10 邂逅の記憶
アレクが身支度を整える横で朝食の支度をしながら、ちらりとルリィ達の様子を見る。どうやら起床後の運動中らしい。ルリィが伸縮するのを真似て、他のスライム達もうねうねと蠢く様はなかなかに異様な光景だった。アレクの口の端が引き攣っているように見えるのは、多分気のせいではないだろう。
「……あれの上に落とされたら生還出来る気がしない」
ぼそりと落とされた呟きに、思わず吹き出してしまう。
確かに攻撃的なスライムだったとしたら、上に落ちた途端に飲み込まれて溶解されることになるのだろうけれど。魔獣にも人間と同じように個性があり、温厚な性質のものもいれば獰猛なものもいるようだった。ルリィ達は多分前者だ。人を見ても攻撃して来ない。絶対的に安全かと言われればそうとも言い切れないけれど、ここ数十年分の記録を漁ってみた限りでは、蒼の森付近でスライムに襲われたという記述は見受けられなかった。きっと、森の中でひっそりと暮らしているのだろう。
スライム達を見守りながら朝食を食べ始める。アレクはさすがに抵抗があるのか、彼らが視界に入るか入らないかの微妙な位置に腰を下ろして、若干蒼くなった顔でもそもそとパンを齧っていた。
「……ルリィも本当はあの形で居るのが自然なんだろうけど」
「うん?」
「ルリィと暮らし始めた頃は、あの水溜まり型というか……いかにも粘液状の見た目が気味悪がられて」
「……だろうな」
アレクが苦笑する。
「だから、人前に出る時だけでも可愛い見た目にしたらどうかと勧めて、あの形になったの。結果は大成功。見た目って大事なんだと痛感した」
「……そうか……」
何故か遠い目をされてしまった。
けれども事実だ。可愛らしいぷるんとした水饅頭型になった途端に女性や子供に大人気だ。ルリィも満更でもなかったのか、ぷるぷる震える姿に様々なバリエーションを加えて、状況に応じて使い分けしては皆を喜ばせている。今やトリス市第三街区のちょっとしたマスコットだ。そういえば、やたらとルリィを撫で回して行った二人組も居たなとふと思い出す。
朝食を終えて片付けを始めたところへ、そのルリィがぽよぽよと結界内に戻って来た。アレクに気を遣っているのか、いつもの饅頭型だ。
「ん、お水?」
水を強請りに来たのだろうか。水魔法と火魔法を合成して微温湯を出すと、嬉しそうにつるんと飲んでしまった。もう一杯と強請られるままに与えていると、アレクが息を飲み、剣を鞘から抜き払う気配があった。
「シオリ!」
警告の声が飛ぶ。振り返ると、結界の周囲をスライム達が取り囲んでいた。ルリィが何か訴えるようにぷるんと震える。と、それに呼応するようにスライム達がルリィのような饅頭型の姿を模った。一斉にぽよぽよと飛び跳ねて見せる。
「……これは」
その妙に可愛らしくも間の抜けた様子に、アレクは気が削がれたようにゆっくりと剣を下ろした。助けを求めるかのような視線を向けられたが、自分だってこんなことは初めてだ。とりあえず分かるのは敵意は無さそうだということくらいだ。
ルリィが何か言いたげにぷるぷると震えて見せた。
「もしかして……お友達も水が欲しい……のかな」
いつものお強請りのようにも見える。訊くと、肯定するようにぷるんと震えた。
「ええー……いいのかな、あげても。餌付けにならないかな」
「……さぁ、なぁ……」
可愛らしい魔獣に安易に餌を与えた結果、人里まで降りて来て騒ぎになるような事例もあるのだから迂闊なことは出来ない。
――実際ルリィも、結果として餌付けしてしまったようなものだった。ただ幸いだったのは、「着いてきてしまった」のではなく「街まで連れて来てくれた」のだから、大きな騒ぎになることもなく、皆も怖々ながらも受け入れてくれたのだった。
