05 冷えた記憶
予備の薬品や裁縫道具、念の為の着替えに食料や調理器具、寝具、リネン類等の野営用の荷物を詰めた背嚢を背負い、腰元に付けた大小のポーチの中身をもう一度確かめてから、足元のルリィに視線を落とした。昨日の晩からそわそわとしていたけれど、今朝は興奮状態でずっとぷるぷるぽよぽよと動き回っている。
「落ち着いて。故郷は逃げないから」
声を掛ければ、ぷるんぷるんと普段の五割増しくらいの勢いで震えた。余程嬉しいらしい。
「うーん、そんなに嬉しいのなら、もっと回数増やした方がいいのかな」
半年で一度の頻度で行われるルリィの里帰り。これで二回目だけれども、もう少し行ってあげてもいいのかもしれない。距離もそれほど遠くはないのだ。
最近、ルリィに里帰りのおねだりをされた。言葉を話すわけではないけれども、その仕草でそうなのだと知れた。窓からじっと故郷のある方角を眺めたり、トリス周辺の地図を熱心に見入ってみたり。
それでも自分に気を遣ってくれているのは分かる。こちらが気が進まないのなら、多分一人で帰省するつもりなのだということも。でも、黙って行ってしまうような事はしない。それもまたこの不思議な友人の気遣いだ。
――ルリィの故郷は、あの忌まわしい事件に纏わる場所に程近い。
けれどもルリィは大切な友人、命の恩人だ。付き添うべきだと思うから。
(……帰省途中で、うっかり他所の冒険者に討伐されても嫌だし……)
稀ではあるが、別行動中に使い魔がそれと知らない冒険者や騎士隊に殺されることもあるらしい。使い魔として選ばれるのは比較的珍しい種が多いから、経験値や素材目当てに狙われるという話もある。
(スライムだから珍しくはないけど、心配だしね)
可愛い友人の為なら多少の我慢は出来る。
「じゃあ、行こうか」
ルリィは楽しげにぽよよんと跳ねた。
階下に降りると旅装姿のアレクが待ち構えていた。前回はザックだったが、今回の護衛依頼を受託してくれたのは彼だ。待つ間にラーシュと談笑していたらしい。こちらの気配に気付くと顔を綻ばせた。ラーシュはどことなく微笑ましいといった様子で彼と自分を見比べている。
「すみません、お願いしたのはこちらなのにお待たせしてしまって」
「いや、構わんよ。約束の時間にはまだ早いしな。もう出るか?」
「はい。よろしくお願いします」
旅の無事を願う祈祷句を唱えて見送るラーシュに手を振り、出発する。
行先は蒼の森。西門から続く街道沿い、徒歩で二日程の場所にあった。
冬期間は出来るなら宿に泊まりたいとは思うものの、時期的に難しい。街道周辺には勿論村や宿場町もあるが、旅行者や巡礼者の多い時期とあって宿が取れない可能性があった。そもそも領都のような大きい街と違って使い魔連れ込み可の宿はあまり無い。当然野宿になる。
こういう時は故郷の予約システムが懐かしく感じる。この世界で予約が出来るのは、先触れを出せるような上流階級の者くらいだ。
「今夜は宿が取れると良いですね」
「まぁ、難しいだろうな」
アレクの見立ても同じだった。前後を見ても街道を行く者や通り過ぎる馬車の数は普段よりも多い。生誕祭の近い時期、その大半は、美しく飾り立てられるトリスの街並みや大聖堂を目当てに集まる観光客だ。
「だが、お前が居れば問題無いな。お前には手間かもしれないが」
そう言ってアレクは笑った。
「いえ、それが私の仕事ですから」
こういう時こそ家政魔導士の技能が役に立つ。使用出来る魔法の幅が増えた今では様々な依頼に駆り出される事が増えたが、野営地でも快適に過ごせる環境を提供するのが本来の仕事だ。冷え込みの厳しい季節は特に重宝がられる技能。
夏以上に仕事が増えるのが、気温が氷点下を下回る冬期間だ。試験的に短期間の雪中行軍に参加し問題無しと認められたことで、C級に昇級した昨年から冬期間の高難易度依頼への参加が要請されるようになった。些細な準備不足や急な天候不順が死に繋がる事も多く、十分な休養の取り辛い冬期間の野営は、既にシオリの参加が必要不可欠となりつつあった。責任重大だ。
今年も頑張ろうと気合を入れつつ隣を歩く一人と一匹に視線を向ける。ぽよんぽよんと踊るように跳ね回りながら歩くルリィを、アレクは愉快そうに笑いながら眺めていた。
初日の夜は予想通り、どの宿も満室だった。部屋を取り損ねた旅行者達は諦めて野宿を決め、既に空き地や外の平原などに野営地の設営を始めていた。其処此処で暖かい焚火が灯っている。設営場所を物色して歩き回る中で、珍しい東方人の女と見てシオリに色目を使う男達に辟易したらしいアレクの提案で、敢えて村から小一時間ほど離れた森の縁に野営地を定めることになった。
「ルリィの逆鱗に触れて連中を丸呑みにでもされたらかなわん」
というのは彼の弁だ。
(骨まで溶かすし闇討ちにすれば完全犯罪が成立するよね!)
