えると、言われるままに後ろを付いて行きました。拘束命令というだけに、とてもではありませんが友好的とは言えない雰囲気です。わたくしの前後を歩き、まるで罪人を連行するような有様に、何か大変な事が起きたのだと悟って青くなりました。

 王族付きの上級近衛騎士。そして拘束命令。明らかに罪人を連行するような態度。

 どのような理由でこのような事態になったのかは、愚かなわたくしでもさすがに予想がつきました。

 ただの近衛騎士ではなく、王族付きの上級近衛騎士が迎えに来たのだとすれば、それはわたくしが王族の方のご機嫌を損ねるような何かをしたということなのです。だとすれば、思い当たるのは間違いなく昨日の――。

 わたくしが連れて来られたのは上層階、王族の居住区画の端にある一室でした。調度類こそ造りが良く品のあるものではありますが、寝台と書き物机、そして小さな戸棚がそれぞれ一つずつあるだけの、大変簡素なお部屋でした。王族付きの従者や侍女が使用するお部屋です。

 わたくしはそこに入れられると、監視役らしい女性騎士と共にそのまま丸一日を過ごす事になりました。ただただ漠然とした不安を抱えたまま何をするでもなく寝台の端に座って呆然とするだけのわたくしと、無表情に壁際に立つ女性騎士。

 動きがあったのは、熟睡出来ぬままにうとうとと眠っていた明け方近くの事でした。

 昨日のように騎士に起こされたわたくしは、身支度を整えて待つようにと言い付けられました。

 しばらくして現れたのは、酷く険しい顔をなさった王太子殿下と、蒼褪めた父の姿。城仕えの下級役人として働いている父も、わたくしと同じように上級近衛騎士に連行されて来たようでした。

 父はわたくしを見るなり何か言い掛けましたが、王太子殿下に制止されて口を噤みました。

「――何故ここに呼ばれたか、もうわかっているかな」

 王太子殿下は奇妙に平坦な声で仰いました。口調こそ静かなものでしたが、その紫紺の瞳にはぎらぎらとした殺意とも呼べるような恐ろしい色が滲んでおりました。いつか見た、栗毛の少年が浮かべていたような、激情を宿した――。

「……はい」

 王族の問いかけに無言で答えるような不敬は許されません。王太子殿下の放つ怒気と殺気に倒れそうになりながらも、どうにか絞り出すようにしてそれだけ答えました。

「王族侮辱罪というものがある」

「……はい」

「恐らく大抵の国にはあるだろう。この罪が適用された場合の最高刑は死刑だ。だが、極刑が下されるケースは実際のところは滅多にない。仮に、王族相手に面と向かって侮辱したのだとしてもね。せいぜいが謹慎か左遷、悪くても降爵くらいだ。様子を見て十分反省したものと判断されれば元の地位に戻される事もある。何故だかわかるかい?」

「いいえ……」

「貴族の世界というものは足の引っ張り合いだ。更なる権力を求め、己が権勢を誇示し維持する為に互いを牽制し潰し合う、そういう世界だ。王族も例外ではない。王族同士で争う事もあれば、下の身分の者から批判的な言葉をぶつけられることもある。時には侮辱とも呼べる言葉を投げつけられる事も」

「……」

「だが、だからと言ってそれにいちいち侮辱罪の最高刑を適用していたのでは、貴重な人的資源が失われる一方だ。今回のような派閥争いの場合は特にね。だから、王族侮辱罪で極刑が下されるケースは滅多に無いというのはそういうことだ。しかし――」

 そこまで仰ってから、王太子殿下は一旦言葉を切りました。続く言葉が恐ろしく、わたくしはただただ震えながら立ち尽くすしかありませんでした。

 王族侮辱罪で極刑が言い渡される事は滅多に無い。でも、わたくしの場合は――?

