04 かけがえのない人々へ
時計の針が十九時を示す頃、トリスの街はようやく黄昏時を迎えようとしていた。西の空は淡い暖色に色付き、空全体が徐々に明度を落としていく。それでも北西の低い位置にある太陽はなかなか沈むことはなく、山の端を横に滑るようにしてゆっくりと移動していく。こうして数時間かけてようやく日没を迎えるのだ。
昼があまりにも長い北方の夏は、この地でまだ数年しか暮らしていないシオリには未だ物珍しい景色に見えた。今はこの夏空を楽しむ余裕こそあるが、始めてここでの夏を迎えた年は、就寝時間が近付いても暮れない明るい空には随分と苦労させられたものだ。
「本当に日が長いんだなぁ……まだ空が明るい」
「お前の母国は違うのか?」
「うん。夏は日が長いのは同じだけど、一番日が長いときでも十九時くらいには日が沈むかな。地図で見た感じ、ミズホの国も日本と同じくらいじゃないかな」
「ほう。それはまた随分と早いな」
「うーん、私の感覚だとこっちの方はいったいいつになったら沈むの? って感じかなぁ。だからいつも不思議な気持ちになるよ。深夜になってもなんとなく明るいんだもの」
「なるほどなぁ」
そんな他愛もない話をしながら余所行きに身を包んで外に出ると、一足先に出て待っていたエレンとリヌス、そして合流していたニルスがこちらに気付いて手を振った。彼らも会食に招待されていて、二人と同じようにめかし込んでいる。
珍しく思ったのか、胸元の竜麟の首飾りから飛び出した「中のひと」が、五人の合間をふわふわと飛び回った。それに呼応するようにして、ニルスの肩先に腰かけていたイールがわさりと葉を揺らした。
「おお。なんだか新鮮な感じ」
「ねー。こういう余所行き着てるとこって、一緒に住んでないとなかなか見ないもん」
そう言ったリヌスも今日ばかりはトレードマークとも言えるターバンを外し、髪油で後ろに撫でつけている。三つ揃えを着慣れているのは、高級料理店を顧客に持つからゆえのもののようだ。
そんな彼を見惚れたように見つめているエレンが微笑ましい。彼女にして仕事着からモスグリーンのシックなツーピースに着替えていて、上品に結い上げた金髪によく似合っていた。
通りを歩いていく若い男たちがちらちらと視線を向け、それに気を悪くしたらしいリヌスが身体の位置を変えてエレンの姿を巧妙に隠してしまった。
――珍しいものを見た。
そう思って視線を交し合ったシオリとアレクは、ふふ、と小さく笑った。
「あ、来たみたいだよ」
迎えの馬車を認めて声を上げたニルスも、大学の講師か学者のような落ち着いたスーツだ。これは学会に出るときの一張羅らしい。
その肩先から使い魔のイールがずるりと滑り落ち、ヴィオリッドの背にもふっと飛び乗る。フェンリルの体毛から顔だけ覗かせている様子がまるでそこから生えているようで、その滑稽さには思わず皆で笑ってしまった。
そんな賑やかな冒険者たちを乗せた馬車はゆっくりと走り出し、いつまでも沈むことのない夕陽に照らされたトリスの街並みを駆け抜けていく。
そうして揺られることおよそ十分。商業地区の中ほどにある煉瓦造りの建物の前に、馬車は静かに滑り込んだ。
高級過ぎず、かといって庶民向けにも寄り過ぎてはいない上品な佇まいの料理店は、社会的地位がある者たちが個人的な集まりに好んで使う場所だ。客席のほとんどが個室でプライベートな空間が保たれ、落ち着いて食事が楽しめるようになっている。
南国から取り寄せたらしい観葉植物が並ぶホールを抜けて奥の個室に通されると、会食の主催者であるパウルが出迎えた。どちらかといえば主催者の立場に近いクレメンスとナディアも、笑顔で控えている。
「ようこそいらっしゃいました」
「お招きいただきましてありがとうございます」
「こちらこそ、来ていただけて嬉しいですよ」
言葉遣いこそ普段通りに丁寧なものだったが、私服に着替えて商会長の看板を下ろした彼の口調にはどこか気楽さがあった。服装も格式張ったものではなく余所行きと呼べる程度のもので、いつもは髪油で優雅に整えている銀髪も緩く崩している。街ですれ違っても大店を預かる立場にあるようには見えないほどには気安い印象だ。
シオリがいつもとは違う雰囲気のパウルの姿を新鮮に思っている一方で、彼もまた仕事着ではない少しかしこまった姿の二人を楽しんでいたのだが。
そんな中リヌスは、ぎこちない笑みを浮かべた。
「いやー……クレメンスの旦那の誘いとはいえ、俺ちょっと場違いじゃないかなーって」
医師という立場上場慣れしているエレンとニルスは堂々としたものだが、リヌスは今更ながらに緊張してきたらしい。先日受け取ったばかりの招待状を握る手が、僅かに汗ばんでいた。
