12 雪狼
戦闘シーンでややえげつない攻撃方法が出ます。
窒息とか気道熱傷とか、そういうアレです。
大陸北部の雪深い森林地帯の奥地に棲息する雪狼は、基本的に十頭からニ十頭前後の群れで行動し、警戒心や縄張り意識が強い為に滅多に人前には姿を現さない。魔獣図鑑では何度も見た雪狼だったが、実際に目にするのは初めてだ。稀に群れを離れて人里近くまで降りて来る個体も居るらしい。
単体での討伐難易度はBだが、身のこなしが素早く、群れでの行動を基本とする事からAまたは条件によってはSに設定されることがほとんどだった。数十匹の雪狼による素早い連続攻撃――いわゆる群狼戦術は極めて危険だ。見た所単体なのが幸いだった。
光の当たり方によっては銀糸のようにも見える艶やかな白銀の雪狼は聞く者の心を凍えさせるような咆哮を一声上げると、体勢を低く取って後ろ脚をいつでも踏み出せるような位置に置いた。凍り付いた湖面のように冷え冷えとした蒼い瞳が剣呑な光を宿し、剥き出しになった牙の隙間から獰猛な唸り声と共に冷気を帯びた吐息が漏れる。素人目にも分かる威嚇の姿勢。
明らかな殺意と敵意を向けられて、シオリは思わず身を竦めた。雪狼は狩りの際には必ず弱い個体から狙う。なるべく体力を温存し、確実に「食糧」を得るための知恵だ。自分自身がこの場で最も弱いだろうことは十分に理解している。真っ先に標的になるのは自分だ。
「――シオリ、俺から離れるなよ」
内心抱いた恐怖心を察したのか、魔法剣を構えたままシオリを後ろ手に庇う。
「単体のようだな」
「うん。探索魔法にも掛からない。少なくとも百メテル以内に群れの気配は無いよ」
探索の網を拡大するが、今のところ目の前の魔獣以外の異変は感じられなかった。
「それは何よりだ。雪狼の習性は知っているか?」
「一番弱い個体から狙うんだよね」
「――そうだ。あれはまずお前を狙ってくるだろう。俺から少しでも離れたら危険だと思ってくれ。このまま少しずつ下がって、木を背にして立て」
「わかった」
雪狼から視線を外さないまま、そろりと後退した。赤く染まったルリィはその足元を守るように、粘液状に広がる。
「ありがとう」
そっと声を掛けると、ルリィの身体の端がぴこんと震えた。任せろとでも言いたげだ。
アレクの魔法剣が炎を纏って赤銅色に輝く。寒冷地の、それも冬期間に活発な活動をする魔獣の例に漏れず、本能的に火や熱を恐れる。単体相手ならば、局所的な利用に留めて置けば森への引火も防げるはずだ。
とはいえ厄介なのはあの白銀の毛皮だ。魔力耐性が高い上に斬撃が通りにくく、弱点の目や口内を狙うにも的が小さすぎる上に素早い動きで命中させるのは難しい。A級弓使いのリヌスでも居ればもしかしたらとも思うけれども、無いもの強請りをしても仕方がない。
雪狼の後ろ脚がぴくりと動き、瞬間凄まじい跳躍力で飛び掛かる。単体では一人と一匹の防御を掻い潜って最弱の標的を直接狙うのは無理と判断したらしい。正面のアレクの顔面目掛けて跳躍した雪狼は、凡そ二メテルはあろうかという体躯にそぐわない素早い動きで爪を、そして牙を剥いて彼の半身を抉りにかかる。が、白銀の獣にも劣らぬ速さで魔法剣が閃き、その太刀筋が正確にそれの胴を薙いだ。鈍い打撃音と共に短い苦鳴が上がり、吹き飛んだ雪狼の身体が地面に叩きつけられる。けれどもそれも束の間、素早く体勢を整えた魔獣が爛々と輝く双眸をこちらに向けた。戦意は喪失していない。一呼吸吐く間もなく再び急接近して攻撃を仕掛けて来る。
「やはりあの毛皮は厄介だな」
背後のシオリを庇いつつも、それを再び往なしたアレクは眉を顰めた。
炎を纏わせた魔法剣ですら、一撃では毛皮を突き通して刃を身体まで到達させられなかった。白銀の体毛を幾分切り落としたのみだ。その硬さは毛皮製品として使用するには向かないものの、体毛を撚り丹念に編み込んで鎖帷子に加工すれば、金属製のそれよりも遥かに軽く機動性の高い防具になる。強度は劣るとは言え、重装備を好まない中衛、後衛職の中には、そこそこの防御力と魔法耐性を期待出来る装備品として入手したがる者も多い。