などと物騒な事を考えるくらいには自身も十分に腹を立てていたシオリだったが、周囲に魔獣除けの結界杭を打ち込みながら何やら不機嫌な様子のアレクに、申し訳ない気持ちになる。
「……すみません……」
本当ならば買出しや緊急時の対応が容易な村近くに設営した方が遥かに良かったのだけれど。
「ああいや、お前のせいじゃないから気にするな。悪いのは連中の方だ」
下手な野獣よりあの連中の方が余程質が悪い、そう言い添えて彼は苦笑する。
アレクの気遣いを有難く思いながら、合成魔法で作った暖かい空気を結界内に満たした。しばらくすればまた冷えてくるから何度か掛け直さなければならないけれど、冬の野営地で暖かく過ごす為ならばこのくらいの手間は惜しまない。
それにしても、この魔獣除け結界は便利だ。神殿等の宗教施設で入手できる結界杭は、聖魔導士らが長年の研究を重ねて作り出したものだという。この杭で囲んだ内側が、邪なものから護る結界となる。マンティコアやドラゴンといった大型で危険度の高い魔獣にはほとんど効果は無いらしいが、野営地で魔獣除けとして使うには十分な機能を持つことから、野宿の多い冒険者や旅行者、そして騎士隊などで愛用されていた。
ちなみに結界の内側は、外側とは異なる聖魔素なるものが発生している。二つの魔素は混じり合う事はなく、その為に境界面には「魔力の壁」のようなものが出来ている。これを利用すれば、結界内だけに作用する魔法を展開することが可能だった。独自魔法である空調魔法を展開するには最適な空間だ。
結界内に暖かい空気が流れているのを確かめてから、荷を解いて小型天幕を二つ取り出した。軽くて丈夫、しかも保温性抜群の雪熊の皮で出来た冬特化型の天幕だ。一つは就寝用。こちらはザックのお下がりだ。もう一つは同素材で床面を省いた構造の風呂用天幕。特注品で中々の出費だったが、快適な入浴の為には欠かせないと奮発した一品だ。
「今日のお風呂はどうします?」
「いや、今日はいい。それほど汗もかいていないしな」
「そうですね……じゃあ、足湯にしてみましょうか」
「足湯?」
昨年の行軍で大好評だった足湯を提案してみると、意外に珍しい物好きらしい彼は案の定食らいついて来た。
「膝下だけお湯に浸ける温浴法です。服を脱ぐ必要もありませんし、十分も浸けていれば全身温まりますよ。身体を清めることは出来ませんが、温まりたいだけならお勧めです」
「面白そうだな。なら、その足湯とやらを頼む」
「わかりました」
アレクが就寝用の天幕を張る間に、足湯の支度をする。足湯用とは言え、あまりに小さ過ぎては直ぐに湯温が下がってしまうから、そこそこの広さは必要だ。とは言え深さも膝下が浸かる程度で十分とあって、支度が楽なのは良い。
土魔法を展開して地面を細長い湯船の形に整形する。そこに普段よりも熱めの湯を張れば準備はもう完了だ。腰が冷えないよう、座る場所に保温素材の毛皮を敷いた。
天幕の設置を終えて興味深く見ていたアレクにタオルを手渡すと、いそいそとブーツと靴下を脱いで裾を捲り上げ、足先を湯に浸した。なにやらその様子が可愛らしく見えて、口元を隠した手の下でこっそりと吹き出す。
深く息を吐き目を閉じて湯の温かさを堪能していた彼は、やがて嘆息と共に呟いた。
「これは……いいな」
心地良さに緩んだ表情は、なんだか幸せそうだ。良かった。気に入って貰えたようだ。ルリィはというと、身体の端だけ足湯に浸けて、素の水溜まり型に戻ってしまっている。朝からはしゃぎ過ぎて疲れたらしい。動かないところを見ると、どうやら転寝しているようだ。
