28 帰還
ザックのターンまで漕ぎ着けませんでした。
翌朝は垂れ込めた分厚い雲から雪が散らつき、温かい結界の外側は既に薄く雪が積もりつつあった。景色が白銀の世界へと変化していく。これは根雪になるだろう。誰もがそう予感した。
だが、幸いあと半日足らずで領都トリスに到着する。小休止を何度か挟んだとしても、日暮れ前に余裕で到着出来る距離だ。元より降雪や積雪は承知の上で観光に来た者がほとんどだから、大した問題にはならないだろう。旅装も皆それなりの対策をしてあるようだ。
「大丈夫か? 昨日何度か起きていただろう」
アレクは隣で食事を摂る彼女に気遣って声を掛けると、シオリは口に含んでいたオニオンスープを飲み下してから首を傾げて見せた。シオリは空調魔法を掛け直す為に夜中に二度程起きていたようだった。
「……少しだけ疲れたかも。ちょっと眠い」
ほんの少し逡巡してから、シオリは正直に疲労を訴えた。普通の遠征とは違う状況で働き詰めだったからだろう、流石に自分も疲れを感じる。
「あと少しの辛抱だ。戻ったら、何日か休みを貰うか」
「そうだね……」
会話する自分達の隣で水魔法の微温湯とパンを貰って朝食にしていたルリィが、同意するようにぷるぷると震えた。このスライムもこの数日間実によく働いてくれた。
元々遠征後は余程の事が無い限り、最低でも一日は休息に充てるようにと言われている。無理をして依頼を失敗したり、命を落とすようなことになっては困る。今回は三日は休んでも文句は言われないはずだ。
それにしても、いくら鍛えているとは言え、十代、二十代の頃に比べると疲れが残りやすくなった気がする。認めたくはないが、若くは無いということなのだろう。
「……俺も歳を感じるような年齢になったということか」
ぼそりと呟くと、ルリィがぷるん、ぷるんとゆっくり震えた。それがまるで「その通りだ」と言わんばかりに深々と頷かれたように思えて、思わずじっとりと瑠璃色の身体を見下ろしてしまう。するとルリィは何食わぬ体を装って食事を再開した。
「こいつめ」
言葉を発することは出来ないが、思いの外に感情豊かで気持ちを伝える術を完全に心得ているらしいこのスライムの身体をつつくと、やめろとでも言いたげにルリィはその身を捩って見せる。
隣で忍び笑いを漏らすシオリにも恨めし気に視線を向けると、残りのスープを啜った。
朝食を終えて野営地を出発した一団は、何度か小休止を挟みながらトリスを目指した。積雪で歩き難くなった道と寒さの所為か消耗しやすく、休憩毎に軽食を摘まんでは体力の回復を図った。
幸いな事に既に蒼の森地帯は抜け、普通の針葉樹が生い茂る森林地帯へと変わった街道沿いは魔獣の心配もほとんど無かった。休憩の際には未だ積雪の無い森の外縁部に入り、多少湿り気のある地面はシオリが風魔法と火魔法で乾燥させて、衣服を濡らす心配が無いように整えてくれる。冷えぬように水筒の水を微温湯や温かい湯に変えてくれたりもした。
「あんた、帰りにもお願いしたいくらいだねぇ。ブロヴィートまでの道程よりもよっぽど快適な旅だよ。王都までなんだけど、どうだい」
冗談とも本気ともつかぬ口調でそう言って笑う恰幅の良い年配の女から、シオリを王都まで連れて行かれては堪らないとアレクがさり気無く遠ざけて同僚達に苦笑いされる一幕もあった。
冒険者のみの旅路よりはやはり大分時間はかかったものの、日暮れ前にはトリスの門を潜ることが出来て皆安堵の息を吐く。身元確認を終えて市内に入ると、旅行者達は一様に歓声を上げた。市内を彩る生誕祭を祝う美しい装飾に目を奪われているようだ。雪が降る中でも往来に人の足は絶えず、その顔はどれも楽しげだ。
「留守中に第三街区まで飾り付けが終わってるね」
「ああ、そうだな」
ほんの一週間程の留守だったが、出発前は大聖堂への参道や第二街区までだった生誕祭の装飾が、第三街区まで綺麗に施されている。街路の魔法灯は、通常の橙色の物から特別仕様の色硝子で作られた多彩な色合いの物に置き換えられていた。商いをする建物の看板からは聖人の生誕を祝う刺繍の施された小旗が下げられ、普段よりも多く露店が出されている。街中が華やいだ空気で満ち溢れていた。
「貴殿らには世話になったな。こういう状況なのでな、もしかしたらまた魔獣狩りや護衛で御足労願うかもしれんが、その時はよろしく頼む」
