18 傷痕(2)
ルリィ「苦汁と砂糖キロ売り実施中」
何時間経っただろうか。
外から漏れ聞こえる喧噪は収まりつつあった。天幕越しに透けて見えていた陽の光は既に無く、夜の帳が落ちていることがわかる。
シオリはまだ目を覚まさなかった。鎮静剤の効果は既に切れているはずだったが、短時間で何度も繰り返した魔力切れで蓄積した疲労のせいか、眠りは深いようだった。彼女の手を取り握り締める。言葉を交わすことも出来ない今、こうするより他なかった。左の手首に着けられたままの腕輪が、酷く空しく感じられる。
カスパルには一緒に休んでおけと言われていたが、とても休む気にはなれなかった。
入口の垂れ幕の外で数人の気配が留まり、何事かを話す声が聞こえた。続いて中に入って来る物音。
「――アレク」
聞き覚えのある声に顔を上げると、見慣れた顔ぶれがそこにあった。
「ニルス。エレンも」
緩やかに笑ったニルスとエレンが静かに寝台に歩み寄り、手早く治療の準備を始める。
「領都の騎士隊もやっぱり人手が足りないらしくてね。組合にも急遽依頼が来たんだよ。救援物資の馬車に同乗させてもらった。僕達の他にも何人か来てる」
「まだ診なきゃいけない患者は沢山居るんだけれど、カスパルさん、だったかしら――気を遣ってくれて、先にこちらを診るように言われたの」
治療の為の場所を二人に譲ると、エレンが早速診察を始めた。聞けば外科系に特化した医師の資格を所有しているのだという。ニルスも医師資格を所有していたはずだ。薬師としてだけではない豊富な知識から、数々の患者を救っている男。どちらも来てくれたのは心強い。
「少し、痛むかもしれないわよ。押さえててくれる?」
言われてニルスと二人でシオリの肩や腕を押さえつけた。エレンが異常を確かめるように患部を触診していく。やはり痛んだのか、意識の無いままシオリが眉を顰めて微かに呻き声を漏らし、その身体を強張らせた。痛々しい。
「随分な打撲痕だけど――確かに骨に変形とか粉砕のような異常は無いようね。良かった。これなら直ぐに治療術で修復できるわ」
「それは何よりだ。なら僕の薬は必要無さそうだね」
折れて位置ずれしたり変形したりした骨をそのままに治療術を掛けると、歪んだまま修復されてしまうことになる。だから正しい知識を持ち正確な処置の出来る医師資格を持った治療術師は貴重な存在だ。
エレンが患部に右手を翳した。暖かい乳白色の光が溢れ、変色した肌が正常な色に戻って行く。ややあって、その右手が除けられた。もう痛々しい鞭の跡は残されていない。滑らかな肌があるばかりだ。
アレクはほっと息を吐いた。安堵と疲労で脱力しそうだったが、確かめたい事があった。
「――古い傷の修復は出来るか? 一、二年前の比較的新しい傷痕なんだが」
ニルスは察したようだったが、エレンは怪訝そうに微かに首を傾げて見せた。こちらは知らないのだろう。
「一度塞がって暫く経った傷痕は残念だけど治せないわ。年数を重ねれば少しずつ薄まってはいくけれど……。時間をかけて何度も治療術を掛ければ多少は早く目立たなくすることも出来るらしいけど、あくまで気休め程度だからあまり現実的では無いわね。効果の薄い治療の為に何度も治療術を施すのは、正直お勧めできないわ」
「そうか……」
やはり消す事は出来ないか。諦めざるを得ない。
「知っているとは思うけど、治療術は患者の体力を消費して治癒力を速めて傷を治しているの。シオリも今の治療で体力使ったから、もしかしたらまだしばらくは目が覚めないかもしれないわね。ゆっくり休ませてあげて」
「……ああ。わかった。ありがとう」
ニルスは少し話したいことがあると言ってこの場に留まったが、エレンは何かあったら呼んでねと言い置いて、先に慌ただしく出て行った。負傷者の治療に戻ったのだろう。
――しばしの沈黙が下りた。
「一、二年前の傷痕というと、あれを見たんだね」
ニルスが話を切り出した。それに頷いて返事の代わりにする。
「――俺は知らなかった。ザックからも何も――」
