07 「依頼」と「報酬」
翌朝は空腹を覚えた腹をくすぐる良い匂いで目が覚めた。身体を起こして伸びをする。身体の調子はいい。程良く空気調節された中での睡眠はよく疲れも取れる。焚火と厚着、毛布の重ね着で過ごすのとは訳が違った。やはりシオリの「空調魔法」は効果が違う。あの足湯とやらも良かった。
毛布を畳んで背嚢にしまい、軽く身支度を整えて天幕を出ると、早速ルリィが近寄って来た。しゅるりと触手を伸ばして挨拶する。
「おはよう、ルリィ」
挨拶を返せば、ぽよんと一度跳ねてから主人の元へと戻って行った。なんとも礼儀正しいスライムも居たものだ。使い魔の性質は主人に似るのだろうか。
「おはようございます」
「おはよう、シオリ」
シオリは調理の手を休めると、傍らの小さな盥に水を満たして差し出してきた。洗顔用の水だ。よく見れば微かに湯気が上がっている。どうやら微温湯のようだ。些細な事ではあるが、この細やかな気遣いが嬉しい。
「ありがとう」
盥とタオルを受け取りながら、そっと彼女の顔を見る。昨晩見た空虚な表情は鳴りを潜め、そこにはいつもと変わらぬ微笑があった。
(――壁の中に隠して、笑うんだな)
つきりと微かに胸が痛んだ。
無意識に手が動いた。空いた方の手で黒髪を撫でる。シオリは驚いたようだった。
「なんですか? 急に」
「……いや、なんとなく。撫でたくなった」
「なんですか、それ」
苦笑いが返って来るが、その手はやはり払い除けられることはなかった。
温かい朝食で腹を満たした後は、シオリが朝食の後片付けをしている間に出発の支度を整える。天幕を解体して纏め、結界杭を抜き取って背嚢にしまい込む。結界を解くと途端に冷気が野営地に流れ込み、思わずアレクは身を縮めた。
「本当はあまり寒暖差があると身体には良くないらしいんですけどね」
とシオリは言うが、寒さで十分な休息を取れない方が身体に悪いのではないかとも思う。快適に休めるのなら、結界解放時の寒暖差くらい大した問題ではない。
「お前の居る環境に慣れてしまうと、元の野営生活には戻れない気がするな」
冬期間の野営の厳しさも、シオリが居るだけであれだけ快適なものになるのだから。当然のことながら、出来れば身内に引き込みたいと思うパーティは少なくないらしい。実際に声が掛かることもあるのだという。しかし、シオリは頑として首を縦には振らなかった。やはり、あの事件が傷になっているのだろう。皆もそれが分かっているからこそ、あまり強く誘う事も出来ないのだという。パーティへの参加は要請があった時か組合からの指示がある場合のみだ。
「……評価して頂けるのは嬉しいですが、それはそれで困りますね。家政魔導士を増やしてもらいましょうか」
「増やしたところでお前ほど質の良い仕事をする者もそうは居ないと思うがな」
「……恐縮です」
己の感じた事を正直に口にすれば、シオリは嬉しさと戸惑いを綯い交ぜにしたような顔になった。
道中はぽつぽつと取り留めも無い会話をしながら歩いた。
大きな街道沿いは結界杭と同じ技術を用いて魔獣除けが施されているため、小型、もしくは一部の中型魔獣ならば寄り付くことはない。旅人や荷馬車も比較的安全に通行出来る。どのみち魔獣の方も街道や街のような人の多く集まる場所にはあまり寄り付かない。種類にもよるが、人間と魔獣、ある程度の住み分けは出来ている。魔獣にそれほど注意を払わずに居られるのは気も楽だった。
空を見上げると、この時期には珍しく良く晴れ渡っていた。夏程の濃さは無いが、淡い水色の空が優しい。この天候なら昼前には目的地に着くだろう。蒼の森は目前だ。
「……そういえば、他の依頼はどうなさいますか? 一緒に幾つか受けて来られたんでしょう」
「それはルリィの用事が済んでからにするつもりだ」
何気なく答えたつもりだったが、一瞬沈黙したシオリが次の瞬間何故かふわりと笑った。その笑顔にどきりとする。重症かもしれない。
「……なんだ?」
「いえ、私の用事、ではなく、ルリィの用事と言ってくれたのが嬉しかったので」
足元でルリィがぽよんと弾む。
