13 森の異変
今度はルリィとアレクがえげつない攻撃をします。
ご注意ください。
全てが淡い蒼に没した森の底を、シオリの手を引いて歩く。彼女の負担にならないように、ゆっくりと歩幅を合わせて。
あれからずっと彼女はやや伏し目がちに歩き、無言を通していた。こちらの過ぎた気遣いに機嫌を損ねた訳ではないようだが、いつもの凪いだ顔には微かな当惑の色が滲んでいる。
心の扉の内側に踏み込む事は柔らかに拒絶するというのに、多少強引にでもその手を取れば、彼女からその手を離す事は絶対に無いのだという事に気付いたのはこの旅路の最中だ。己の手を握り締めたその手が、まるで縋り付くようにも思えるのは気の所為では無いだろう。一度腕の中に抱き込んだ時も、大人しくされるがままになっていた。本当は助けを求めている。
せめぎ合う二つの思い――誰かに縋りたいという思いと、自立せねばという強い強迫観念――を持て余しているのかもしれない。心の内の壁から出ようという素振りは見せるのに、ふと我に返って戻ってしまう。そんな事の繰り返しのように思えた。
どこか途方に暮れたようにも見えるその顔を見下ろしながら、彼女に付けられた深い傷を感じて心が痛む。見知らぬ土地で、命を失いかけるほどの目に合いながらも折れずに自身の足で立つ強い女。忠告の名を借りた悪意に追い込まれてそうせざるを得なかったのだとしても、正気を保ったままで強く在るというのは並大抵の事ではないだろう。
だが、真っ直ぐ通ったその芯の強さ故に。
(――いつか根元から折れてしまうぞ)
強さを保つ為に犠牲にしている何かがもし崩れたら。そのことが、酷く不安でならない。
(守ってやれれば良いが――常に側に居てでも――)
「……大丈夫?」
唐突にシオリから声が掛かった。脈絡の無い台詞に目を瞬かせる。
「何がだ?」
訊けば、繋いだ手がより強く握られた。
「何だか辛そうな顔してるから、どこか痛むのかと思って。もしかして怪我してた? それとも具合でも悪い?」
しまった。表情に出ていたか。内心臍を噛むが、それでも「痛む」という事に間違いは無いのも事実だった。他ならぬ彼女を思って痛む。だとしてもそれを口にすれば必ずこの女は気にするだろう。だから、言わない。緩く笑って誤魔化す。
「少し考え事をしていただけだ。気にするな」
「……本当? 無理してない?」
「ああ。なんだ、お前は無理するのに俺には無理するなと言うんだな」
指摘してやると気まずそうに視線が逸らされる。そのことに苦笑しながら視線を前に戻した。
粉雪草の採集は雪菫に比べれば少々厄介だ。その名の通り粉雪のように白く、蒼白い森の景色に溶け込んでしまうのだ。だから、余程注意して探さなければ見つける事は容易ではない。これと言った群生地と呼べるものもなく、蒼の森の中央部よりも奥に多く生育するという程度の情報しか無いのが現状だった。
依頼主のベッティルには、とりあえず雪菫の原種さえ入手出来れば粉雪草は無理に探さなくとも良いと言われていた。しかし、採集出来ればそれに越したことは無い。
と、大人しく二人の後を付いて来てルリィが、しゅるりと進路を逸れた。白雪樹の根元辺りまで移動すると、その場でぽよんぽよんと飛び跳ねる。
「どうしたの?」
「呼んでいるように見えるが」
近付いて見ると、白雪樹の根元からその裏側に向かって群生する真っ白な植物。細かく枝分かれした細い茎の先に、びっしりと純白の小さな実が鈴生りになっている。
「……粉雪草じゃないか。お前が見つけてくれたのか」
ルリィが自慢げに大きくぷるんと震えた。それから触手を伸ばすと、粉雪草の茎を一本折って、粘液の中に取り込んだ。雪が解けるように見る間に溶解して消える。それからもう一本折り取って再び摂取すると、「採らないのか」とでも言いたげに身体の向きを変えた。
「もしかして好物だったのかな」