「ああ、任せてくれ」
旅行者達を解散させたニクラスは、預かっていたらしい依頼票にサインしてアレクに手渡した。それから冒険者達と一人ずつ丁寧に握手を交わすと、綺麗な敬礼をして見せてから部下と荷馬車を伴って騎士隊本部へと去って行った。その背を見送ってからアレクは受け取った依頼票をリヌスに手渡す。元々救援部隊の応援で派遣された者達の代表には一応彼が指名されていたらしいが、現地ではそれぞれが適材適所で活動していたために、あまり取り纏める必要も無かったようだ。リヌスが依頼票を懐に仕舞い込むのを確かめてから、報告の為に支部へと向かった。
支部の扉を開ければ、待機組の冒険者が口々に労いの言葉を掛けてくる。それでようやく皆肩の力を抜いた。脱力して壁際に座り込む者、空いた席に座って卓に突っ伏す者と様々だ。普段の魔獣討伐や探索とは勝手が違う、戦場さながらの現場での仕事や大人数の民間人の護衛に、皆すっかり疲れ切っていた。
リヌスから手渡された依頼票を確認してからザックが口を開く。
「皆、御苦労だったな。お疲れさん。報酬はちっとばかりだが色付けさせて貰った。騎士隊からの分に組合からの特別ボーナスだ」
組合マスターの言葉に場が沸いた。彼から一人ずつ労いの言葉が掛けられ、報酬が手渡されていく。
「二、三日はゆっくり休んでくれ。火急の要件が入ればその時はまた連絡する」
敢えてこちらから申請せずとも、数日の休暇はくれるつもりだったらしい。さすがは気遣いの男だ。派遣組はほっと顔を見合わせると、待機組と簡単な挨拶を交わしてそれぞれが早々に帰宅していく。
「お疲れー。お先ー」
「アレクの旦那、お先に失礼させてもらうぜ」
「シオリもゆっくり休んでね」
最後にリヌスら親しい者達が帰って行くのを見送ってから、アレクとシオリはザックに向き直った。元々別口の依頼で旅立った先でのあの騒動だ。他の者達よりは報告する内容も多いからと後回しにして貰った。
「……お疲れさん。やっぱり巻き込まれてたか。散々だったな」
ザックは苦笑いしながらシオリの頭を撫でる。そうされて喜ぶような年齢ではないことは分かってはいるのだが、大陸の人間と比べるとかなり小柄なシオリの頭はつい撫でてしまいたくなるような位置に来る。四年前に保護された当初、少女と見間違われたのも容姿の若々しさだけではなくこの小柄な体格にも理由はあったようだ。
「ベッティルの依頼を終えたら直ぐにも戻るつもりだったんだがな、そこであの騒ぎだ。まさに群れの中に飛び込むような形だった」
帰還予定日よりも数日余分に過ごしてしまった。採集物が傷み始めているかもしれない。一応ベッティルに確認してもらうつもりではいるが、使い物にならなければもう一度採りに行かなければならないだろう。当面蒼の森への立ち入りは制限されるだろうから、別の場所での採集を考えなければならない。あの森がこの近辺では最も採集に適した場所だったのだが。
「なんともまぁ、災難だったな。人災だったらしいじゃねぇか。雪狼の群れたあ、尋常じゃあねぇ。時間は掛かっても構わねぇから、後で詳細な報告を上げてくれ」
例の無い事件だったが、万一今後似たような事例があった際の参考にする為にも必要だ。それに雪狼は遭遇率の低い魔獣でもある。これについても詳しい情報が欲しいのだろう。
「それで、怪我は無かったのか。やりあったんだろう、群れと」
ザックの言葉に、思わず二人して固まった。この件に関しては報告せねばならないとは思っていたが、それでもいざ訊かれると躊躇われる。ザックがシオリの怪我に神経質になっていることも、その理由も知ってしまった。言わなくてもいいとシオリが無言で密かにつついて来たが、黙っているわけにもいくまい。どのみちニルスやエレンから報告されるはずだ。
「俺の方は軽傷で済んだがシオリが負傷した」
途端にザックの表情が険しくなる。慌てて言い添えたのはシオリだ。
「雪狼にじゃないの。救助活動中に容疑者と揉めて、それで。それにもうエレンさんに綺麗に治して貰ったから平気だよ」
「――護衛が付いていながら怪我したってのか」
護衛依頼を受託しておきながら、護衛対象を負傷させた。その事実は変わらない。
