31 或る事件の結末(3)―金糸雀の夢―
二話同時更新します。
ある壊れた男の話。
――一年と半年前。そのある日の夜。
夜の闇に沈んだ森の小路。不吉な雲が千切れ飛ぶ夜空には、死神の鎌の如き細く鋭い月が弱く鈍い光を放っている。時折虫や夜行性の鳥の鳴き声が聞こえる以外には音らしい音も無い静けさの中、男は脇目も振らずに急いでいた。街の明かりも届かぬ闇の中、小さな魔法の灯りを頼りに先を急ぐ。
しくじった。欲をかいて引き際を見誤った。
珍しい東方人の女。瑞々しい肌と若々しい顔立ち、艶やかな黒絹のような黒髪は、盛りの過ぎた年齢を差し引いても十分に売り物として通用した。ストリィディアの女には見られない、未成熟の少女めいた華奢でなだらかな体つき、修道女のように楚々として儚げな佇まいは、男の庇護欲や嗜虐心をそそるだろう。店に置けばきっとパトロンの申込みが殺到したに違いない。
女を手に入れる為に手を回したが、まさか二度も失敗するとは思わなかった。こんなことなら一度でいいから抱いておくのだった。好みではないが、あれはいい女だ。惜しいことをした。
男は歯噛みした。
一度目の失敗はやはり痛かった。直前で異変を察して売上金を手に逃げたはいいが、支配人を任せていた女の裏切りで店は摘発され、商売自体が難しくなった。
店の摘発は報道されたが、その後の顛末については一切公にはされなかった。それゆえに、捕まった女や従業員らにどのような刑罰が下されたのかはわからない。だが風の噂に聞いた常連客の結末から、厳罰が下されたであろうことは容易に想像がついた。上客だった侯爵家の次期当主は「療養中に病死」、同盟国の外交官は帰国途中の船内で「食中毒により急死」したという。
もし己も捕まっていれば死罪は免れなかったはずだ。念の為にと幻影魔法で姿を偽っていたのは正解だった。内心慄きながらも表面上は何食わぬ顔をして組合で日々の仕事をこなしたが、幸い捜査の手が回っている気配は無かった。無事に逃げおおせた。
だが。
「……くそっ」
紳士にあるまじき悪態が口をついて出る。
二度目は失敗しないつもりだったが、引き際を見誤った。
そろそろほとぼりも冷めただろうと、再びあの東方人をものにしようと試みたが、またもや失敗してしまった。帝国の人買いに売りつける前に、あの女から搾れるだけ搾り取ろうとしたのが良くなかった。そろそろ頃合いかと思った時には遅かったのだ。あの女から遠ざけていたザックに勘付かれたのはまずかった。あっという間にこちらの悪事を調べ上げ、慌ててあの者達に女を始末するように言い付けたが失敗した。一度は成功したと思ったのだ。だが、直前で怖気づいたか止めを刺さずに放置したのが良くなかった。それでも何もなければそのまま女は死ぬはずだった。
「――まさか生還するとは……」
どういう理由か女に懐いたスライムが、わざわざ街まで連れて来たのだという。
施療院に担ぎ込まれたのであれば、当然身体は調べただろう。不自然に付いた傷痕はもう見つかったはずだ。万一に備えて、組合での不正は咎められても、女への仕打ちに対しては法でも裁けぬように【暁】の者達には入れ知恵をしておいたが、それでもあの傷痕の事が騎士隊の耳に入れば、きっと『金糸雀の夢』と結びつけて考える者が出てくるに違いない。
逃げようにも、冒険者組合本部からの沙汰が言い渡されるまでの間、組合の人間がそれとなく見張っていて隙が無かった。自宅までの道程もやはり視線を感じたから監視が付けられていたのだろう。恐らくはザックの差し金だ。マスターの権限は停止され、裏方仕事に回されて地味な業務をこなしつつも隙を窺う日々だった。
待つ事数週間。今日ようやく好機が巡ってきた。組合には日々様々な依頼が持ち込まれる。今日は特に依頼が多く、主だった組合員は皆出払ってしまった。その所為か、このところ感じていた纏わりつくような視線も無かった。
これは好機だ。怪しまれぬよう定時まで勤めると、早々に退勤して自宅へと急ぐ。やはり監視は無いようだった。手早く有り金や金目の物、身の回りの品を纏めて旅装束に着替え、自宅を飛び出した。
歩きながら幻影魔法を展開し、徐々に外見の造形を変えていく。実家から出奔した時にも使った技だ。歩行者を最初から最後までじっと見つめ続ける者などまず居ない。だから歩きながら少しずつ変化させることで、怪しまれずに別人に化ける事が出来るのだ。こうすることで、あの時は無事逃げおおせた。先程もまた、何食わぬ顔で旅行者の一団に紛れ込み、無事に門を通過することが出来た。
今度もまた逃げられる。出来るだけ遠くへ逃げよう。国内では駄目だ。国外へ――。
ざわり。
唐突に気配を感じて思わず足を止めた。気配と言うには生温い、刺すような殺気。
後ろから迫るそれは、確実にこちらを目指して近付いてくる。
足音。魔獣のものではない、明らかに人間のそれだ。
(――追手か!)