「かもしれんな」
雪菫の蜜はそうでもなかったようだが、粉雪草はむしろ好みらしい。確かに雪菫の蜜は甘いが少々花の香りが強く、好みが分かれるところではあった。それに比べて粉雪草の実は優しい甘味とふわりとした口溶けで癖が無い。
ルリィを真似て茎を折ると、シオリに手渡した。
「食べてみろ。旨いぞ」
不思議そうに粉雪草を眺めた彼女はおずおずとそれを口に運んだ。その表情が、ふわりと解ける。
「――凄い。まるで雪みたいに溶けた。それに凄く優しい味……」
バニラアイスみたいな味、そう表現されて同意する。
城暮らしをしていた頃、ある日の八つ時に出された白い氷菓を初めて口にした時の感動は今でも覚えている。冷やりとしたそれが雪のように舌の上で溶けたあの感触と、口一杯に広がる優しい甘味と乳の香は忘れられるものではない。身体を冷やすからと滅多には出されなかったバニラの味の氷菓は、実のところこの歳になった今でも好物の一つに数えられる。それと同じ味の、この植物の実も。
かつては高価で上流階級の者でもごく一部の者しか口に出来なかったという氷菓も、ここ数十年で庶民でも偶の贅沢品として買えるようになった。寒冷地故の貧しい食糧事情の改善の為に、農業や保存技術、物流の発展に力を注いだ先王や先々王の治世の賜物とも言えた。
――良き、王であったのだ。ほんの数年しか共に暮らさなかった父も、肖像画でしか顔を知らない祖父も。
些か複雑な思いでぼんやりとしか思い出せない父の顔を思い浮かべていると、手をぴしりとルリィに叩かれた。早く採れと言わんばかりの様子に思わず苦笑してしまった。まさかスライムに仕事の手を休めるなと指摘されるとは。
手厳しいスライムに言われる(?)ままに、保存容器を取り出して粉雪草の実を詰めて行く。ベッティルに預けられた保存容器の中には乾燥剤の小袋も入れられていた。意外にも熱には耐性があるが、水気には恐ろしく弱いのだ。
或る程度まで容器に詰めてしまうのを見計らってか、ルリィが残りの粉雪草を物色し始めた。こちらの仕事が終わるのを待っていてくれたらしい。なんとも賢いスライムだ。
自分らも数本の小枝を失敬して口に含む。ほんのりとした優しい甘みは心まで解かすようだ。ふ、と二人して顔を見合わせて笑ったところでシオリの顔が強張った。
「ねぇ。また何か来るよ。今度は三体。さっきと同じ……速い!」
探索魔法に魔獣の気配が掛かったらしい。
ルリィが攻撃色に染まると同時にこちらも気配を察知して戦闘態勢に入る。鞘から引き抜いた魔法剣の切っ先を向けた先――程無くして、三体の白銀の獣が姿を現した。
「やはり雪狼か!」
雪狼らが一斉に咆哮した。戦闘開始の合図。
「アレク! 私に構わず攻撃して! 私はルリィに護ってもらうから」
自主的に白雪樹を背後にして立ったシオリが叫ぶ。さすがに護衛対象を護りながら三体の素早い魔獣を相手取るのは厳しいと判断したからだろう。三体居れば彼らの得意とする群狼戦術も可能となる。危険度は先程よりも段違いだ。だが。
「しかしお前……」
信用しないわけでは無いが、やはり不安は残る。それを伝えれば「任せておけ」と言わんばかりにルリィが身体を震わせた。
そうだ。あの時もルリィは下手に攻撃に手を貸そうとはせず、シオリの護りに徹していた。護衛としては理想的なのだ。それにシオリのことだ、呆気なくむざむざとやられるような事にはならないだろう。
信用――する。シオリとルリィを。
「わかった。二人とも無理はするなよ!」
一声掛けると、先手必勝とばかりに群れの中に飛び込んだ。魔法剣を一閃して陣形を崩し、彼らが体勢を整える前に一体に狙いを定めて一気に踏み込む。鋭い一突きで雪狼の口内に魔法剣を刺し込むと、予め詠唱していた火の魔法をその喉の奥、魔法剣伝いに叩き込んだ。
「爆炎!」
「ギャゥッ」