絞り出すように出した声は奇妙に掠れた。
「言えるわけないよ。妹の身体が傷だらけなんて、そんなのはさ」
ああ、そうだろうとも。妹が実は傷物だなどと、口が裂けても言えるものか。あの男が何故あれだけ『手を出すなよ』と執拗に言っていたのかが分かった気がした。見せたくなかったのかもしれない。
「あれだけ不自然な傷が残っていても、立件は難しかったか」
「――傷自体は全部人為的なものではなく魔獣によるものだったからね。僕も当時診察に立ち会ったからよく覚えているよ。あれは間違いなく魔獣の爪や牙による裂傷の跡だ。シオリもそうだと証言したから――間違いは無いんだろう」
だから、この傷痕を証拠に事件性を訴える事は出来なかったのだとニルスは言った。例え、傷痕の残り方に不自然な点があったとしてもだ。
「仲間に連れられて施療院で治療した記録も幾つか残されていたよ。どれもこれも手とか脚とか、背中とか――目立つ場所や仕事に差し障りの出る箇所だけだったけどね。それ以外の場所はどうも彼女自身が負傷した事を仲間に隠していたようだ……言い出し辛かったのかもしれないな」
どういうことだと視線で促せば、溜息が返って来る。
「……最後に治療に訪れた時の事を、担当した医師が覚えていたんだ。その時は仲間の女の子を庇って出来た背中の裂傷で担ぎ込まれて、酷い怪我を負ったのを随分と仲間に責め立てられていたそうだ。心配して怒ったとかそういう様子でもなく、余計な出費だとか足手纏いだとか、重傷を負った仲間に対するものとしては随分な言い草だったのが印象に残ったそうだ。仮にも仲間を庇っての負傷だったのにね。そんな責め方をされれば、負傷しても言い出すのは難しかっただろう。自分で手当てして凌いでいたようだ」
重苦しい沈黙が下りた。取り乱した時に口にしたという言葉を思えば、決してそれだけでも無かったのだろうとは思うが。
それよりも今は他に気になる事があった。傷痕を見て、ふと気付いた事。
「……シオリの診察に立ち会ったと言ったな」
「うん? そうだよ」
「最後まで全部か?」
「そうだけど……何か気になる事でもあるのかい」
「……ひとつ、訊きたい事があるんだが」
今この場で訊くべきか否か迷った。だが、どうしても訊いておきたい。
「シオリが――」
そこまで言い掛けて、口を噤んだ。
「なんだい?」
躊躇うと、先を促される。意を決して言葉を次いだ。
「――シオリが……辱めを受けていた形跡は?」
彼は息を飲んだ。逡巡し、少しばかり視線を泳がせた。ややあってから口を開く。
「……不幸中の幸いと言うべきか、見つからなかったよ。少なくとも、トリスに来てからはそういう行為は無かっただろうというのが担当医や呼び寄せた産婆の見立てだった」
「そう、か……」
思わず安堵の息を吐く。
「やっぱりね、あの状況だったから、ザックも担当医も同じ心配をしたらしくて調べたんだ……でも、万一暴行されてたとなれば、例え証拠があろうがなかろうが、あの連中は無事ではなかったと思うよ。大変だったんだ。傷痕が見つかった時のザックを止めるのはさ。気迫だけで人を殺せるんじゃないかって位に怒り狂ってね」
彼らに向けた怒りもあったのだろうが、それは事態に気付かず見過ごしていた自分自身への怒りもあったのではないかと思った。接触しないよう裏で仕組まれていたとは言え、愛した女の異変に気付けなかった己の不甲斐無さに対する怒り。
今、こうしてシオリの負傷にも残された傷痕にも気付かないでいた自分がこれだけの無力感に苛まれているのだから、癒えて間もない幾つもの生々しい傷痕を目の当たりにしたザックの気持ちは察するに余りある。
「――ニルス殿。済まないが、そろそろ」
入口の垂れ幕が上げられ、声が掛かった。立哨の騎士だ。現場に戻ってもらいたいということなのだろう。
「ああ、分かった。もう少ししたら行くよ」
ニルスが言葉を返すと、頼む、と短い返事があった。再び垂れ幕が閉じられる。
薬箱と手荷物を纏める彼をぼんやりと眺めていると、少しだけ探るような視線が向けられた。