 続けられた言葉は、やはり予想通りに恐ろしいものでした。

「しかし、君の場合は極刑が下されても文句が言えないレベルの侮辱だった。アレクに聞いたよ。よくその場で斬り捨てられなかったものだ。あいつがやらなくても、今ここで僕自ら手を下しても良いくらいだ」

 腰に佩いた剣の柄に手を掛けたまま――殿下はそう仰いました。

「――レヴェッカ、お前! アレクセイ殿下に一体何を!」

 父が激高して怒鳴りましたが、わたくしはそれどころではありません。ここに至ってようやく、わたくしが王族相手にどれだけ恐ろしい真似をしたかを理解したからです。

 例え市井に下るとは言え、現時点では未だあの方は王族の身分にあるのです。恐ろしい事をいたしました。わたくしは怒りのあまり、王族に向かって――

「――出奔することを決めた事で君との交際を続けられなくなったあいつに向かって、お前には何の価値も無いと、そう言ったそうだね」

「なんという事を!」

 殿下の言葉に、父は蒼白を通り越して土気色になった顔で悲鳴にも似た声を上げました。父にはわたくしに交際相手がいる事は打ち明けておりましたが、相手がどなたかまでは伝えてはおりませんでした。ここに至って娘の相手が王族であり、しかもその相手に向かって手酷い侮辱の言葉を投げ付けたと聞いて、酷く動揺する様子でした。

「何の価値も無いなどと、例え相手が王族でなくとも、その存在を否定するような言葉は人に向かって決して言ってはならないものだ。それを君は、王族相手に言ってしまった」

「……あ、ああ……」

 恐怖のあまり、言葉にもならない吐息を漏らす事しか出来ませんでした。決して言ってはならない言葉を、それも極刑に値するような言葉を、わたくしは王族相手に思い切りぶつけてしまったのです。

 王族侮辱罪の最高刑、死刑。わたくしは斬首、そしてもしかしたら父や、それどころか母や弟にまで罰が下されるかもしれません。良くて子爵家とり潰し、悪ければ一族もわたくし同様に死罪。

 もしこれが他の国だったなら、このような場に呼ばれずともとっくに処罰されていたでしょう。

 それだけの事をわたくしはしてしまったのです。

「アレクは残される君に、今後困らないだけの良縁を宛がう事を僕に依頼してきたよ。そして自分は国と僕の為に、その身分も、その努力で勝ち得た地位も、愛した女でさえも全て捨てる覚悟までした。それどころか、市井に下った後も少しでも国と民の役に立つような仕事を選ぶとまで言ったんだ。それで、君は? そんなあいつを何の価値も無いと断じた君には一体どれだけの価値がある? 王族の隣に並び立つ為にどれだけの努力をしてくれた? 国の為に何をしてくれる? あいつ以上の何が出来る? 言ってみるがいい!」

 答えられるはずもなく、わたくしはとうとうその場に頽れてしまいました。ただただその場でがたがたと震えるだけ。

「殿下! 娘の犯した罪はこれを育てた私と家内の罪でもあります。ですから私どもも罰してください。爵位も返上し、財産も全て国へ献上いたします。その代り、どうか、どうか息子だけはお見逃しください」

 何も言えずただ見苦しく啜り泣きながら震えるだけのわたくしに代わって、父が土下座してまで必死に謝罪してくださいました。

 王太子殿下は随分長いこと、黙ってわたくし達を見下ろしておりました。その右手を剣の柄に掛けたまま。わたくしの返答如何では、即座にあれが抜き払われて切り捨てられるのでしょう。

 ――ああ、あれはアレクと同じ意匠の剣だわ――思考停止した頭の片隅で、現実逃避するように薄っすらとそんなことを考えました。

「――此度の事はアレクにも責任の一端はある。貴族家の息女にとって、良縁を目の前にぶら下げられたまま行き遅れぎりぎりの歳まで待たされた挙句に御破算にされるなど、これほど屈辱的な事はないだろう。それに、さすがに身体の関係にまでは至っていないようではあるが、それに近いことはしてきたようだからね。君の気持ちも分からないではないし、あいつ自身も君が処罰されることは望んでいない。子爵の堅実な働きぶりも評価している。だから、子爵と子爵家に対する処罰は無しだ。ただし」

 しばらくの沈黙の後、王太子殿下は淡々と言葉を落とされました。わたくし達は、ただ黙ってそれを聞き入れるのみ。

「君達は僕達の計画を知ってしまった。この件に関してはレヴェッカ嬢に話してしまったあいつにも責任があるとは言え、このまま見過ごすわけにもいかない。だから、全てが終わるまではレヴェッカ嬢にはこの部屋で過ごしてもらう。子爵には通常通り業務に就いてもらうが、監視を付ける。屋敷に戻る事も許可出来ない」

「……はい」

「そしてレヴェッカ嬢。君の犯した罪の償いは当然してもらうよ。いくらアレクが処罰を望んでいないとしても、全くの無罪放免というわけにはいかない。それだけの事をしたんだ」

