08 繋ぎ止める手
領都トリスから王国西部へと向かう街道沿いのブロヴィート村。その村から程近い場所に蒼の森の入り口はあった。
純白の葉に白い樹皮の白雪樹の森。霜の降りたような細かく柔らかな毛で覆われた厚みのある純白の葉は、極寒の中でも凍結することなく瑞々しい輝きを放ち、鱗状に剥がれる独特な樹皮はやはり純白で、分厚く幹を覆っている。下生えもまた輝くような白さのこの白雪樹の広大な森は、北国の柔らかな陽光の下で独特の蒼白い陰影を落とし、それ故に蒼の森と呼ばれていた。御伽噺にでも描かれそうな幻想的な光景のその森は、王国北部の観光名所のひとつでもあった。
「ここからはどう行くんだ?」
森の中へと続く散策道は、疎らではあるがちらほらと旅行者の姿も見える。皆一様にぽよぽよと歩くスライムに驚くが、傍らの魔導士姿の女を見とめて「使い魔か」と納得するようだった。
「散策道を十五分ほど歩いた先で道を外れて森に入りま……入る、から、あとはルリィに着いて行けば目的地まで連れて行ってくれます……くれ、る、うわあああ」
「ふっ……はははっ」
「笑わないでくださっ……笑わないで!」
必死に口調を直す様が可笑しく、思わず声を上げて笑ってしまった。赤面して側向いたシオリを宥めながら口元を押さえて笑いを堪えるが、それでも止まらない。
「報酬」の前払い分として望んだのは、敬語を直す事。ザックやナディアとは親しげに話すというのに、己だけ他人行儀な口調が寂しいのだと言ってやれば、困惑と羞恥が綯い交ぜになったような顔をされた。だが、慣れないながらも努力して直そうとしてくれるのは嬉しい。
「すまない、つい可愛くてな」
「か、かわっ……そんな簡単に女性に可愛いだなんて、アレクさんて結構軟派なんだね。もっと硬派な人かと思ってまし……思ってた」
「簡単に言ったりもしないがな……と、そうだ。シオリ」
「う……ん?」
こちらを見上げる彼女の未だ赤みの残る顔を目を細めて見返しながら、アレクは笑った。これから言う事できっと彼女はまた慌てふためくのだろうと思いながら。
「敬称も無しだ。呼び捨てにしろ」
「は……えええっ」
思った通りに大いに挙動不審になった。片手を頬に押し当てて見たり、落ち着かなく黒髪を弄ってみたり。感情の振り幅が小さい女だとは思っていたが、案外そうでもないのかもしれない。やはり、心の内の壁の所為なのだろうか。慣れぬ異国の地で要らぬ波風を立てぬように、感情の発露を抑え込んでいたのかもしれないと思えば胸が痛む思いがしたが、それは表面には出さなかった。
「さあ。呼んでみてくれ。名前」
「う……」
促すと、戸惑うようにその視線が泳いだ。
「……あ、アレ、ク」
囁くような声だったが、確かに呼んでくれた。
「もう一度」
「アレク」
乞えば次ははっきりと。
口調と呼び方を変える、そんな些細な事ではあったが、また距離が縮められたような、そんな気がした。じんわりと心が温まるような感覚。
「――確かに前払い分は受け取った。これからもそのままの口調で頼む」
再び赤みの増したその顔を見て、アレクは笑った。
――そうして、もっと心の内を晒して、様々な表情を見せてくれればいい。
少し先を行くルリィが、ある場所で立ち止まった。ぽよんぽよんと跳ねて見せる。ここから散策道を外れ、森の中へと分け入っていくのだろう。散策道は旅行者用に魔獣除けの結界が施されていたが、道を外れた先はそれも効かない場所だ。よほど奥へと入らない限りはそれほど危険な魔獣は居ない森だが、時折人里近くまで降りて来る魔獣には厄介なものも多い。用心に越したことは無い。
周囲に異常な気配が無いか気を配りながら、ルリィの後ろに着いて進む。隣を歩くシオリもまた、探索魔法で警戒しているようだった。
「疲れないか?」
「この位なら、平気」
「そうか。無理はするなよ」
「……うん。ありがとう」
大分慣れて来たのか言葉が滑らかになった。良い傾向だ。
