26 再来の聖女とリンドヴァリの戦乙女(10巻発売記念SS)
見渡す限りの地平線、その彼方まで広がる小麦畑と牧草地が美しい市松模様を織りなしている。その合間には広葉樹の小さな森と晩夏の陽光に煌めく青い湖沼、白壁に屋根の煉瓦色が映える古い農家が点在し、中世期の面影を残したリンドヴァリ領の田園風景を大地というキャンバスに描き出していた。
ストリィディア王国の南部、王都ストリィドより馬車でおよそ一日半という距離にあるリンドヴァリ領にはその日、王家の主従の姿があった。穀倉地帯を視察に訪れたさる貴族家の当主、という触れ込みで訪れた彼らは、収穫期を迎えた小麦畑をのんびりと歩いてゆく。
「何度見ても見事なものだね。まるで黄金の野原を歩いているような気分になるよ」
王都にはない爽やかな空気を胸いっぱいに吸い込み、オリヴィエルは誰に言うでもなく呟いた。
晩夏に収穫期を迎えるアンドヴァリという品種は、艶やかな金色に煌めく小麦粒がびっしりと並んだ大きな穂先が特徴的だ。パンの原料として用いられ、春播きの小麦作付面積のおよそ八割を占めている。この六十年で王国の小麦自給率を大幅に押し上げた品種だ。
三代前の領主アンドレ・リンドヴァリの名から取ったこの小麦は、寒さ厳しく雪深い王国の人々を飢えから救った、王国の民にとってはまさに金銀財宝にも等しいものだった。
この地で収穫された最上級の小麦は王家に献上され、豊穣祭で王自ら神々に捧げる習わしである。
しかし、今回オリヴィエルがこの地を訪れたのは、アンドヴァリのためではない。これを改良した、耐寒性、耐雪性に優れた秋播きの小麦が目当てだ。王国に編入した旧帝国領民の腹を満たしてやるためには、どうしても必要だったからだ。
世界各国で産業革命が起こっているこの時代に、中世以前にまで退行していた旧帝国領の復興はまだ始まったばかりだ。その第一歩として彼らの手で荒れ果てた大地を耕し、痩せた土地でも実を付ける改良種を育てさせる。まだ試験栽培の段階ではあるが、旧帝国の在来種では到底追いつかないと判断した結果の決断だった。
「もともと農業には向かない土地だ。芋だって小芋どころかむかご程度のものしか収穫できない。耕作放棄地だらけで野山に戻ってしまったところだってある。食料を得るために種芋にまで手を付けなければならなかったと、ウラノフ選帝侯が言っていた意味がよく分かったよ」
もともと作物が育つような土地ではなかったのだ。そこに無理な徴兵による人手不足で、開墾と土地の改良を進める余裕さえなかったという。
「山や森だって薪を取るためにほとんど切ってしまって、見るも無残な有様だ。開墾と農地の整備と同時に、植林もしていかなければならないだろうね」
「改良種がうまいこと根付いてくれりゃあいいがなぁ。あとはあれ、なんて名前の芋だったか……雪深ぇ地域でも栽培できるってぇ夢みてぇな話の」
「『雪妖精』だね。ミズホの北端で栽培されている品種だ。緯度自体は王国よりも低いみたいだけど、かなりの豪雪地帯だそうだよ。冬の間は堆肥の発酵時に出る熱や魔導具を利用して、特別な建物の中で栽培するんだそうだ。種芋は楊梅商会がなんとか融通してくれたが、期待通りに育つといいね」
糖度が高く貯蔵性が低いという短所もあるが、茹でて潰したポタティスモスにして冷凍、もしくは乾燥させればあるいは、というシオリ・イズミの助言がある。まだ極秘ではあるが、エナンデル商会と楊梅商会の共同事業でフリーズドライ食品の開発が進めば、より一層効率的な貯蔵ができるかもしれない。
「ともあれ、現状できることから始めないとね」
「だよなぁ……。しかしよ、姉さんも謙虚で欲がねぇよな」
「んぐっ」
己の未来の義姉に対する「姉さん」呼びに、オリヴィエルは思わず変な声を漏らしてしまった。しかしエドヴァルドはどこ吹く風だ。
「天界の彼方の世界の技術と知識を持ってるとなりゃあ、要人待遇だぜ。だってのに、国のためなら技術と知識は出せるだけ出すが目立ちたかねぇってんだからよ」
「アイデア出しと簡単な助言くらいしかできないからというのもあるんだろうけどね。見聞きした程度で専門家ではないと本人も言っていたし」
異世界の存在を二人は全て信じているわけではない。その在り処を確かめる術がないからだ。しかしシオリ・イズミという女は、それを信じさせるだけの知識を持っている。