最大火力で気道を焼かれればひとたまりも無く、白い魔獣は地面をのたうつ。
「確かにえげつないが――これは効くな」
シオリの火炎陣の応用だった。気道を火傷によって閉塞させることによる窒息は有効だ。防御力と魔法耐性が強いのは毛皮で覆われた部位のみ。体内を直接攻撃することさえ出来れば屠るのも容易かろう。
実のところ、滅多に森の奥地から出て来る事は無い種である上に、討伐の面倒さから然程雪狼との実戦経験があるわけでもない自分にとっては極めて有用な情報だった。
しかしながら、三体という少数だからこそ出来るとも言えた。これもやはり大所帯で来られてはなかなか難しい手段ではある。
残った二体の雪狼は、アレクを手強い相手と見て瞬時に標的を変えた。勿論向かう先はシオリだ。
「火炎陣!」
彼女の放つ火魔法が、シオリとルリィを取り囲むように発動する。火の檻を、今度は自らを護る為の防護壁として使ったのだ。一瞬躊躇いその場で蹈鞴を踏む雪狼達の後ろから切りつけると、二体は左右に散開した。視界の端に映るもう一体は、地面に横倒しになったまま痙攣を始めていた。最早長くはあるまい。集中して相手をすべきは残り二体だ。
二体はほんの一瞬逡巡する様子を見せた。炎の壁を突破して最弱の相手を狙うか、それとも壁のこちら側に居る強敵を相手にするか。獣としての炎への本能的な恐怖心と、魔獣としての闘争心――それらの二つがせめぎ合っているのだろう。
だがその一瞬の隙を見逃すはずも無く、アレクは片方の雪狼に向かって斬りかかった。最初の一体のような醜態は晒さぬとばかりに雪狼は背後に飛び退った。二体を引き離してしまえば群狼戦術は使えまい。
意識の端でシオリの無事を確かめつつ、素早く逃げ惑う一体を追い詰める。
「旋風!」
足元に旋風を起こして怯んだ隙に一気に間合いを詰め、口内に剣を刺し入れた。
「爆炎!」
一体目と比べて小柄で、まだ未熟で弱い個体だったのだろうか。気道を焼き塞ぐまでもなく喉の辺りで魔力が弾け、それは断末魔の一つも上げないまま大地に落下すると、そのまま短い痙攣の後に事切れた。
すぐさまシオリの元に取って返そうと振り返ると、あちらも片が付くところだった。火炎陣を突破しようとした勇気あるその一体は、頭部をルリィに飲み込まれていた。恐らく口内に潜り込んで内部から溶解しているのだろう、その身体を噛み切ろうともがく雪狼の努力も空しく、それはやがて血泡を吹いて大地に倒れ伏した。相手が事切れるまでそのままだったルリィは、口内から這い出して来る。
「……大丈夫? 噛まれたところ、痛くない?」
牙の跡らしきものが残る半透明の身体をシオリが擦る。ルリィは問題ないとでも言いたげにぷるんと震えると、その跡を周辺の粘液で塞いでいった。すぐにつるりとした綺麗な肌に戻る。
「なんとかなったな」
「うん。良かった、二人とも無事で」
「お前もな」
良い連携だったと思う。その結果に大いに満足したが、不安要素は解消されたわけではなかった。
「……しかし、やはり様子がおかしいな」
「う……ん。やっぱり、変、なんだよね?」
雪狼は初めてらしいシオリも不安げに呟く。警戒心が強く、滅多な事では人前に姿を現すことがない雪狼とこの短時間で二度も遭遇したのだ。しかも、比較的人里に近い領域で。何かがおかしい。
と。
遥か遠くで遠吠えが聞こえた。それに呼応するように、別の場所からも遠吠えが始まる。狼――雪狼の遠吠え。その数は多い。
「――戻るぞ!」
「うん!」
薄っすらと感じていた違和感は現実のものとなったようだ。このままこの場に留まるのは危険だ。しゅるりと素早くルリィがアレクの肩に這い上る。アレクはシオリを遠慮なく抱き上げると、散策道に向かって駆け出した。
――蒼の森に、得体の知れない異変が生じつつあった。
ルリィ「柔らかいところが美味しいです」