ルリィを個人として認めてくれたようで嬉しいのだと彼女は言った。使い魔という、あくまで主人の付属物としてしか見られないことが多く、それがもどかしかったのだという。
「……本当は使い魔契約もしていないんです。魔獣を放し飼いにしていると思われては困りますので表向きには使い魔で通していますが」
なるほど、とアレクは頷いた。
「道理でな。従属的ではないなとは思っていたが、そういうことか」
大抵は強い個体や希少種を使い魔として選ぶ為に、他者に奪われることのないよう予防線の意味でも契約を結ぶのが一般的だが、主従関係を嫌って無契約で傍に置く事例も無いわけではないらしい。
「ルリィは命の恩人で、何もしなくても一緒に居てくれる大切な友人です。友人に従属関係を強いるようなことはしたくありませんから」
「……お前らしい理由だな」
あくまでも、対等の友人として側に在りたいと。
「友人、か……」
仲の良い友人のような弟、兄のような年上の友人。それぞれの顔を脳裏に描き、それからふと思う。聞いてみたい。聞いたら、答えてくれるだろうか。
「ルリィを友人というなら――俺はどうだ。お前にとって俺はどんな存在だ?」
「え?」
知りたいという衝動を抑えられなくなり咄嗟に口をついて出た言葉にシオリは目を丸くした。
「どんな……って」
口を開きかけてはまた閉じてを繰り返して、言いあぐねる様子だった。親しくなったとは言え、知り合ってから二月を僅かに越えるばかりだ。答え辛い問いだったかもしれない。
「俺は」
答え辛いならば、己から先に口にする。
「俺は、お前を掛け替えのない仲間だと思っている」
仲間。いつかはそれ以上の存在になりたかったが、今はそれで十分だった。
ただ、掛け替えのない――その言葉ひとつに全ての想いを込めて。
他に代わるものが居ない、この上もなく大切な存在だと。
「俺は、俺達はお前を仲間だと思っている。だから、もっと頼って欲しい。ザックも寂しがってたぞ。全然頼ってくれないってな」
シオリは瞠目した。微かな喜色が浮かんだようにも見えたが、口元に不自然な微笑を刻んだままゆるゆると視線を俯ける。
「……頼り方がわかりません。忘れてしまいました」
今度は己が瞠目する番だった。
「わからない……って、お前」
「……アレクさんは、私が兄さんに保護された経緯については御存知ですか」
「ある程度は」
何かを語るつもりになったのだろうか。核心に触れられるだろうか。
「最初の頃は何もかもがわからない状態で、どうしても私を一番最初に保護してくれた兄さんに頼ってばかりでした。あの通りとても親切な人ですし、兄さんと親しかったクレメンスさんやナディア姐さんも、色々と気遣ってくれて、それでどうにか生活の基盤を整えることが出来ました。でも」
言葉の端が、微かに震えたような気がした。足元のルリィが主人の心の揺らぎを察したのか、気遣うような気配になる。
「それを良く思わない人達も居ました。いい大人が人に頼り過ぎだと、お前の国ではそれで良かったかもしれないが、この国ではそれは許されないと、もっと自立すべきだとそう忠告されました。私もその通りだと思いました。いくら不安でも、もう三十近い歳の女が誰かに依存している姿は見苦しかったかと、そう思いました」
だから自立した生活が出来るように更に努力を重ねたのだと。
「でも、大分生活に慣れて来てから気付いた事ですが、考えてみればあれは忠告というよりは、嫉妬から来る嫌味だったのですね。兄さんもクレメンスさんも上級冒険者で――あの通り素敵な人達ですから、突然来た異国人の女が側に居る事が気に入らなかったのでしょう。移民生活に失敗して困ったから、遭難者を装って兄さんに近付いたんじゃないかと、そういう邪推をされたこともあります」
淡々と語るその声は酷く平坦だ。
「それに、この国の慣習もまだ分からない事が多く、誰かに指摘されれば従わざるを得ませんでした。私に――言う事を聞かせたかった人達にとって、それはとても都合が良いことだったと思います。婚約者でもない男性を頼るのははしたない淫売婦のする事だと言われて、頼るのをやめました。ランクが上の人達と親しくするのは媚びているように見えるからやめろとも言われてそうしました。皆に疎まれてここに居辛くなるのは帰る場所が無い私にとってとても怖ろしい事でしたから、嫌われたくない一心で全て言いなりになってしまいました」