運良く逸れ狼に遭遇して狩る事が出来ればそれなりの収入を見込めるのだけれども、滅多に人前には姿を現さない種であること、単独は好まず数十頭の群れで行動するということから討伐難易度は高く、毛皮を利用出来る形で狩らねばならないとなるとそれなりの戦力を揃えねばならなかった。かけた労力と費用の割に実入りは少ないとして、素材の為だけに狩る対象としては敬遠されがちな魔獣でもある。
雪狼は飛び掛かっては斬り返されを繰り返し、徐々に体力を削がれているようだった。それでも致命傷には至らない。自分が居なければアレクももっと有効な戦い方が出来るのだろう。仮に今は依頼主と護衛という関係とは言え、普段は仕事を共にする仲間なのだから、そのことが心苦しい。
攻撃の切れは衰えつつあるものの、相変わらず戦意を喪失することもなく短い咆哮を上げると雪狼は再び飛び掛かり牙を剥いた。アレクがその口内を目掛けて素早く魔法剣を突き出すと、火花と共に激しい金属音が響き渡る。雪狼がその強靭な顎で剣を受け止めたのだ。
「火炎放射!」
攻撃を受け止められた事にも怯まず、魔法剣伝いに彼は火魔法を放った。
「ギャゥン!」
さしもの魔獣も口内に侵入した火炎に悲鳴を上げた。牙の隙間から焼け焦げた臭いとともに薄い煙が漏れた。
それでもまだ戦意を失わない様子の雪狼を眺めながら思考を巡らし、何か手立ては無いか考える。
(魔法攻撃は効き難い魔獣――だけど、口の中には効いたみたい。身体の基本構造は動物と同じ――なのかな)
大地に身体を伏せて再び跳躍するその刹那を狙い、シオリは探索魔法を解除し、新たな魔法を発動した。
「――火炎陣!」
瞬間、雪狼の周囲を炎の壁が取り囲む。高さ二メテルほどの壁は上から覆いかぶさるように半球を形作り、さながら炎の檻のように雪狼を閉じ込めた。炎の苦手な種とあって、獰猛な雪狼も怯む素振りを見せた。
「水球陣!」
それを見逃さず、炎の檻の周囲に水の檻を展開する。周辺への引火防止だ。こちらは内部の燃焼を妨げないよう、上部は開けてある。どちらも然程の威力は要らない。自分程度の魔力では魔法耐性の高い雪狼を火魔法で殺傷する事は不可能だから、間接的に利用するのだ。殺傷力は無くとも窒息はさせられる。もし普通の動物と同様に呼吸しているならば、燃焼させて雪狼周辺の空気を消費させればそれも可能だ。上手くすれば気道熱傷による窒息も期待出来る。
果たして――水と炎の壁の向こう、雪狼ががくりと前脚を折るのが見えた。続いて後ろ脚も崩れ落ちる。しばらくそのままで様子を窺ったが、とうとうその身体が横倒しになり、そして身動きひとつしなくなった。それを見届けて魔法を解くと、円形に焼け焦げた地面の中央に煤けて灰色になった雪狼の骸が現れる。
「――事切れてるな」
息の無い事を確かめたアレクがこちらを振り返った。彼は自分のする事を信用してくれているのか、魔法を放った時も敢えて指摘はせずに黙っていてくれた。その事がとても嬉しい。
「相変わらずお前は変わった攻撃をするな。今のはなんだ? ただの魔法の檻ではないんだろう」
説明を求めるアレクの横に並び、雪狼の遺骸を見下ろす。
「燃焼する時空気を消費するから、炎の檻を作れば内部の生物は呼吸が出来なくなって窒息するの。そうでなくても、至近距離で燃える火の熱気を吸い込めば呼吸器官の火傷で気道が塞がって、やっぱり息が出来なくなるよ」
「空気を消費して窒息、か。……なるほどな。そういうやり方もあるのか」
感心と困惑が混じり合ったような表情でアレクが唸る。
ちょっとえげつないけど、そう付け足して苦笑しながらシオリはその場に膝をついた。
何も活躍出来ずに終わって不満げなルリィは攻撃色を解除すると、しゅるりと遺骸に近付いた。触手を伸ばしてつつくがまだ熱かったようだ。すっと素早く触手を引っ込める。もしかしたら食事にありつこうとしたのかもしれない。ルリィの様子に苦笑いしつつ水魔法を与えて「護衛役」を労ってから、アレクを見上げる。
「埋めてもいいかな。このままだとさすがに気の毒だし」
「……ああ。構わんよ」
「毛皮、欲しかった? 汚しちゃったけど」
「いや。それほど金には困っていないしな。埋めてやってくれ。臭いを嗅ぎ付けて他の魔獣が寄って来るかもしれん」
「うん。わかった」
土魔法を発動して遺骸ごと穴の底に沈め、そのまま土を被せて地均しをする。いかにも何か埋めたとわかる様相が残るが、ひとまず遺骸が隠せればそれで良かった。