「アレクはさ、」
「……?」
「最近シオリと噂になってるけど、実際どうなんだい?」
思慮深いニルスにしては随分と突っ込んだ事を聞くものだと思いながらも、噂になるほど目立っていたかと内心苦笑する。
「……まだ口説いている最中だ」
「なるほど、ね」
理解したとばかりにニルスが笑いつつ、数本の薬瓶を押し付けて来た。
「これ飲んでちょっとは元気出しなよ。シオリと同じ位酷い顔色してる。そんな顔色じゃ、彼女に逆に心配されるよ」
「――ああ。悪いな」
大人しく受け取ると、彼は亜麻色の髪を揺らして小さく笑った。
「多分、今彼女に一番近い位置に居るのがアレクなんだ。彼女は君と居ると少し様子が変わるからね。だから、彼女をよろしく頼むよ」
そう言うと、ひらりと片手を振って出て行った。それを見送ってからシオリに視線を戻す。
「……皆、お前の事を心配している。疎んでなんかいない。あんなに気遣われているじゃないか」
蒼褪めた顔を縁取る黒髪をさらりと撫でる。
「皆にそれだけ好かれているんだ。だから、もっと自分を大事にしてくれ」
服の上から傷痕のある場所に触れた。心だけではなかった傷。目に見える形で残された傷を目にすれば、嫌でも思い出してしまうだろう。癒えるどころか、傷口は広がるばかりだ。
――残された傷痕。自分が見た左腕だけでも数ヶ所あったそれは、後衛職にしては多過ぎる。それも、たった半年という期間でだ。確か、前衛職は四人は居たパーティのはずだ。それだけ居ながら守れなかったのか。
「……ゃ、」
シオリが微かに呻き、身動ぎした。ぴくりと反応したルリィが、するりと枕元に移動する。
「シオリ?」
起きたかとその顔を覗き込むが、目は固く閉じられたまま。苦しげにその眉が顰められ、唇から苦鳴が漏れる。瞼から溢れた雫が伝い落ちた。
「……置いて行かないで。や……」
魘されている。
「シオリ」
悪夢に喘ぐ彼女の頬を軽く叩いた。ルリィもぺしぺしと身体をつついた。
「起きろ、シオリ」
その手を握り締め、肩を軽く揺す振った。睫毛が震え、涙に濡れた瞼が開く。意識がはっきりしないのか、しばらくぼんやりとこちらを見つめていたその瞳が、次の瞬間戸惑いと恐怖の色を浮かべて酷く揺らいだ。
勢いよく起き上がる身体を、癒えたばかりの身に障るのでは無いかと案じて慌てて支える。だが、その身体は酷く震えていた。華奢な両手が、震える身体を抱き締めるように両の腕を握り締める。傷痕があるであろう二の腕を押さえつけるようにして。
「――足手纏いでごめんなさい」
「……シオリ」
「怪我、は、大したことないから、」
「シオリ」
「邪魔はしないから、だから、」
見捨てないで。
震える声で絞り出された言葉がまるで悲鳴のように聞こえて、あまりの痛ましさにその華奢な身体を胸に強く掻き抱いた。
「誰が見捨てたりするものか。付き合ってやると約束しただろう」
そのまま片手を蒼褪めた頬に添えて上向かせる。揺らぐ瞳は、こちらを見ているようで見ていない気がした。まだ夢から醒めていないのかもしれない。夢と現の狭間で揺れる瞳の、焦点が合わない。
「シオリ。傷があろうがなんだろうが、お前の価値は変わらない」
彷徨う視線が己の視線と絡んだ。その瞼に唇を落とす。抱きすくめた身体がぴくりと震えた。唇で涙を掬い、そのまま頬を滑るように幾度も口付けを落として、最後に柔らかな唇に自らのそれを押し付けた。
仰け反った喉の奥から小さなくぐもった声が聞こえたが、構わずに啄むように何度も小さな唇を食む。最後に縁をなぞるように舌先でそっと舐め上げてから、静かに唇を離した。腕の中に収まる身体には既に震えは無く、理性の光が戻った瞳が己を見上げていた。
「――落ち着いたか?」
訊けば、困惑と羞恥に赤く染まって俯く。
「……違う意味で落ち着かなくなった」
その声色も口調もいつものシオリだ。ひとまずその事に安堵する。それでも抱き締める腕は緩めなかった。彼女も大人しく抱かれたままだ。