逃げなければと思うが、周囲を覆い尽くさんばかりの殺気に足が竦んで動けない。間違いなくその殺気は自分に向けられている。
殺気の発生源は、やがて目の前に姿を現した。黒装束の長身の男だ。
「な、何者だ」
気力を振り絞ってどうにか誰何するが、発した声が奇妙に掠れた。慄いていると気取られたかもしれない。
黒装束の男の、頭巾に隠されていない口元だけが笑みの形に歪められた。
「――あれだけ熱心に仕事割り振ってくれてたのに誰かもわからねぇとは随分と薄情じゃねぇか、ランヴァルドさんよ。組合の成績にも大分貢献したつもりだったんだがな」
聞き覚えのある声に身を強張らせると、男は頭巾を取り払った。魔法灯にぼんやりと照らされて浮かび上がるのは、見慣れた赤毛の――。
「ザック・シエル……」
普段は朗らかな人好きのする笑みを浮かべているその顔は、今は酷く剣呑な色を宿している。何をしに来たのかは明白だ。
――仇討ち。
既にこちらは幻影魔法を解いていた。姿形は自らのものだ。誤魔化しようはない。
「……何の用だ。お前には遠征の仕事が与えられていたはずだが。何故今こんな場所に居る」
今日入った難易度の高い急ぎの依頼。S級保持者でなければ捌けない依頼だった。それを割り振られて送り出されたはずだ。仕事を放棄したのでなければ今此処に居るわけがない。まさかあの女の仇討ちの為に依頼を放棄してきたのかと責めてみるが、ザックは動じない。
「ああ、あの依頼か。ありゃフェイクだ。知り合いに頼んで偽の依頼を入れてもらった。あんたが油断してくれるように他にも幾つか適当に急ぎの依頼を入れさせたが、見事に引っかかってくれたな」
「なっ……」
罠。歯噛みするが今更どうにもならない。ならば、この場はどうにか切り抜けねば。相手はS級。こちらはA級だ。だが、魔法で間合いを取り、幻影魔法で隠れてしまえばなんとか出来るかもしれない。相手は魔法の心得の無い剣士だ。やれるはず。いや、やらなければ身の破滅だ。
「――念の為言っとくが、仮に俺を倒したとしても逃げられねぇぞ。周りは囲んであるからな」
「なんだと!? まさか、しかし気配は――」
「隠形に長けた連中だ。てめぇごときじゃ察知するのも難しいだろ」
「貴様!」
小馬鹿にした物言いに頭に血が上った。
「貴様ごとき下賤の輩が思いあがるな! 私は子爵家の出だぞ! 本来ならそのような口のきき方は許されん!」
激高して投げつけた言葉だったが、しかし事実だ。どこの馬の骨ともわからぬ粗野な男が貴族相手に取っていい態度ではない。
だが、ザックは意にも介さず嘲笑うばかりだ。
「子爵家の出でそこまで強気に出れるんなら、俺は大威張り出来るな」
「……なんだと」
「俺の本当の名を教えてやろうか。ランヴァルド・ノシュテット殿」
「――!」
ランヴァルドは息を飲んだ。もう二十年以上前に捨てた家名。否、捨てさせられた――。
「屋敷の下働きの女との結婚が認められずに家の金を盗んで駆け落ちしたんだったか。駆け落ち程度なら許されたかもしれんが、家の財産に手を付けたのはまずかったな。てめぇが持ち出した金目の物には先代が先帝陛下から賜った宝飾品もあったそうじゃねぇか。お蔭で勘当されて、出入り禁止になってるって?」
「……な、何故」
それを知っている、そう続けようとした言葉は掠れて消えた。背に嫌な汗が流れる。
「ルンベックは母方の姓。どうせなら姓だけじゃなく名の方も変えておくべきだったな。ランヴァルドはトリス近辺じゃあまり聞かねぇ名だが、王都ではよくある名だ。王都でルンベック姓の家は二件だけ。ルンベック家に縁のあるランヴァルドという名の五十前後の男を調べりゃ案外簡単だったぜ」
じり、と後退るが思うように足が動かない。ごく僅かに移動したのみ。