「それにしても……逸れ狼とはいえ単独で真っ直ぐ突っ込んでくるとはな。魔法剣程度では怯まなかったあたり、相当好戦的な個体だったか」
「そうだね……」
遥か先からこちらに狙いを定めて襲ってきたようにも思える。図鑑程度の情報しか持っていないとは言え、珍しい事なのではないだろうかと感じた。アレクの言葉からもそれが察せられる。
しばし二人で考え込んではみたものの、検証するには情報が乏しい。埒も無い考察に区切りをつけることにした。
「シオリ」
「うん?」
隣に膝を付いたアレクに薬瓶を握らされる。魔力回復薬の瓶だ。
「飲んでおけ。結構消費しただろう。また魔法の同時展開などして……無茶をする」
確かにかなり魔力消費はしたけれども。
「……自分でも持ってるよ?」
「俺の方は余裕があるからな。遠慮するな」
言ってから彼はにやりと笑って見せた。
「ああ、それとも口移しで、」
「ありがとう! 遠慮なく頂きます! 自分で飲むよ!」
即答すると、途端にアレクの眉尻が少しだけ下がった。
「……何も即答せんでも……」
何事かぶつぶつと呟いている彼を尻目に魔力回復薬を飲み下す。失われた魔力が戻って来る感覚に、ほう、と息を吐いた。
「ありがとう。楽になった」
「……そうか。少し休んで行くか?」
心配してくれたのだろう。その気遣いは嬉しかったけれども、首を振った。確かに少し怠さは残ってはいたが、あまり迷惑を掛けたくはなかった。些細なことで足を引っ張りたくはない。
「大丈夫。この位は大したことないよ」
採集の依頼を済ませてしまう分には問題無かったけれども、アレクはほんの少し眉根を寄せて小さく溜息を吐いた。口を開き、何か言い掛けて――止めたようだった。代わりに手が伸ばされて、三角帽子の上から頭を撫でられる。
最近はこんな事が多い気がした。
「……そんなに私、頼り無い?」
ぽつりと漏らすと、苦笑が降って来る。
「頼り無くはないさ。ただ、俺が心配なだけだ。仲間なんだ、体調を気遣うくらいはさせてくれ」
『魔力切れ程度でいちいち情けない面見せるな! 顔に出さないのが一人前の冒険者だろうが』
アレクの温かい台詞に被るように、脳内に蘇る言葉が胸を衝いた。
――言われるままに、辛さも苦しさも痛みも顔に出さないように努力した。精神力だけで踏み堪えられるようにもなった。確かに不調を気取られなくなったのは有難かった。不要な心配を掛けずに済むというのは気が楽だった。気取られなければ迷惑にならない、不快な思いもさせない。だから――。
探るような、どこか切なげな色すら浮かべて自分を見詰めるアレクと目が合った。
「……辛ければ言っても構わないんだぞ。皆そうしている。勿論俺もな。だからお前も無理はするな。互いに気遣えない間柄なんぞ――そんなもの、仲間ではない」
かつての仲間に擬態した何かに浴びせられた言葉を打ち消すような彼の言葉が、温かくじんわりと心に沁みた。彼の優しさに溺れてしまいそうになる。
だから――自制しなければと思った。
迷惑を掛けて、情けないと冷たい目を向けられてしまうのは怖かった。自分が非力で不甲斐ない人間だというのは分かっているから、猶更に。
(もう、あんなふうに捨てられたくない)
もし彼にまで見捨てられてしまったら、二度と立ち直れない気がした。立ち直れず歩み続けるのが難しくなったら――誰も頼れない、居場所の無いこの世界で立ち止まってしまったら――それが意味するのは即ち、自らの死だ。
心を預けつつある彼に、嫌われたくない。そんなことをするような人ではないとは解っているけれども、一度心の奥底に強く根付いてしまった恐怖心は未だに解消出来ないでいる。誰かを頼るのは恥だと刷り込まれたその常識も、皆優しいから、自分が余所者だから見逃してくれているのだという思いもどうしても払拭出来ない。そして足手纏いになれば捨てられるという恐怖心も。それが、今でも胸の奥にじっとりとこびり付いている。
(……思った以上に病んでるなぁ、自分)
何も言わずに自分の手を握り締めてくれるアレクの手の温もりを感じながら、どこかひどく冷静な頭の片隅で、そう思った。
ルリィ「偉そうな事を言っているようだけど、辛くても言わずに結局ぶっ倒れた誰かを知っているヨ」