三十分も歩いただろうか。ルリィがやや興奮気味に歩調を速めた。
「……迎えが来てる」
「迎え?」
探索魔法で己よりも先を感知出来るシオリが呟く。瞬間、ルリィが饅頭型から水溜まりのような形に変化した。そのまま速度を上げ、滑らかに這うように進んでいく。それに合わせてこちらも小走りになった。
向かう先に複数の気配。魔法剣の柄に手を掛けるが、すぐにシオリの静止が入った。
「多分ルリィの仲間達だと思うから、向こうの姿を確かめるまで攻撃の意思は見せないで」
「……なるほど。わかった」
道無き道の先の茂みに、ルリィはしゅるりと吸い込まれるように姿を消した。その後を追って茂みに分け入る。
「こ……れは……」
視線の先に広がる光景に絶句した。
青、緑、桃、黄、橙、水色――蒼白い木々の開けた場所に集う、色とりどりのスライム。その中に瑠璃色のスライムが飛び込んで行く。白いパレットの上に様々な色の絵の具をぶちまけたような、些か目に痛い光景だ。
「凄いな。大丈夫なのか、こんなに沢山」
何が、とは言わなかったがシオリは察したようだった。
「大丈夫だと思う……多分。前に来た時も攻撃はされなかったし、調べてみたけど森の中や里に出て人や家畜を襲ったとかそういう話は出てこなかったから。幾つか目撃情報があるくらいだった」
「……なるほど」
「ルリィの仲間だけあって温厚なんじゃないかな。嫌な感じはしないもの」
「そう……だな」
ぷるぷるぽよぽよと楽しげにスライムの群れの中を這いまわるルリィを見ながら、なんとも言えない気分になってアレクは口を噤んだ。よく見ると、ルリィと同じような瑠璃色のスライムの姿もちらほらと散見される。家族……だろうか。分裂して増えるスライムに家族という概念があるのかはよく分からなかったが。そもそも、基本的に単体で行動すると言われているスライムがここまで群れているということ自体が信じ難い。自分が思う以上に己の持つ常識だけでは量れない事も多いのだという事を、シオリやルリィと出逢った事で何度も思い知らされた。
「……ところでこれはいつまで続くんだ?」
しばらく黙って眺めていたが、ふと気付いて疑問を口にする。
「多分一晩……だから、今日はここに泊まりになるけれど」
「そ……そうか」
スライムの群れの中でかと思わないでもなかったが、それは口にはしないでおいた。
ともかく、日没まではまだ大分間があるが、そういうことならば今から設営を始めても問題はないだろう。シオリは既に荷を解いて支度を始めていた。一度ちらりと遊びに興じているスライム達に視線をやってから、自分も荷解きして結界杭を取り出した。
比較的平らかな森の地面は野営地には丁度良く、柔らかい下生えの白銀草の上に防水布と毛皮を敷けば、それだけで座り心地の良いクッションとなった。周囲への警戒は怠らなかったが、それでも腰を下ろしてシオリの淹れた温かい薬草茶と軽食で一息つく。
ルリィは時折水を強請りに来る以外は仲間達と共に過ごしていた。仲間のスライム達も興味を引かれた様子でこちらに近寄ってくることもあったが、結界内に踏み込んで来るようなことはなかった。入れないのか入らないのかはよく分からなかったが、温厚なのだということは理解出来た。
シオリは飲みかけのカップを手にしたまま、ぼんやりとルリィ達を眺めていたが、その目は目前の光景ではなく、ここではないどこか遠くを見つめているように酷く虚ろだ。
――遠くの、故郷を思い出してでもいるのだろうか。
「……故郷に帰りたいか?」
「……え?」
途端に虚ろな瞳に色が戻り、視線がこちらに向けられる。シオリは口を僅かに開けて何か言おうとしたようだった。だが結局返答は無く、ややあってから代わりに問い返してきた。
「アレクの故郷はどこ? この辺?」
「……俺は生まれも育ちもトリスだ。母子家庭で九つの時に母を亡くしてしばらく孤児院に預けられた後は、成人するまで王都の父の家で世話になって――後はまぁ、ずっとトリスに居るな」