不味い。本能がこの男は危険だと告げている。
「で、一緒に駆け落ちした女はどうした? 嫁が居た様子もないようだが」
「……あの女は消えたよ。金が尽きた途端にあっさりとな」
相変わらず足は動かなかったが、過去の女の事を持ち出されて、混乱していた頭が急激に冷えた。
当時は身分違いの恋に逆上せ上っていたが、今ならわかる。あの女は己の身分と金が目当てだった。あまり裕福ではない家庭の出だったあの女は、上流階級の暮らしに憧れを抱いていたようだった。会話の端々にそれがよく表れていたというのに、当時の自分は気付かなかった。気付いたのは、金が底を尽きかけていよいよ二人で本腰を入れて働かねばならなくなってからだった。
暖炉すらない粗末な下宿で互いに暖め合うようにして身体を重ねた翌日の朝、女は姿を消していた。持ち金が尽きそうになっても最後まで手放そうとはしなかった、買い与えたドレスや宝石類を持って、忽然と。それでも己が当面生活していくだけの金だけは手を付けずに残していったのは、多少なりとも愛情があったからなのだろうか。
行方を探そうとしてわかったのは、女には既に新しい男が居たということと、異国人だったその男と共に出国したらしいということの二つだけ。後を追おうにも異国に渡るだけの金は既に無く、そのままその地――トリスの街で冒険者の職を得て、今に至る。
元より魔力は高く、魔導士として活動するうちに一定の評価も得た。不惑の歳を迎える頃には一線から退いてはいたが、発行した著書の一部が魔導士の指南書として組合に採用されたことが切っ掛けで、空きの出来たトリス支部のマスターに抜擢されたのは数年前だ。
ここに至るまでに女の誘いが無かったわけではない。だが、実家との繋がりを失う切っ掛けにもなった、己を捨てた女の記憶が頭からこびり付いて離れず、特定の女を作る気にはなれなかった。
時折女を買いに訪れていた歓楽街で気紛れに入った『金糸雀の夢』で、あの女によく似た面立ちの娼婦と会ったのは偶然だった。女への想いを捨てきれずにいたのだと気付いたのは、その娼婦と何度目かの逢瀬を重ねた時だ。
「――それで? その女の為に店ごと買い上げたってのか」
苦々しく吐き捨てるザックに、ランヴァルドは嘲笑った。
「違う」
「……あ?」
「復讐だよ。私を裏切ったあの女へのな」
愛していた。愛していたのだ。貴族の身分を捨ててでも一緒になりたかった。家の金に手を付けたのも、女が不自由の無い生活を望んだからだ。家名も、将来さえも捨ててあの女の為に尽くしたというのに、彼女は金の切れ目が縁の切れ目とばかりに、金が尽きた途端に自分の前から姿を消した。買い与えたドレスや宝石を持ったまま、他の男の手を取り異国へと旅立ってしまった。
青年時代に付けられた心の傷を抱えたまま十数年が過ぎ、偶々入った高級娼館で出会った、あの女によく似た面差しの娼婦の元に通ううちに気付いてしまった。己を捨てた女への想いを忘れられないまま――愛情はいつしか憎悪へと変わっていたのだということに。
これは復讐だ。己に与えられた復讐の機会なのだ。
己を捨てた女によく似た彼女を身代わりに復讐を。抱えたこの想いに決着を。
『いずれお前を身請けしてやる。そうしたら一緒になろう』
ランヴァルドの姿で会った最後の日に、そう女に囁けば、幾度目かの逢瀬で己に情を映しつつあった彼女は嬉しそうに微笑んだ。そうしてぱったりと通うのを止め、一月ほど経ってから幻影魔法で偽った姿で新規会員を装い女を指名した。言い交わした男に捨てられたのだと知って憔悴した女を見たランヴァルドは、心の奥底が何かで満たされていくのを感じた。
ああ、これだ。こんな顔が見たかった。
――嗜虐心が発露した瞬間だった。