「……はい」

「君は侍女職を解雇の上、領地で三年間の謹慎処分。生涯王都への立ち入りを禁ず。そしてアレクセイの名とこれまでの関わりを今後一切口にしないことを条件に、子爵の現職への残留を許可する」

「……は。寛大な処置、感謝いたします」

 父はどうにか平静を取り戻して謝意を述べました。ですがわたくしは、極刑免除とは言え一見寛大な処置にも思えるその処分内容の重さに愕然といたしました。

 三年間の謹慎が明ける頃にはわたくしは二十一歳。貴族家の令嬢としては完全な行き遅れです。それに加えて生涯王都への立ち入りを禁じられるということは、社交シーズンでも王都に来ることは許されない、それは即ち――社交界からの実質追放。

 貴族としては致命的です。これでは多くの貴族が集まる夜会を利用して次の良縁を求める事など到底叶いませんし、仮に嫁ぎ先が見つかったとしても貴族同士の付き合いはかなり制限されてしまいます。社交界に連れ出せぬ妻に、一体どれだけの価値があるのでしょう。

 ただでさえ地味な容姿に加えて、このような訳有りのわたくしを貰ってくださる良縁などあるはずもございません。せいぜいがやもめ暮らしの後添えか、さもなくば世継ぎ候補を増やすための側室か――。

 最早、わたくしの未来は閉ざされたも同然。

 愚かにもわたくしは、この期に及んで保身の事ばかり考えていたのです。つい先ほど、アレクセイ殿下が国の為に自らを犠牲にする覚悟をされたのに対し、わたくしはそれ以上の何を国に捧げる事が出来るのかと問われたばかりだというのにです。

 かつてのわたくしは、然程良縁には興味もございませんでした。嫁ぎ先が無くともこのまま城仕えを続けられれば、それでも良いとさえ思っておりました。ですが、冴えない田舎貴族のわたくしがやんごとなき身分の方に見初められ、その身に過ぎた寵愛を受けた事ですっかり思い上がってしまいました。

 今のわたくしは、掴みかけていた輝かしい未来を逃すまいと縋り付く、惨めで浅ましい女です。その姿はさぞや醜いものであったことでしょう。

「オリヴィエル殿下。どうか、わたくしにアレクセイ殿下に謝罪することをお許しくださいませ。あの方には償っても償いきれない事をしてしまいました。ですから後生でございます、どうか」

 アレクセイ殿下はお優しい方でした。ですから、誠心誠意謝罪をすれば、もしかしたらもう少し罰を軽くしてくださるよう取り計らってくださるかもしれません。

 そんな風に、浅はかにも、厚顔無恥にも――お願いしてしまったのです。

 王太子殿下はじっとわたくしを見つめました。彫像のように美しい綺麗なそのお顔には、何の表情も浮かべてはおりませんでした。平坦な表情。

「――君をアレクに会わせることは出来ない。あいつは今臥せっている」

「……え?」

 まさか、どこか、お加減でも。

 そう問おうとした口は、何も言えぬまま噤むことになりました。王太子殿下のお顔は、先程のような何の感情も浮かべられていない平坦なものではなく、何かを耐えるような――嵐の前の静けさのような不気味さがございました。

「一昨日の夜、君との逢瀬から戻って直ぐにあいつは倒れた。高熱を出して一晩中酷く魘されて、見ているのが辛いほどだった。この継承権争いであいつは身体に変調を来すほどに憔悴していた。君との逢瀬が途絶えていたのも忙しい事ばかりが理由ではなかった。空き時間は全て床で過ごさなければならないほど、身体を壊していたんだ。本当は座って公務を続けることすら辛いはずなんだ。そこまで弱っていたあいつに――君は毒を盛って止めを刺した」

 あまりの言掛りにわたくしはつい言葉を荒げてしまいました。

「そんな! わたくしは毒など盛ってはおりません! 確かにわたくしはあの時正気で無かったことは確かです。ですがだからと言って毒を盛るなど、そんな恐ろしい事を、」

「その毒は君が放った言葉の毒だ!」

 殿下の底冷えするほどに低く冷たい声色で放たれた鋭い言葉に、わたくしは身を竦ませました。

『――情が深く、それゆえに恐ろしいほどに苛烈な一面をお持ちだ。それを忘れて侮ってかかり、逆鱗に触れて処分された者は多い』

 今更のように父の言葉を思い出しました。わたくしは――アレクセイ殿下がお優しいのをいいことに慢心してその御立場を侮り、貶して、そして逆鱗に触れてしまった――。

「過ぎた言葉は猛毒となり簡単に身体を蝕む。その毒を受けてアレクは今苦しんでいる。魘されながらあいつが何と言っていたかわかるか? すまない、許してくれと、夢の中でまで君に謝罪していた。それに、俺には存在している価値が無いと、悲鳴のような声で泣き叫んで! あんな風になるまで君はあいつを追い詰めたんだ。城に来てから『価値の薄い庶子』と散々言われ続けて来たあいつに『価値が無い』などとは絶対に言ってはならない言葉だった。それを君は、言葉の毒でもって弱り切ったあいつに止めを刺してしまった。そんな君をあいつに会わせるなど、到底許すことは出来ない!」