ふと気が付くと、脇でルリィが入り込む隙を探すようにうろうろしていた。思わず二人で噴き出す。腕の中に収まったまま、シオリが腕を伸ばして水球を作った。ルリィはぽよんと一度震えると、つるりとそれを飲み込んだ。それから触手を伸ばして労わるように彼女の左腕をそっと撫でる。
「……あ」
「もう、痛まないな?」
「……うん」
「エレンがさっき治して行った。ニルスも来てるぞ」
「……そっか。後でお礼を言わないと」
頭がそっと己の胸元に預けられる。その艶やかな黒髪を撫でた。幼子にするように、優しく何度も。
「ごめんね。迷惑かけて」
ややあってから、ぽつりと呟くように謝罪の言葉が落とされる。
「……迷惑だとは思わんよ」
撫でる手を離してもう一度両手で抱き締めた。
「言い出せなかったんだろう」
返事の代わりに小さく頭が揺れた。頷いたのだろう。
「……言い出せないように仕向けられていたのか」
今度はしばらくの沈黙の後に、もう一度小さく首肯した。
「怪我や傷痕の事で何か脅されでもしたか」
「……初めは皆心配してくれてたんだけど、そのうちに厳しく指摘されるようになったから。怪我が多過ぎるって言われて、実際その通りだったから」
「俺としては、前衛が四人も居て後衛がここまで負傷している事の方が妙だと思うがな」
どう考えても解せない。
「後衛を護りながら戦うよりは、攻撃に集中した方が効率が良いと言われて、それで――ラケルの護衛を任されてたの」
「ラケル?」
「……【暁】に居た女の子。召喚士で詠唱中はどうしても隙が出来るから、その間は私が彼女の護衛を」
「補助職に護衛役をさせていたのか」
穏当では無い。
「前衛が皆攻撃に回れば、私だけが手が空いた状態になるから、戦えなくてもそのくらいなら出来るだろうって、それで」
「だが普通は補助職に護衛を任せたりはしない。幾らお前が防御の魔法を使えたとしてもだ。雪狼のように弱い者から狙う魔獣だって多いだろう」
むしろ的になることもあったのではないか。
「……そうだね。今なら分かるよ。でも、あの時は皆に付いて行くのに必死だった。今まで参加したパーティの人達が偶々優しい人ばかりだったから護られているだけで良かったけど、本当は補助職でもそのくらいは出来て当たり前だって言われて、私も家事しか出来ない引け目があったから、つい……」
俯いたままの、その肩が震えた。微かに笑ったようだった。
「皆焦ってたんだよ。組合入りした時期が私と同じ位に遅くてそれなりの歳だったから、同じ年頃の人達と比べるとずっとランクが低いのを気にして、早く昇格したいみたいだった。だから無理して難しい依頼を受けるようになって、上手く行かなくて、それで――」
「……責任を押し付けられていた、と?」
「うん。今思えば、あまり連携が取れていないパーティだった。力押しだけで渡って来て、そういう戦い方しか出来なかったのかもしれない。だから、護衛が必要な私やラケルがどうしても邪魔に感じたんだと思う。それでもまだラケルは召喚術で戦えたから、私だけが足手纏いになった。そういう時の補助職の戦い方を兄さん達に訊きたかったけど、中々会える機会もなくて、勉強しようにも帰って来れば次の仕事の支度で忙しくてどうしても時間が取れなくて、空いた時間は仕事に差し支えないように睡眠に回すのが精一杯だった」
昇格を焦った低級パーティが陥りがちな話だった。先達から学ぶ気が有ればどうとでもなる話だったのだが、その学ぶ時間すら惜しんで無理に依頼ばかりを受け、失敗を繰り返してその苛立ちと責任をパーティの一番立場の弱い者にぶつけるという構図は、実はそれほど珍しい話ではない。勿論それらも全て乗り越えて上に上って来るパーティも多いのだが。
シオリの場合は、異邦人であることが事態を更に悪化させていたのかもしれない。
「――ようやく兄さんに相談出来そうな時間が取れた時にね、ラケルに言われたの。『この国では傷痕のある女は穢れた女だって思われて、見つかるだけで大変な事になるから気を付けてね』って。他の仲間達に知られたらどうなるかわからないから、絶対に見つかるなって、あまり兄さん達に会えなくなったのももしかしたら気付かれているからじゃないかって、そう言われて、それで兄さん達にも近付くのが怖くなった。怪我しても他の傷痕を見られるのが怖くて余計に言い出せなくなって、それで全部隠してた」