「じゃあ、温まっててくださいね。私は食事の支度をしますから」
「ああ。頼む」
すっかり寛いでいる一人と一匹を微笑ましく見てから、設置した簡易釜戸で食事の支度に取り掛かった。とは言ってもあまり手間は掛からない。米とスープは自家製フリーズドライを使うから湯を沸かすだけ。主菜は豚の生姜焼きで、これも肉をタレに漬け込んだ物だから焼くだけで済む。
湯を沸かす傍らで鍋に油を引き肉を焼き始めると、早速アレクの反応があった。
「……この匂いは」
「豚の生姜焼きです。お好きでしょう、これ」
嬉しそうに綻ぶ顔はまるで少年のようだ。こうして野営地で仲間達の喜ぶ顔を見るのが自分にとって何よりの報酬だった。その笑顔に自分の胸もまた温まる心持ちがした。
(この瞬間が好き)
仲間たちの笑顔を見る為ならば、労力を惜しまない。
『――そんなもん当たり前だろ。お前は飯炊きぐらいしか出来ないんだから』
誰かの声が脳裏を掠めて、手が止まった。
久しく思い出さなかった、否、思い出しそうになると意図的に意識の外に追いやっていた過去の――。
「どうした?」
突然動きを止めた自分を訝しく思ったのか、アレクから気遣わしげな声が掛かる。
「……いえ。何でもありません」
平静を装おうとして失敗し、自分でも驚くほど平坦な声が出てしまった。何かを察したのか、それとも余程様子がおかしかったのか。彼は目を眇めると手早く足を拭いてブーツを履き、こちらに歩み寄って来る。
温かい手が、背に添えられた。そっと撫でられる。
見上げると、少しだけ困ったように眉尻を下げる彼と目が合った。心配してくれているのだろう。
「……少しだけ嫌な事を思い出しました。でも、大丈夫です」
「……そうか? 無理はするなよ」
話したくなったら聞いてやる。言外にそう言われたような気がしてシオリは薄く微笑んだ。
「アレクさんは優しいですね」
紫紺の瞳が僅かに見開かれる。ややあってから、その視線が逸らされた。少し照れたような表情を浮かべる彼にもう一度微笑んで見せてから、食事の支度を再開した。
沸かした湯で米を戻して深皿に盛り、その上に焼いた肉を乗せて鍋の底に溜まったタレを掛ける。アレクは随分とこのタレが気に入っていたようだから、余さず食べられるように丼状に盛り付けてみた。側に佇んだままのアレクに深皿を手渡すと、お、という表情を作って見せる。お気に召したようだ。あとはマグに自家製フリーズドライのスープを入れて熱湯で戻せば完成だ。
ふと気付いてルリィを見ると、いつの間にか足湯の湯を飲み干してほかほかになったスライムが、天幕の中で眠りこけていた。あれに包まって寝たら暖かそうだ。ちらりとそんなことを考えながら自分の取り分を皿に盛り付ける。
釜戸の火の前に敷いた毛皮の上に先に腰を下ろしていたアレクが、自分の横の空いた場所をとんとんと叩いて見せた。隣に座れということらしい。少しだけ躊躇ってから、彼の隣に腰を下ろす。僅かに触れ合ったところが温かい。
アレクは目を細めてから、いただきます、と呟いて料理に手を付けた。
「ん。旨い」
『まっず! あのなぁ、嫌いなもんくらい把握しとけよ』
咀嚼しながら満足そうに笑う彼と、苦々しい顔で文句を言う誰かの顔が重なった。温み始めていた胸が、す、と音を立てて冷えて行く。
今度は気付かれないように何食わぬ風を装いながら、マグカップのスープを啜った。
美味しいはずのスープは、何故かすっかり冷めてしまったそれのように、味気なく喉を滑り落ちて行った。




