06 託された想い
間近に感じる炎と魔法で調整された空気が、結界内を穏やかに温めてくれる。地面から這い上がる冷気も雪熊の天幕と中に敷いた毛皮で遮断され、心地良い暖かさを保っていた。
ぱちり。焚火が火の粉を上げて爆ぜた。舞い上がった火の粉は冷え、夜空に溶けて消える。見張りを務める中、何とはなしにそれを目で追っていたアレクはやがて視線を外し、背後の垂れ幕を捲り上げて、天幕の中で眠るシオリとルリィを見た。
ルリィは相変わらず水溜まりのように弛緩して眠っている。寒くはないのだろうかと思って触ってみたが、意外にも温かかった。シオリの推測では、排泄している様子は無いから摂取した栄養の大半は燃焼させて熱に変えているのではないかという事だった。残念ながら、燃焼だの熱に変化だのと難しい事を並べる彼女の言葉の半分も理解は出来なかったのだが。
そのシオリはといえば、ルリィに寄り添うようにして毛布に包まり眠っていた。膝を胸に引き寄せ身体を丸めて眠る姿は、何かから身を守ろうとでもするかのようだった。
まるで母の胎内で護られる胎児のような、殻に閉じ籠る雛のような姿――。
殻。
薄い、壁。
随分と親しくなったとは言え、ふとした瞬間に彼女との間に何かが挟まったような感覚を覚えることがある。手の届く場所に居ながら、ある一線から先に踏み込むことを拒むような薄い壁だ。
『――少しだけ嫌な事を思い出しました。でも、大丈夫です』
表面的にはいつもと変わらぬ様子を装ってはいたが、あの瞬間から明らかに様子が変わった。シオリ特有の微かに笑むような表情が抜け落ち、無表情で空虚な色の浮かんだ顔。
あんな表情をして、それで大丈夫などということはないだろうに。
薄い壁の内側に、その本心を隠してしまった。明らかに傷になっているだろう何かを押し込んでしまった。それは心の柔らかい場所に付いた傷を護る為か、それともこれ以上傷付かないようにする為か。或いはその両方か。
差し伸べた手を取ることはあっても、肝心なところでそれ以上踏み込むことを許してはくれないのだ。弱みを見せたくないというのはわかる。それは自分にも言えることだからだ。
だが、あれはあまりにも――。
『頼らない?』
軽く炙られた燻製肉をつつきながらホットワインを傾けていたアレクは、ザックの言葉を鸚鵡返しにした。彼は難しい顔でエールを啜り、それから溜息を吐いて見せた。
シオリの護衛依頼を受けた夜、『遅くはならねぇから夕飯に付き合え』と連れて来られた居酒屋の個室。喧噪の飛び交うようなそれとは違い、静かに会話と料理を楽しむような店だ。意外にもザックはこういった趣の店を好む。
『どれだけ親しくなろうが、シオリは絶対に頼ってこねぇ。仕事で必要な場合は別だがな、個人的な事では絶対に頼ってくれねぇんだ』
保護された当初はさすがに心細かったのか、そうでもなかったらしいのだが。
『今回みてぇな護衛依頼もな、わざわざ組合に依頼出さねぇでも、俺達に頼んでくれりゃあ都合付けて幾らでも着いて行ってやるってのにな。クレメンスやナディアだって居るし、今はお前も居るんだ。他にも親しくしてる奴は沢山居る。遠慮するような仲でもねぇだろうに』
ある時期からより顕著になったのだという。人を頼らなくなった。【暁】の事件からだ。
『――何か切っ掛けがあったのは間違いねぇんだが、本人があの頃の事は記憶が曖昧でよく覚えてねぇと言い張ってな。俺達は俺達で、あいつの異変に気付いてやれなかった』
ぽつぽつと語るザックの蒼い瞳が昏く陰る。
『あの頃俺達は意図的にあいつと遠ざけられていた。親しい連中はなるべく接触しねぇように巧妙に依頼のタイミングを調整されてたんだ。だから気付いた時にはもうほとんど手遅れだった。あのタイミングで連中が帝国貴族の個人依頼を受けたのも偶然じゃなかったんだ。証拠を集めて、あいつが軟禁されてる場所を特定する間に……連れ出されて……』
『……ほとんど計画的だったということか』
『ああ。そのあたりは部外秘になってる。対外的にはパーティ内のトラブルって扱いになってんだ。信用問題に関わるからと、当時の組合マスターが絡んだ「事件」だってことは伏せられてる。どのみち行先の迷宮で実際に何があってああいう結果になったのか、目撃者が居ねぇ以上どうにもならなかった。シオリも意識がほとんど無くて覚えてないときてる。お蔭で連中は未だに放し飼いだ』
赤毛を強く掻き毟って俯いてしまったザックから感じるのは強い悔恨の念。S級でありながら、事態に気付かなかった己の失態を今でも責めているのだろう。
気付かなかった。護れなかった――死なせかけた。
『――だから俺はあいつに、愛していると言えなくなった』
唐突な告白に思わず目を見開く。俯いたままの彼の表情は見えない。
『あんた、それは、』
『……ああ、そうだ』
緩やかに上げられた顔の、その口の端に自嘲気味な笑みが浮かべられる。
『手放したくねぇのは俺の方だと以前お前に指摘されたが……あれは図星だ。逆境にもめげねぇで頑張る奴ってのは嫌いじゃねぇんだ。必死に頑張って居場所を作ろうとしていたあいつを見てるうちに、いつしか――』
長い溜息が落とされる。
『だが、護れなかった俺にあいつを手に入れる資格なんてねぇよ。精々があいつの兄貴になって、妹っていう立場を与えてやるくらいしか出来なかった。だから、なぁ、アレク』
こちらを見る蒼い瞳が優しい色を湛えた。
『女嫌いだと思ってたお前があいつに興味を示した時、驚きはしたが内心は嬉しかった。お前はあいつとどこか似てるからな。傷付いた相手をどう扱うべきかは、お前自身がよくわかってるはずだ。傷の舐め合いは困るが、お前ならきっと――』
――ザックから託された想いは確かに受け取った。
緩く握られたシオリの手に触れる。水仕事で荒れた働き者の手。そして自分の擦り切れた心を温めてくれた優しい手。こんな優しい手の持ち主が、寂しい殻の中に閉じ籠っていて良い訳がない。
己の手よりもひとまわり小さな手の、その指の中に自分の指を滑り込ませて強く握った。その先の手首に淡い金の腕輪が光る。紫紺の石が嵌め込まれた腕輪。
(ずっと、着けてくれているんだな)
一方的に贈りつけたようなものだったが、厭わずにこうして着けてくれている。壁の中に籠っているように見えても、己との繋がりを拒絶しているわけでは無いのだと知れた。
本当は壁の内から出たがっているのだ。そうでなければ居場所が欲しいなどと、そんな言葉を口にするはずがない。薄氷のように僅かに透けて見える壁の向こうで、もがく様が見えるような気がして酷く心が痛んだ。
「――急ぎはしない。無理にこじ開けたりもしない」
急いて傷を増やしたくはない。
「だが、お前が俺の心を温かく満たしてくれたように、俺もまたお前を満たしたいんだ」
ゆっくりと満たして、温めれば、いずれ。
手を握り締めたまま、眠る彼女の唇にそっと口付けを落とした。
――薄氷の壁が溶けよとばかりに、熱を込めて。
ルリィ「空気が読めるスライムなので寝たふりをしているかもしれない」