 凄まじいまでの剥き出しの怒りと殺気をまともに浴びせられて、わたくしは継ぐ言葉も無く――床に座り込んだまま身を竦ませて震えることしかできませんでした。

 ……ええ、そうです。価値の無い卑しい庶子と、そう言われてあの方がとても傷付いている事は知っていたのです。初めてお会いした時もそうしてお泣きになった、それをお慰めしたのはわたくしだったのに――だというのに、深く傷付くと知っていたあの言葉であの方をなじったのです。

「――あまりにも尋常ではない苦しみようだったから、最初は誰かがあいつに毒を飲ませたのだと疑った。侍医の診断であの症状が中毒によるものではなく、過剰に精神的な負荷がかかったからだということが分かったが、昨日のあいつは酷く容体が悪く、何があったのか訊き出せる状態ではなかった。だがあいつに付けていた近衛の証言から、君と会った直後から様子がおかしくなった事だけは分かった。だから君を拘束した。事情が分かったのは今朝になってからだ。アレクは今日の未明にようやく意識を取り戻した。中々口を割ろうとしなかったあいつを宥めすかしてようやく訊き出したんだ」

 わたくしはあまりにも愚かでした。愚かという言葉でも到底足りないほどに、浅ましく愚かしい娘でした。あの方は――あれほど酷い事をしてしまったわたくしの事を、それでも庇おうとしてくださったのです。

「残念だよ。君さえ良ければ、ほとぼりが冷めた頃にあいつを呼び戻して、一緒になるという選択肢もあったんだ。だが、その可能性を潰してしまったのは君自身だ」

 ――このような大変な時期に、忙しい合間を縫ってわたくしの今後の事まで考えていてくださったお二人に――なんという浅ましい真似をしてしまったのでしょうか。わたくしは、ただただ自分が幸せになる事しか考えていなかったのです。その結果が、これ。

「君は王家の者を価値無きものとして扱った。言葉の刃と毒で心身に異常を来すほどに深く傷付けた。王族は国家の主。その主の存在を否定し仇なす事、これは即ち国そのものへの反逆に等しい。だが、君が今まであいつの心の支えになってくれていた事は確かだ。あいつが逆境の中でも今までやってこれたのは、君という支えがあったからというのも大きい。だからこれは最大限の譲歩だ。三つの条件を守るのならば婚姻も許す。勿論、子を産み育てる事も可能だ。王都以外の場所なら何処へ行っても構わない。全ては君の――考え方次第だよ」

 最後にわたくしへの――こんなわたくしへの温情の言葉を与えてくださった王太子殿下は、平伏す父を促して立たせると、静かに部屋を出て行かれました。



 ――その後、わたくしはこの部屋に監禁されました。

 とはいえ、食事はきちんと毎食出されましたし、週に何度か湯浴みもさせて頂けました。わたくしの姿を誰かに見られる事を恐れてか外の景色を見る事は許されませんでしたが、それでも薄いレースのカーテン越しに日の光を浴びて、健康を害さぬように配慮されてもおりました。

 どなたかの差し入れで幾許かの本や刺繍道具なども頂きましたし、お世話をしてくださった年配の御婦人が時折話し相手をしてくださいましたので、それほど不自由なく過ごすことが出来ました。

 わたくしのような、本来ならば極刑に処されても文句は言えない立場の娘に対する処遇としては随分過ぎたもののようにも思われました。

 後に「穏やかにして苛烈なる王」と評されたオリヴィエル殿下の、寛大な一面を見たような気がいたしました。

 監禁された当初は気持ちの整理が付けられず、不遜にもアレクセイ殿下や王太子殿下への不満を抱いて荒れる事もございました。かと思えば厚かましくも、王子妃としてアレクセイ殿下の隣に並び立つ着飾った自分を夢想しては溜息を吐く事も。