俄かに剣呑な空気が漂い、書類仕事をしながらも何とはなしにこちらの会話に耳を傾けていた職員や同僚達にも緊張が走るのがわかった。
「別行動中だったの! 私は戦えないから、アレクとルリィが雪狼と戦ってる間に私は救助活動を手伝ってたの。その時にやられたから、アレクが悪いわけじゃないよ。護衛依頼の方は問題無く終わってるからアレクを責めないで」
シオリの言葉にザックが目を見開いた。こちらを庇い立てしたことだけに驚いたわけではないようだった。呼び名から敬称が外された事に気付いたに違いない。
「――シオリ、お前、」
何か言いかけてから言葉を飲み込み、ザックはしばらく考える素振りを見せた。それからややあって、大きく溜息を落とす。彼の足元をルリィが何か言いたげにぺしりと叩いた。ルリィはルリィなりにこちらを気遣ってくれているようだった。
足元のスライムに視線を落とし、それからもう一度嘆息すると、ザックはがしがしと乱暴に頭を掻いた。
「――わかったよ。この件についても報告は後日でいい。今日はもう戻って休め。疲れただろう」
諦めたようにザックが言い、ひとまずブロヴィートの件での報酬が手渡された。シオリはほっと息を吐いてこちらを見上げて苦笑して見せてから、足元のルリィにも何事か声を掛けてやっていた。
「――アレク」
その隙にザックがそっと囁いた。
「……なんだ」
「後で下宿に行ってもいいか。仕事は定時で終わらせるから遅くはならねぇ」
行く、とは言わなかった。それでも一応お伺いを立ててくるあたり、この男の人柄が表れている。
「ああ。俺も話したい事がある。酒でも用意して待ってるさ」
そう言えば、ザックは神妙な顔で頷いた。
まだ十六時を過ぎたばかりだが、この時期の日没は早い。組合を出る頃には既に夜の帳が落ち、色鮮やかな魔法灯が美しく煌めいていた。夜とは言え生誕祭の装飾を施して華やいだこの季節は、人通りも多い。人を惹きつけるような温かい色の明かりを灯して営業している軽食屋の露店からは良い香りが立ち上り、道行く人々を楽しませていた。
「せっかくだから夕飯に買っていこうかなぁ」
さすがに遠征帰りで食事の支度は面倒だったのだろう、連れ立って歩くシオリが露店を覗き込みながら呟いた。ならばあれが良いとばかりにルリィが触手ですぐ傍の露店を指し示した。塩胡椒をきかせた牛の串焼き肉。肉を炙る香ばしい匂いが腹を刺激した。
「……お前は本当に肉食なんだな……」
強請られるままに三本頼み、持ち帰り用に蝋引き紙に包まれた串焼き肉の包みを眺めながらルリィを見下ろすと、満足げにぷるんと震えた。折角だからと自分も酒の肴になるようなものを幾つか買っておく。もしかしたらザックも何か買ってくるかもしれないが、その時は夜食にでも持ち帰ってもらえば良い。
シオリはというとあまり食欲が無いのか、果実の砂糖漬けやジャムを挟んだ小さなサンドウィッチを二切れのみだ。夕飯代わりにと言ったのも、ルリィを思っての事だったのかもしれない。
シオリのアパルトメントまで送って行くと、彼女はこちらに向き直る。子供と見間違うような小柄な彼女と、ストリィディア人としても比較的大柄な部類に入る自分とでは大分身長差がある。自然とシオリは見上げる形になった。
「――今回は色々とありがとう。それから……沢山心配かけてごめんなさい」
「……いいんだ。俺の方こそ守ってやれずにすまなかった」
それどころか、彼女の負傷を知って怒りの気配を滲ませたザックから庇われる始末だ。彼女の怪我にも気付かなかった。
「さっきも言ったけど、あれは別行動中だったから仕方無いよ。それに隠してた私も……良く無かった。ちゃんと最初に言っておけば、あんな大事にはならなかったのに」
何かあった時点で申告しなければ冒険者としては、否、とうの昔に成人し自立した人間としては失格だ。だが、犯罪に巻き込まれて恐ろしい目に合い、心身ともに酷く傷付けられた者にまでそれを問うのは酷というものだ。心的外傷というものは侮れない。むしろ、出逢って半年にも満たない己によくぞあそこまで話してくれたとも思う。
「守り切れなかった俺が言う事ではないかもしれんが……それでも俺は、お前の力になりたい。出来る限りお前の傍に居て、辛い事から守ってやりたいと思っている」
シオリの小さな手を取って指先に口付けた。初めてこの女に居場所になってやると告げた、あの時のように。