「……そっか」
ルリィもアレクも近くでいいね、そう呟く声が聞こえた。
「――遠いか、故郷は」
問うと、濃い色の瞳が不思議な色に揺れた。
「遠いね。もう二度と手が届かない場所にあるよ。だから、もう帰れない」
凪いだ顔の、その瞳だけが酷く悲し気で。
「東方の出身なんだろう。いつか一緒に行ってみるか」
咄嗟に言葉が口をついて出る。
保護された当時、彼女の出身国は地図上には見つからなかったと聞いた。だが彼女は自らを東方人と称していた。確かにその顔立ちは東方系のそれだ。あくまで地図上で見つからないだけで、探せばどこかにあるのではないかと、そう思った。
シオリは口を僅かに開けて何か言おうとしたようだった。だが言葉は出ず、ややあってから、諦めたような笑みを浮かべた。
「……行ける場所には無いからいいよ。せっかく誘ってくれたのに、ごめんね」
ごめんね、などと先に謝られてしまえばそれ以上この話題を続けることなど出来なかった。柔らかな拒絶。す、と見えない場所で静かに扉が閉じられたような気がした。
(――やはり、容易ではないか)
彼女の素性については分からない事が多いという。ザックの事だ、恐らく入念に調査したことだろうが、結局何一つ得られるものは無かったようだった。シオリ自身はあまり語りたがらないが、時折感じさせる儚さの根源はこの故郷に関わることなのだろうということは容易に推察出来る。
帰れない。帰る場所が無い。無いと分かっている。
亡国なのだろうか。だとすれば追及するのはあまりにも酷だ。だが。
(二度と手が届かない、行ける場所には無い、か)
どこか謎掛けのような彼女の言葉には諦念が滲んでいた。居場所を求めているのは帰る場所が無いからだ。なら、手が届くのだとしたら? 行ける場所にあるのだとしたら、彼女は帰ってしまうのだろうか。
自分を――置いて?
その想像に胸が刺されるような痛みを覚える。
(それは嫌だ。置いて行くな。ここに居ろ。側に、)
ずっと側に居て欲しい。
帰れないと嘆く女に言えるような台詞では到底無かったが、そんな身勝手な思いを抱き、そして――気付いてしまった。シオリの居場所になりたい、傷を癒したいなどと彼女の為であるような事を言いながら、本音ではただ自身が彼女の側に在りたいが為にしているだけなのだと、そんな己の浅ましさに気付かされてしまった。
(馬鹿だな、俺は)
これでは何も変わらないではないか。かつて自身を傷付けていったあの者達と、何も。
『わたくしが側に居りますわ』
優しい言葉を掛けて、さも己の為であるかのように振る舞って、その本心は益があるから側に居ただけに過ぎないあの女と、何一つ変わらないではないか。
「――嫌だな。なんでアレクの方が泣きそうな顔をしてるの」
苦笑いを浮かべて頬に触れてくるシオリの手が、温かい。
「……俺と違って優しいな、お前は」
「そんなことないよ。アレクは優しい」
違う。これは優しさではない。ただの利己的な――
頬に触れていた手がそのまま首筋を通り過ぎて後頭部に添えられた。そのままそっと引き寄せられる。まるで幼子のように優しく胸元に抱き込まれ、宥めるように頭を撫でられた。
「――アレクは私に自分を卑下するなと言ったけれど、貴方こそ自分を卑下しないでよ」
栗毛を梳くように撫でていく指先が優しい。
「アレクが手を握ってくれるから、私は此処に存在してると感じられる。曖昧な存在の私を繋ぎ止めてくれる手を持っている貴方は、優しいよ」
ゆるゆると遠慮がちに両腕を彼女の背に回した。彼女の体温を感じる。温かい。曖昧な存在だと言う彼女は、今確かに此処に居る。側に、居る。
「……繋ぎ止めても、いいのか。俺が」
もう、繋ぎ止められている。
そんな囁きが聞こえたような気がしたのは――己の願望の所為ではないと、思いたかった。
なんだか難産な話でした。