傷痕のある女は前世の罪人、穢れた女。そう言われて蔑まれていたのはもう百年以上も昔の事だ。まだ強国だった帝国が周辺諸国に強い影響力を持っていた頃に信じられていた、彼の国の悪しき考え。今となってはそのような事を口にする者など滅多には居ない。余程頭の古い年寄りか、傷痕が生理的に受け入れられない人間だけだ。
ラケルという女が何を思ってそのような事をシオリに吹き込んだのかは今となってはわからない。それに、あれだけの傷痕なら服や装備類にも分かりやすく跡が残ったはずだ。誰も気付かない訳が無かっただろうに。分かっていて放置したのか。大人しく言いなりになる彼女を面白半分に捌け口にしたのだろうか。
強く抱き締めると、シオリは微かに吐息を漏らした。
「冷静になってみれば、あの人達の言っていた事はどれもこれもおかしい事だっていうのはよくわかるよ。でも、疲れて上手く物が考えられなくなって、足手纏いになって、傷が沢山ある事も知られて、穢れた女は一緒に居るだけで恥だって、そんな風に言われて、置き去りにされたのを思い出すと、どうしても、」
顔を押し付けられた胸元が、微かに湿り気を帯びたような気がした。
「あの時受けた依頼――本当は私が行く必要なんて無かった。トリスから迷宮の近くまでは馬車で行ったし、迷宮の隠し部屋に保管してた物を運び出す人足が欲しかっただけだったもの。運搬業者じゃなくて冒険者を使ったのは多少の護衛も兼ねてたからだよ。迷宮の中で限界が来てどうしても動けなくなって、私を運んだら持って行ける荷物が少なくなるからって――ああ、魔獣が来た、逃げなければ危険だ、って――穢れた女だし、余所者で悲しむ人も居ないから、いいよねって、そうやって――」
胸の悪くなるような話に湧き上がる怒りをどうにか抑えつつ、宥めるようにその背を撫で、それからもう一度頬に手を掛けて上向かせた。
「――よく話してくれた。辛かったな」
涙に濡れた頬を指先で拭う。
「だが、ザックは傷の事を知ってもお前を見捨てなかっただろう? 他の者もお前が居なくなって、皆必死になって探してたんだ」
「……うん。でも、やっぱり怖かった」
「……一度植え付けられた恐怖感は中々拭い切れるものではないからな」
特に、死に直結する状況で捨て置かれたとなればその恐怖感は相当のものだ。深く根差したそれを取り除くのはきっと時間が掛かるだろう。
「俺もお前の傷を見たが、見捨てる気などさらさらないからな」
「……」
「――俺にも思い出したくない事や傷になっている事も沢山ある。だが、俺が寝込んで悪い夢に魘されたあの時、お前がずっと傍に居てくれたから、大丈夫だと言ってくれたから、それで俺は随分と助けられた。あの時に、もう俺はお前を自分の居場所と決めたんだ。だから、シオリ」
親指の腹でその柔らかい唇をなぞる。
「お前もどうか、俺を頼ってくれ。可能な限り傍に居る。お前が望むならいくらでも居場所になる」
返事の言葉は無かった。代わりに小さな頷きが返って来る。
唇に触れた手を、頬から耳の裏を掠めて後頭部に添えた。そのまま引き寄せて優しく口付ける。彼女の心の奥の薄壁が柔らかく溶け始めるのを感じながら、啄むようなそれをやがて深く激しいものに変えた。舌先でつついてその唇を開かせ、差し込んだ舌を彼女のそれに絡ませる。隙間から漏れるくぐもった艶めかしい吐息と、拙い動きで己の舌に応えようとしているのを愛しく思いながら――気が済むまで口内を貪り、夢中で互いを確かめ合った。
ルリィ「スライムの目も憚らず濃厚なキスシーンが繰り広げられている件について」
暁のラケルについては序章で少しだけ出てきます。シオリが抜けた後で、仕事中にこの世からログアウトしちゃった子です。……いや、子って歳でもないんだが。