20 夜明け前の約束
前半後半で視点と内容が変わるので、短いですが二つに分けました。
二話同時投稿です。
早朝。まだ夜明けまで二時間はある時間帯。
夜の間、時折誰かの足音が通り過ぎる音や、ぼそぼそと遠慮がちに会話する声が聞こえる以外は比較的静かだった救護所は、今は活動を開始した者達が立てる物音で多少の賑わいを見せていた。周辺の天幕から出入りする衣擦れの音や人々の話し声に紛れて、空腹の身に染みる良い香りが漂い始める。村の有志の女達が炊き出しの支度を始めたのだろう。
(――そういえば、昨日は朝食以外はほとんど何も口にしていないのだったな)
雪狼を相手にした後はそれどころではなく、夕餉の時刻を大分過ぎた頃に小さく切り分けられたパンと冷めかけた茶が振る舞われたものの、その時にはシオリの事でとてもではないが腹に何か入れるような気分にはならなかったのだ。結局は茶だけを貰い、パンは他の者に回すように頼んで持ち帰ってもらった。
さすがに丸一日食事らしい食事をしていない身に、漂う香ばしい匂いは堪えた。
ゆっくりと寝台から身体を起こすと、既に身支度を整えてルリィと戯れていたシオリと目が合う。
「……お前、もう身体はいいのか」
病み上がりで普段通りの早起きをするシオリを気遣うと、大丈夫、と答えが返って来た。ぷるんと震えたルリィが触手を伸ばして朝の挨拶を寄越した。こちらも普段通りだ。
手を差し伸べると、彼女のたおやかな手が重ねられる。そのまま手を取り引き寄せて、腕の中に囲い込んだ。見下ろして覗き込んだその顔色は確かに悪くはない。
「本当に、もう無理はしてくれるなよ」
そう簡単に「悪い癖」が抜けるとは思わなかったが、念の為釘は刺しておく。
「怪我をするなとは言わん。仕事柄、どう気を付けようがする時はするからな。ただ、黙っているのはもうやめてくれ。必ず教えてほしい」
あの心臓を鷲掴みにされるような焦燥感は二度と御免被りたいところだ。
気まずそうに視線を俯けるシオリの黒髪を撫でて返事を促すと、そのままの姿勢で頷く。
「……うん」
「約束だぞ」
子供に定めた決まりを守らせるような物言いをすると、シオリは小さく笑った。
「うん、わかった。約束……するよ」
言葉に妙な間があったのは、自分でも守り切れる自信がなかったからに違いない。
ふと悪戯心が湧いた。逃げないようにその華奢な身体を強く抱き締める。少し驚いたように見上げられ、それに対して不敵に笑って見せた。
「約束を破ったら、」
彼女の無防備な首筋に唇を寄せて軽く吸い上げる。短い悲鳴とともに身体が跳ね上がり、その反応の良さに思わず含み笑いをしながら、耳元で囁いた。
「一度破るごとに、ここに印をひとつ付けるからな」
細い首筋を指先で撫でると、ふるりとその身体が震えて次の瞬間赤くなり、それからか細い声で返事があった。
「わ、わかった……けど、」
「うん?」
「今は付けてないよね?」
「……さあ、どうだかな?」
「えええっ」
首筋を押さえて慌てる様子に思わず声を立てて笑いそうになったが、救護所という場所に居る手前、それは押し殺して軽く笑う程度に止めておく。
ぺし、ぺし。足元をルリィがつついた。その纏う空気から、どことなく「揶揄うのはそのくらいにしておけ」と言われたような気がして苦笑した。
「冗談だ。今のは付いてない。が、約束を破ったら本当に付けるからな」
「……わ、わかった」
心底思い知ったように神妙に頷くシオリをもう一度軽く抱き締めてから解放してやると、彼女はほっと息を吐いた。その様子にまた含み笑いをしてしまう。
と、天幕の外側で動く気配があった。
「――アレク殿、シオリ殿。起きておられるか」
返事をしながら入口の垂れ幕を捲ると、スープを満たした小さな器と丸パンを乗せた盆を手にした騎士の姿があった。ちらりと自分の背後に視線を走らせ目礼をする。
「朝食だ。食事を終えたら聴取したいとカスパル殿が」
「ああ、わかった。わざわざすまないな」
朝食を受け取ると、騎士は人の良さそうな笑みを浮かべた。昨日この天幕にシオリを運んでくれたのは彼らしい。
「元気になったようで何よりだ。村の者達が心配していたぞ。襲撃事件解決の功労者の一人が重傷者用の天幕に運ばれたと知って、ちょっとした騒ぎになっていた」
「……だ、そうだぞ」
恐縮しきりで小さくなってしまったシオリに、騎士と二人で軽い笑いを漏らす。
「――私、そんな大した事は……」
元々の性格か、それとも辛い経験から来るもの故かは分からなかったが、彼女の自己評価の低さも気になるところだ。眉尻を下げて困ったように呟く彼女に、騎士は微笑んで見せた。
「負傷者の救助活動や問題の積荷の解放に尽力してくれたこと、救護所での活動を、皆感謝している。積荷の件は私も見ていたが、あれは見事だった。機転を利かせた行動もそうだが、ああいった魔法の使い方は中々面白い。どうしても魔法と言うと攻撃一辺倒になりがちだからな。真似出来るかどうかはわからんが、参考になる」
言いながら彼は勇気づけるようにシオリの肩を一つ叩いた。
「後で皆に顔を見せてやってくれ。アレク殿も。礼が言いたいらしい」
そう言い置いて騎士は出て行った。
「謝意は素直に受け取っておくといい。そうやってすぐ自分を卑下するのもお前の悪い癖だ」
「……うん」
スープの器と丸パンを手渡すと、彼女は困惑するような顔のままで受け取った。
熱々のものを入れてくれたのか、未だに湯気の立ち上る温かいスープを冷める前に頂こうとシオリを促し、自分から先に手を付けた。塩気と香辛料の効いた乳の香が立ち上るミルクスープを啜ると、芋や玉葱等の根菜類が底から出て来る。どれもトリス近辺で栽培されている品種だ。特に、ふんだんに使われている牛の乳とバターはブロヴィート村で産出されたものだろう。この村は乳牛の飼育が盛んなのだ。
「……美味しい」
「そうだな」
じんわりと身体に染み渡って行くスープの温かさに、シオリがほんのりと微笑んで小さく息を吐く。それに同意しつつ、自分も匙を進めた。ルリィにも一口与えようと思ったが、遠慮されてしまった。今は水の方がいいらしい。食事の合間に水球を作って与えると、嬉しそうに何度もつるりと飲み込んだ。
「昨日お腹一杯食べたから、しばらくは動物性蛋白質は要らないって」
「……………………。そうか……」
シオリは事も無げにさらりと言うが、自分はしばらくルリィのこの手の話題には慣れそうもないと思った。
とりあえずその話は頭の片隅に追いやって、アレクは食事に専念することにした。
啜ったスープは、遠くで微かに獣肉の味がした。
ルリィ「寒冷地作物として知られる砂糖大根の中でも特に低温地帯での栽培に適している改良種ストリィディア・ビーツから作られる砂糖は甜菜糖と呼ばれ、国内砂糖生産量の実に約九割以上を占めている。砂糖精製時の絞り滓は家畜の飼料としても用いられる。なお、残りの一割弱については砂糖楓の樹液から生産されているが、独特の風味があるために砂糖の原料として積極的に用いられることはほとんど無く、主にメープルシロップに精製されている(キリッ」
シオリの蔵書の中にあった幼年学校向けの教科書で覚えたらしいです。
深く考えてはいけません。