 ですが、限られた細やかな事だけを繰り返す静かな毎日を過ごすうちに――自分を見つめ直す余裕が生まれたように思います。



 数週間が過ぎた時、わたくしは領地へと返される事になりました。思っていたよりは随分と早くに解放されたものだと驚きましたが、この数週間を共に過ごした御婦人が少しだけ事情を教えてくださいました。

 アレクセイ殿下が当初の予定よりも早くご出立されたのだと。

「表面的には平気そうに振舞っておいででしたけれど、本当はお身体の具合が思ったよりもずっとお悪いようなの。ですから出立の時期を早められたのだそうですわ。気候の良いうちに早く静かな場所に移って、しばらく静養するのだそうよ」

「……そうでしたの……」

 わたくしは何とも言えない心持ちになりました。あの方の容体を悪化させてしまったのは、間違いなくわたくしなのですから。




 ――領地の屋敷にはやはり監視が付けられておりました。定期的にわたくしが確かに在宅していることを確認しにも参りました。

 謹慎中、わたくしは粛々と過ごしました。それまではあまりすることも無かった事ですが、なんとはなしに屋敷の蔵書を読み、時折書き物や書類整理を手伝うなどして、そして一日の終わりには神に祈りを捧げるという日々を過ごしておりました。

 そうして三年という期限が過ぎ、それでも謹慎期間中と同じような生活を続けるわたくしに、久しぶりに休暇を得て帰郷した父が縁談を持って参りました。

 父とそう歳の変わらない二回りほど年上の、とある伯爵家の先代当主の後添えです。隠居暮らしをするような御歳でもございませんでしたが、早々に家督を御子息に譲り、御本人はご趣味の植物研究に勤しむ毎日だということでした。その方は奥方様とはお若い頃に死別しておられました。

 最近になってわたくしの事を知り、お話相手と研究の助手――とは言っても書き物のお手伝いや、論文等の書類を纏めるといった簡単な事務仕事ですが――を兼ねて後添えに欲しいということでした。社交には興味も無く、お世継ぎを産む必要も無い。だから気楽に来てくれれば良いというお話でした。

 急なお話に戸惑いもしましたが、特にお断りする理由もございません。わたくしはお見合いと称した顔合わせの食事会に招かれ、そのまま領地に戻ることなくそこで大旦那様の後妻としての生活を始めることになりました。

 伯爵家に程近い別宅での生活は、思う以上に快適でした。大旦那様以外は必要最低限の使用人が居るのみで、煩わしい人付き合いをする必要もなく、詮索されては困るような訳有りのわたくしにとってはこの上ない場所でした。

 お話相手と助手の仕事をする時以外は自由にさせてくださいました。ある日わたくしは大旦那様にお願いをして、空いた時間に領地の孤児院に通う事をお許し頂きました。

 ――穏やかな生活をする中で時折思い出すのは、あの日のあの方の、酷く傷付いた空虚な顔でした。寂しいと言って、その紫紺の瞳に涙を浮かべる少年の姿でした。

 お城で監禁生活をする中で差し入れとして頂いた本の中に、この国の孤児政策に関するものがございました。今にして思えばあの本の差し入れは、何らかの意図があったのでしょう。その本には、孤児の中には自分の存在意義に疑問を持つ子供が少なからず居る、だからその傷付いた心に寄り添うことがいかに重要であるかという事が記されてありました。

 その事を何かの折に付けて、ふと思い出すようになっていたのです。

 運営費の一部を伯爵家の寄付で賄っているその孤児院には、多くの孤児がおりました。大半は両親と死に別れた子供でしたが、意外にも多かったのは、何らかの事情があって、両親あるいは片親が健在にもかかわらず孤児院に預けられた子供でした。

 ――要らない子。邪魔な子、と。

 そういう風に扱われて、自分がなぜ存在しているのか、自分の存在に価値はあるのかと、そう思い悩む子供達の姿にわたくしは衝撃を受けました。僕は要らない子だから死んだ方がいいと食事をしない少年がおりました。私は邪魔な子だからと孤児院から何度も脱走する少女もおりました。

 存在を否定され続け、自分自身の存在を自ら否定してしまっている――そのような子供の多い事に、心臓を鷲掴みにされたような心持ちになりました。

 両親に愛されて育ったわたくしには、その気持ちを正確に理解することは出来ません。ですが、その気持ちを感じる事は出来るのです。感じて、その悲しみに寄り添う事は出来るのです。ただ寄り添うだけで救われる子供もいるのです。