あの時は餌付けという意識も無かった。発熱して思考もうまく働いていなかった。酷い体調不良で愛想笑いすらできなくなった自分を疎み、そんな具合の悪そうな顔を見せられては食事が不味くなるからと一人離れた場所に追いやられて――とは言っても逃げないように常に監視されていたのだけれど――木に背中を預けて休んでいた時だった。蒼白い森の木陰から、しゅるりと音もなく現れた瑠璃色のスライム。一口も食べられずに残していた、僅かながらに与えられたパンが気になるようだったそれに、『食べられないから、代わりに食べて』と。そう声を掛けた記憶は薄っすらと残っている。
粘液状に蠢くそれに、不思議と恐怖感は無かった。パンを地面に置くと、触手を伸ばしてつるりと飲み込み、溶解していく。
(パンだけじゃ、喉乾くよね)
スライム相手に考えるような事でもなかったが、ぼんやりとそんな事を考え、水魔法を発動して水球を作ると、それは当たり前のようにつるりと飲み込んだ。粘液状の身体がぷるんと震える。その仕草がどこか嬉しそうに見えて、久しぶりに心が癒される思いがした――。
目の前のスライム達がぷるぷると震える。何か期待するような視線を一斉に向けられている気がして、ひどく落ち着かなくなった。アレクも同じらしい。
「あげても、人の居るところまで来ないなら……」
条件を付けてみると、ルリィは了承の意を表すようにぽよんと飛び跳ねて見せた。同じようにしてスライム達もぽよぽよぷるぷるし始める。
「じゃあ、ひとり一杯ずつね」
脳内に空中に浮かぶ複数の水球をイメージする。大気中の魔素にアクセスし、魔力を通して思い描いた現象を具現化させた。空気中に水球が出現し、ふわりと地面に並ぶスライム達のもとに降りて行く。彼らはそれをひとつずつ飲み込むと、嬉しそうにぷるぷると震えて見せた。
「……俺も手伝うか」
溜息をひとつ吐くと、アレクも水魔法を発動させた。
「――水流」
水の奔流が地面を走り、小さな川となって流れて行く。スライム達はそれに群がるようにして飲み始めた。やはり、皆嬉しそうにぷるんと震える。礼でも述べているつもりなのだろうか。
仲間達が水を飲み干したのを見計らって、ルリィが促すようにシオリの足を突いた。
「――もういいの? 戻っても」
ルリィはぽよんと跳ねた。里帰りは終了らしい。途端にアレクがほっと息を吐き、シオリは思わず笑ってしまった。
「ごめんね。気疲れさせてしまったみたいで」
「いや、すまない、つい……まぁ、珍しい経験をさせてもらった」
苦笑とともに気遣う言葉が返って来る。
天幕を畳み、結界杭を抜いて全ての荷物を背嚢に収める。出立の支度をする間、ルリィは別れを惜しむように、仲間達とぽよぽよぷるぷると何事か言葉を交わしているようだった。
「――さて、じゃあ、行こうか」
全ての支度を終えてルリィに声を掛けると、ぽよんと跳ねた。群れからしゅるりと離れ、シオリとアレクの間を陣取る。色とりどりのスライム達に見送られながら、二人と一匹は出発した。いくらか離れたところで振り返ってみると、饅頭型のスライムが次々と水溜まり型に戻り、木立や茂みの中に消えて行くところが見えた。その仲間達に向かってルリィがぽよんと跳ねた。きっと、別れの挨拶なのだろう。
「……なんというか……面白い事もあるものだな。まるで人間のようだった」
仕草も、振る舞いも。アレクが興味深いと言った様子で呟いた。
「他の使い魔の主人達にも聞いてみたけど、似たような感じみたいだよ」
そもそも人と違和感なく生活できるような個体なのだ。使い魔として選ばれる個体や、それに繋がる一族は皆どこか人間じみていて、聡明で人懐こく温厚なのだという。
「お願いしたら、アレクもスライムの使い魔が持てるかもしれないよ」
「……スライムはルリィだけで十分だ」
冗談めかして言えば、真顔で返事が返って来た。何か不満でもあるのかとばかりに、ルリィが触手を伸ばして彼の足をぺしりと叩いた。
実は初期設定では、ここでアレクにもピンクスライムの使い魔が出来てしまうとんでも設定があったのですが、どう考えても収拾がつかなくなるので削った部分です。
ルリィ「なん……だと……」