言う事を聞かせたかった人達。それが誰を示すのかを察して歯噛みした。
――つけ込まれたのか。親しい者達から引き離して言いなりにするために、行き場の無い女の恐怖心を煽ったのか。
「ルリィに助けられて戻って来てからも、面倒を抱え込んだと思われているのではないかとそればかりが気掛かりでした。兄さん達はとても気遣ってくれましたが、優しいから仕方なくそうしてくれているのだと思っていました。今はそうではないと分かっていますが、それでも――ふとした拍子に思ってしまうんです。ひょっとしたら、やっぱり、いくら辛くても助けを求めるのは恥ずべき事なのではないかと。皆さんも立派な大人ですから表面には出さないだけで、内心は疎んでいるのではないかと……そう思ったら、どうしても自分から言い出せなくなりました。そうこうしているうちに、頼るということがどういう事なのか、よくわからなくなってしまいました」
シオリは自嘲気味に笑った。
「私を自立心のある人間だと好意的に解釈して下さる方も多いですが、本当は嫌われたくないからそう見せかけているだけです。こうして話している事自体、既にアレクさんに媚びているのだと思います。人とどう接するのが正解なのか、もうよく分からなくなってしまいました」
ですから、と彼女は言葉を継いだ。
「アレクさんに掛け替えのないと言って貰えるような、そんな人間では、」
淡々と続けられる彼女の言葉を、最後まで言わせなかった。忠告という名を借りた悪意で心の内を吐露する事を封じられた女があまりにも痛々しかった。その悪意の呪縛は未だに彼女を苛んでいる。
強く引き寄せ、腕の中に掻き抱く。街道を往く人々から揶揄するような口笛と歓声が上がるが、それらは全て無視した。
「ザックもクレメンスも、ナディアも、お前の頑張りを知っていた。どれだけ努力してきたのかを知っていた。あいつらは媚びて取り入ろうとするような人間は簡単に見抜く。あいつらに認められているお前は大丈夫だ。B級という立場もお前が認められたからこそだ。仕事でお前に助けられた者は沢山居る。お前に――心を救われた人間だって居るんだ。だから、そう自分を卑下してくれるな」
己に比べて随分と小さく華奢な背を、宥めるように優しく撫でる。
「……でも、どうしたらいいかわかりません」
しばらくの沈黙の後に小さく吐き出された言葉は相変わらず淡々としていた。だが、どこか弱々しい。
己は救われた。癒し切れたわけではない。だが、擦り切れて膿んだ心が癒されるような、そんな心持ちになったのは確かだった。
だから。
「それは、少しずつ思い出して行こう。俺が付き合ってやる。いや、付き合わせてくれ」
突然抱き締められた事で硬直していたシオリの身体が弛緩した。腕の中で身動ぎする。
「――お願いしても、いいんでしょうか」
遠慮がちに発せられた言葉。
心の内の、薄氷の壁に、小さな罅を入れられたか。
「ああ」
安心させるようにその背を撫でながら、アレクは笑って見せた。
「その依頼、承った」
腕の中のシオリが顔を上げて目を見開いた。ややあって、小さく吹き出す。
「報酬はどうしましょう」
「報酬か」
少しばかり愉快になって笑った。
「俺が決めていいのなら、そうだな。半分は前払いで頂こうか。後の半分は――依頼が完了してから伝えよう」
「完了してからというのはちょっと怖いですね。何を求められるんでしょう」
――お前が欲しい、というのは報酬として貰い受けるには高過ぎるかもしれないが。それは依頼を進めて行く中で信頼を勝ち得て報酬額をじっくりと吊り上げて行けばいい。
「じゃあ、前払いは?」
「前払い分は、」
希望する「前払い分の報酬」を伝えると、彼女の目が一層大きく見開かれた。次いで戸惑うように徐々に赤らんでいく顔を見て、アレクは満足気に笑った。
ルリィ「往来のど真ん中」
次回で蒼の森に入ります。ぽよぽよのぷるぷるです。