 その事を、孤児院に長く通ううちに知ったのです。

 あの方と出会った頃のわたくしは、まだ子供らしい純粋さを持ち合わせていたように思います。ですから素直にあの方を受け入れて、そして寄り添う事が出来ました。まさにあの時御自分の存在意義に悩んでいたあの方は、そんなわたくしだったからこそ愛してくださったのでしょう。

 ですが、その寄り添う気持ちが成長して男女が抱くそれに変わり、いつしか王族の寵愛に驕り切って不遜な気持ちを抱くようになっていたわたくしは、あの時一体どれだけあの方を傷付けてしまったのでしょうか。

 ただ一言、そのたった一言だけで、あの方は身も心も壊してしまいました。逆境にも負けずに真っ直ぐ立っていたお強いあの方が、悲鳴を上げて魘される程の心の傷を、その一言で負わせてしまいました。

 その時わたくしは自分が犯した罪の重さを、恐らくこの時初めて、ようやくはっきりと理解したのです。

 ですからわたくしは、喧嘩して酷い言葉をお友達に浴びせた子供には、よく言い聞かせるのです。

 姿も形も見えない言葉だとしても、簡単に人を傷付けるのだと。時にはその心を殺してしまうこともあるのだと。一度発した言葉は二度と取り消せないのだと。たった一言が、相手と自分の未来を潰してしまうこともあるのだと。

 そう言い聞かせるのです。

 ――どうか、わたくしのような愚かな人間にはならないでと、そう願いながら。



 そういえば、随分後で知った事ですが、有難くもこの縁談は王太子殿下――いえ、今は陛下でございますね――が用意してくださったものなのだそうです。大旦那様は先帝陛下の側近だった方の知己で、かつては農作物の研究と改良にも携わっていた、先帝陛下の信頼も厚い方だったのだそうです。

 恐らくこの婚姻は、わたくしの監視を兼ねたものでもあったのでしょう。

 ですが、それでもわたくしは幸せでございました。

 大旦那様は衣食住だけでなく、仕事と自由な時間を与えてくださり、孤児院に通うという我儘も許してくださいました。植物採集の旅にお出掛けの際にはわたくしを同行させて、美しい景色や珍しい植物を沢山見せてくださいました。ごく稀ではありましたが、研究のお手伝いのご褒美として宝飾品をくださる事もございました。

 娘時代の――あの方に愛されていた時代のわたくしが望んだような華やかな生活ではございませんが、お優しい大旦那様と草花に囲まれて過ごす穏やかな日々は、罪人にも等しいわたくしには過ぎたもののようにも思えました。

 ――かけがえのない日々。




 あの日――あの恐ろしい断罪の日に無かったものになったはずの約束。あの方が去った後の良縁を探してくださる予定だったという、そのお話を――こんなわたくしの為に、陛下は確かに果たしてくださったと思わずにはいられないのです。



 今、あの方が何処でどうしているのかは知る余地もありません。

 社交界でも時折噂に上る事があるという、失踪した第三王子の行方。

 あの時に暗殺されたのだという方もいれば、異国の姫君に婿入りされたのだという方もいます。亡命して諸国を旅して回っているのだという方や、やはり旅先で亡くなられたのだと仰る方もおられますが、真相は定かではありません。



 今、わたくしは穏やかでございます。

 こんなわたくしでも過ぎた幸せな生活を送る日々です。

 ですから、どうか、あの方も――罪人にも等しいわたくしがするには烏滸がましい事だとは十分に理解してはおりますが、それでも――どこかで生きて、穏やかで居てくださる事を願わずにはいられないのです。





ペルゥ「認めたくないものだな。若さ故の過ちを」

ルリィ「いや、認めてる」

雪狼「突っ込むところは多分そこではない」



これはこれで賛否ありそうな話になりましたが、このお嬢さんの話も外せない事を思い出して急遽書き上げました。

言葉一つで人を殺すこともある、ということです。身体的な意味でも精神的な意味でも。

アレクは実は一度壊れかけてたというお話。

そしてこちらのお嬢さんも厳しく処分はされましたが、元々がきちんとした子ですので案外早い段階で更生することができました。機会と切っ掛けを与えて、それで更生すればそれで良し、しなければ生涯裁かれ続けるだけ。オリヴィエは本心では相手をヌッ殺したいとか思ってますが、それでも自分が許せるギリギリのラインで相手に更生の余地を与えているのです。

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