「場違いだなんてとんでもない。リヌスさんもまた兄の命の恩人。兄を撃った男の逃走を阻止し、手術の助手まで務めてくださったんですから。弟として、どうしてもお礼がしたかったんです。だからどうか楽しんでいってくださいよ」
熱い握手を交わしながら、そう言って嬉しそうにパウルは笑った。それでようやく緊張を解いたようで、リヌスは「そういうことなら、はい、お邪魔します」といつもの笑顔を見せた。
彼も大店の商会長が同僚の実弟と聞いて初めこそ驚いたようだったが、何事にも前向きなリヌスは受け入れるのも早かったようだ。
「確かに最初聞いたときにはびっくりはしたけどさ。マレナが身重の身体で竜討伐に出てたって聞いたときほどじゃないかも」
そんなふうに言って頭を掻いている彼には同意するしかない。エレンも「それはそう」と苦笑している。
しかしこの話にはむしろパウルの方が顔色を変えるほど驚いてしまい、大怪我を負ったものの幸い母子ともに無事だと聞いて胸を撫でおろしていた。この竜討伐で瀕死の重傷を負った実兄を重ねたのかもしれない。
「――訳あって離れて暮らしてはいますが、僕にとっては今でも変わらず大切な兄です。そんな兄が死に掛けたとき、皆さんは全力で此岸に引っ張り戻してくれた。だから本当に感謝しているんですよ。両親にも……高齢ということもあってこちらには参れませんでしたが、よくよくお礼を言っておくようにと口を酸っぱくして言われてきましたから」
この言葉を聞いた瞬間、ふとアレクが僅かに表情を変えた。クレメンスが負傷するに至った原因が自分にあると気にしているのだろう。
けれどもその表情を見たクレメンスが、微笑んで首を横に振った。パウルも微笑を浮かべてアレクを見ている。「気にするな」と、この兄弟はそう言いたいのだ。
「アレクさんは兄の一番の友人と聞いています。冒険者になると言って兄が出て行ったときには、都会育ちの兄がやっていけるのかと心配し通しでしたが、切磋琢磨し合う友に出会えた、あいつとならきっと楽しくやっていけると……手紙で貴方の名前が何度も挙がるようになって、それで兄も居場所を見つけたのだなと安堵したものです。そのうちにナディアさんやシオリさんの名前が出てくるようになり、僕の知らない場所で兄の世界がどんどん広がっていくのが弟としては寂しくもあり……でも、ときどき会う兄が新たな一面を見せてくれるようになって、嬉しくもありました」
過去を思い出すように言葉を選びながらそこまで言った彼は、ふと口を噤んだ。唇の端が震え、そして泣き笑いの形に口元が綻ぶ。
「……のっぴきならない事情があって家を出た兄が、冒険者としてここまでやってこれたのは――そして先の戦いで生還できたのは、間違いなく皆さんの存在があってこそです。おかげで奥手だった兄も、無事式を挙げることができます。本当に、ありがとうございます」
若かりし頃の彼らに何があったのかは、シオリは概要しか知らない。けれども、なにもなければきっとクレメンスは今でも王都にいて、パウルとともに商人として活躍していだろうことは分かる。
しかし王都に居づらくなるような出来事があって、結果として遠く離れた北の街で危険に身を置く稼業に就いた。そのことに対して、パウルとしては色々と思うところがあっただろう。言えないまま飲み下した想いもたくさんあったに違いなかった。
色々な感情をない交ぜにした表情で万感の思いを込めて頭を下げたパウルの背を、「奥手は余計だろう」と苦笑いしながらクレメンスが軽く叩く。
(本当に仲が良かったんだろうな)
歳こそ離れてはいたがシオリにも仲の良い兄がいて、彼が所帯を持ってからも変わらず交流は続いていた。日本にいた最後の一年は仕事が忙しく、メールで近況報告するのが精いっぱいだったけれど、まさかそのまま会えなくなるとは思いもしなかった。
遠く離れてはいても、こうして会うことができるホレヴァ家や王家の兄弟を羨ましいと思うことはある。
でも、それをシオリが口にすることはない。
そのかわりに祈るのだ。
(……優しき大地を護りし月の神子よ。汝が紡ぎし標の糸にて彼らを導き給え。汝が詠いし言霊にて彼らを護り給え)
聖女サンナの祈祷句に乗せて、遥かな世界に置いてきた人々のために、そしてこの地に生きる愛しい人々のために祈りを捧ぐ。
――どうか、いつまでも健やかであれ、と。
「……皆には随分と心配を掛けてしまった。しかし、これ以上謝るのはやめておこう。それよりは感謝を伝えたいんだ。本当に世話になった。ありがとう。お前たちは――私のかけがえのない友だ」
間もなく新たな家族となるナディアの手を取り、そうして弟と同じようにしてクレメンスは頭を下げた。そんな彼に仲間たちが変わらぬ友情を誓い、祝福の言葉を贈る光景を眺めながら、シオリは静かに微笑む。
グラスに満たされた、月の光にも似た黄金色のワインの泡が縁で弾け、ふわりと優しい香りを放った。