恋人の顔をして女を大事にし、ことあるごとに『いつか君を自由にしてあげる。金を貯めたら必ず迎えに来る。だから待っていて』と囁いた。「いつか」。その言葉を用いた約束事ほど不確定で曖昧なものはない。だからこそ、女は喜びもしたが、いつになるかもわからないその日を待つ事に不安を覚えてもいるようだった。初めて約束を交わしてから数年。女は健気にも待ち続けたが、徐々に疲弊する様子を見せた。それを見て、密かに昏い喜びに耽る。
ある年に流行った流感で看板娼婦を始めとした人気娼婦の大半が落命し、多くの常連客の足が遠のいて店の経営が立ち行かなくなったのはランヴァルドにとって僥倖だった。女が生き残った事も。
感染症で複数の死人が出て訳有り物件になり、破格とも言える値まで落ちた店を生き延びた娼婦ごと買い取り、女を支配人に据えた。女主人となった彼女には「執事」と称して見張りを付けた。時折散歩や買い物に連れ出す以外は店の中に閉じ込めて。客を取らずに済むようになったが、望んだ形の自由では無かったことに女は少なからず落胆したようでもあった。
それでも「君の為だ」と、長い娼館勤めで外の常識に疎い彼女を外界に出すのは心配なのだと、徐々に慣らしていこうとそう言えば、女は大人しく従った。
籠の中の鳥。自分の為だけに歌う金糸雀。
自分の言葉に一喜一憂する女を見て、心の傷を埋めていく。昏い喜びで心を満たす。
ある時常連客の一人の「遊び」が過ぎて、娼婦を死なせてしまった。何度か逢瀬を重ねてようやく夜を共にすることを許してくれた娼婦を、その晩のうちに男は殺してしまったのだ。娼婦の躯に残された痕から、どのような「遊び」が行われたのかは容易に推察出来た。加虐嗜好のある男だったらしい。
事態に女は蒼褪め酷く狼狽えたが、その時の顔――絶望、悲哀、諦念――様々な激しい感情が綯い交ぜになったその顔が、己をひどく満足させた。
――ああ、この表情だ。もう一度、見たい。
己を裏切り絶望の底に叩き落した女と似た顔の持ち主が浮かべる苦悶の表情は、己の復讐心と嗜虐心を満たしてくれる。
娼婦を殺した男は口止めと称して大金を積んだ。ランヴァルドもまた二つ返事でそれを受け取ると、そのまま彼を帰宅させた。遺体は内々で処理した。関わった従業員には特別報酬を与えた上で共犯者だとして脅しかけ、口を噤ませた。
それからだ。店の商売に「裏のサービス」が加わったのは。幸いと言っていいものかどうか、異常性癖の紳士は一定数居たようだった。これはと思う客に密かに声をかけ、裏会員への加入を勧める。目論見は成功した。裏会員となった紳士は己の性癖を満たせる遊びをいたく気に入り、やがて同じ嗜好を持つ同志を連れて定期的に通うようになった。
訪問の頻度は高くは無いが、一度に支払われる料金は莫大なものだ。少しずつ裏会員は増え、店の売り上げも一気に跳ね上がった。
全ては女の苦しむ顔が見たいが為だった。娼婦が死ぬたびに、その遺体を処理するたびに、穴埋めとして新しい女が連れ込まれるたびに、そして――逃亡阻止の為に女達の肌に傷痕を付けていくたびに、酷く憔悴していく彼女を見るのが何よりの悦びだった。
裏の商売を始めて二年が経つ頃にはすっかり表情を無くして生き人形のようになっていた。だから油断した。まさか、新しい男――執事として宛がった男と結託して騎士隊に密告するとは思わなかった。そこまでする行動力が未だ残されていたとは。
それでも虫が知らせたとでも言うのだろうか。最後に店を訪れた時に女から感じた微妙な違和感に何とはなしに良くない兆候を見た。女と執事にそれとなく用事を言い付けて席を外させ、その隙に売上金や経費として渡していた金を掻き集めて店を後にした。
その直後だった。騎士隊に匿名の告発書類が投げ込まれたのは。