「特定のパーティに入るのが怖いのなら、俺と組むのはどうだ? 二人だけだ、怖いことはあるまい。俺としても傍に居られれば安心出来る」
「え」
シオリの焦茶色の瞳が大きく見開かれる。
「でも、ランクも違うし、受ける依頼の種類だって違うよ?」
「パーティ内でランクが違うのは珍しくもないし、AとBなら大した差ではないだろう。一緒に行動するようになれば、それなりの依頼が割り振られるようになるさ。勿論俺一人に縛り付けるつもりはない。それぞれ単独で別の依頼を受けることだってあるだろうからな」
なるべく束縛しないように、シオリの負担にならないように条件を緩めに提示してみれば、俯いて悩む素振りを見せた。反応は悪くない。
「今すぐ返事をくれとは言わないが、考えておいてくれ」
「……わかった。考えてみる。ありがとう、アレク」
考え込んでいたシオリが顔を上げて微笑んだ。その頬に手を添えて屈み込み、そっと口付ける。抵抗無く大人しく受け入れてくれるシオリを愛しく思いながら、ゆっくり休むように言い付けて別れを告げ、その場を後にした。
日もすっかり落ちて街路には魔法灯が灯る時間。
生誕祭の飾り付けと清掃を終えたラーシュは満足げにホール内を見渡すと、ほっと一息吐いた。今日はこれくらいにしておこうか。偶には早めに自室に引っ込んでも罰は当たらないだろう。妻も今夜は仕事から早く戻ると言っていた。そう思いながらカウンター上の呼び出し用のベルを中央に置いて帰り支度を始めたところで、窓の外の光景に目を止めた。
「おや……?」
玄関の前で向き合うようにして立つ二人の男女。アレクとシオリだ。仕事から帰還したらしい。向かった先の蒼の森付近で事件があったらしく、入居者の冒険者が何人か慌ただしく出掛けて行ったのは知っていた。巻き込まれた二人が現地に留まり、今日あたり帰還するらしいことも。
「お疲れ様でしたねぇ」
二人に聞こえるはずもないが、思わずそんな呟きを落とす。と。アレクがシオリの手を取り口付けた。
「おやおや」
思わず身を乗り出して注意深く観察する。
二人は何事か言葉を交わし、やがてアレクの手がシオリの頬に触れた。
「おやおやおや」
屈み込むようにして顔を近付けたアレクの唇が、シオリの唇に――。
「おやおやおやおや……」
べしゃり。
まさに口付けが交わされると思われたその瞬間、粘着質な水音とともに視界が青く染まった。ぎょっとして身を引くと、覗き込んでいた窓枠いっぱいに張り付いている瑠璃色のスライムの姿がそこにあった。
「……ルリィ君……」
瑠璃色の身体に遮られて、窓の外の景色は歪んで見えない。主人とその好い人が愛を交わし合うのを隠したに違いなかった。
往来で恋人同士が軽い口付けを交わす事はそう珍しい事では無く、道を行く人々も微笑んで通り過ぎる以外は敢えて注視する者は居ない。そんな中で態々じっくりと観察する者が居ればその目を塞ぎたくもなるのだろう。
「……君は主人に忠実ですね」
呆れ半分称賛半分に呟いたところで、ずるりとその身体が窓枠から下に滑り落ちていった。視界の良くなった窓からもう一度外を眺めてみるが、既にアレクは背を向けて立ち去った後だった。やがてシオリがルリィを伴って中に入ってくる。
「ただいま戻りました、ラーシュさん」
「ええ、お帰りなさい、シオリさん。お疲れ様でしたね。何か事件があったと聞きました」
「はい。何日かはゆっくり休むことにします」
「そうなさい。休むことも仕事のうちですよ」
そう言えば、シオリは耳が痛いとでもいうように苦笑した。
「はい、おやすみなさい」
階上の部屋に戻って行くシオリを見送ってから、再び窓の外に視線をやった。ここからそう遠くない下宿屋に戻ったであろうアレクを思う。愛する者に口付けを落とす瞬間の、彼のあの表情。柔らかく蕩けそうなその微笑みは、見る者すら幸せにするような、そんな笑みだった。決して幸せだったとは言い難い彼のこれまでの人生を思えば、あれだけの表情を浮かべさせる存在になったシオリと共に在ることが、彼にとってどれだけ癒しになっているのかがよく分かった。
ラーシュは生誕祭に華やぐ街路に目を細める。
「――良かったですねぇ、殿下」
その口元が緩い弧を描き、笑みの形を刻んだ。
ルリィ「クレメンスが息をしていない」