少なくとも、彼女の謙虚で真摯な姿勢は好ましい。そこに下心は感じられず、有りのままに受け入れてもいいかと思わせる清々しさがあった。
彼女の性質的に、表舞台に立って華々しく活躍するよりは、役者を舞台裏で支える役割が向いているのだろう。そしてその性質は、アレクに通じるところがある。
――人々を見守り支える優しい大地の名は、まさにあの二人にこそ相応しい。
「……勿論、助言一つでもありがたいさ。それを活かすのが僕らの仕事だ。貴重な天界の技術と知識、ありがたく活用させてもらおう」
実際、彼女の助言は一つの村を窮地から救った。少なくともその復興の切っ掛けを作っている。
先日の竜討伐において北方騎士隊が魔獣暴走を未然に防げたのも、彼女が探索魔法を惜しみなく公開してくれたからだ。そうでなければ、今頃はトリスヴァル領内の町や村がいくつか消滅していたかもしれない。
傷ついたアレクの心を癒し、仲間達と手を取り合ってこの地を安寧に導き、かの竜の心でさえ癒して救ってくれた彼女は、王家の異母兄弟にとってはまさに聖女であったのだ。
(豊穣の女神の御使いにして慈愛と癒しの聖女の再来というのも、あながち間違いではなかったのだろうな)
絵画に遺された聖女の姿と、シオリの姿が重なった。
しかし彼女は恐れ多いと恐縮するだろう。その姿もまた容易に想像できて、オリヴィエルは口の端に苦笑いを浮かべた。
――爽やかな風が吹き抜け、さわさわと音を立ててアンドヴァリの穂先が揺れる。
小麦の収穫作業に勤しんでいた農夫の一人がこちらに気付き、麦わら帽子のつばを指先で押し上げて軽く頭を下げた。それに目礼で返した二人は、広大な農場の長閑な景色を楽しみながらゆっくり歩いてゆく。
時折背嚢の蓋がもぞりと動くのは、中に潜んでいるペルゥが外を覗いているからだろう。
くすりと笑ったオリヴィエルの横で、エドヴァルドが「お」と小さく声を上げた。
「あれ、博士じゃねぇか?」
農場を一直線に走る道の向こうに、明らかに小麦とは異なる青々とした葉が生い茂った畑がある。目当ての品種の試作地であろう。その傍らに、帳面に熱心にペンを走らせている紳士の姿があった。この距離では顔までは見えなかったが、服装や立ち姿から前リンドヴァリ伯爵にして農学博士ウィリアム・リンドヴァリのものであることが分かる。
「博士!」
呼びかけに彼はふと顔を上げ、こちらを認識すると手を振った。
傍らにいたリンドヴァリ家の騎士が一歩下がって略式の礼をする。最敬礼ではないのは、こちらの素性が知れぬようにするためだ。今回の訪問は、あくまで知人の農業視察という態で行われる。そうでなければある程度の体裁は整えなければならず、些か煩わしいからだ。
大股で歩み寄った博士は、微かに日に焼けた顔に陽光が弾けるような笑みを浮かべて力強い握手を交わした。
「先日ぶりですな。お出迎えできず申し訳ない」
「いやいや。こちらこそ忙しいところすまないね」
「なんの。農地の発展のためであればいくらでも時間を作りますよ」
「ありがとう。ところで令夫人は今日はおられないのかな?」
「ああ、彼女でしたらあちらに。ご婦人たちの指導を任せております」
ここからいくらか離れた畑は土がむき出しになっていて、レヴェッカは近隣の若い娘たちに畝作りを教えているようだった。鍬を振り上げて耕す様はなかなか堂に入っていて危なげはなく、決して素人のものではない所作だ。
「なるほど」
「体幹がいいな。動きにぶれがねぇ」
傍らのエドヴァルドは感嘆の声を上げている。
今のレヴェッカに、独身の王子を巡って同僚の娘たちと競い合っていた頃の面影はない。貴族家の夫人としての風格はそのままに、大地とともに生きる一族に嫁いだ女の逞しさがある。
変わったというよりは、本来彼女があるべき姿に戻ったのだろう。彼女の生家、ハロンスティン家も自然豊かな土地にあり、民との距離が近い。リンドヴァリ家に気質がよく似ているのだ。
畑を耕す彼女の表情は生き生きと輝いている。
「……僕の見立てに間違いはなかった、かな」
若いながらも堂々としているとは王太子時代からよく言われてはきたが、実のところは内心いつでも不安だった。己の采配は正しかったか、権力を笠に着て無体を強いはしなかったかと、いつでも不安だった。
結果論でしかないといえばそれまでだが、少なくとも彼女の様子を見るに、それは杞憂だったようだ。
――と。
傍らのエドヴァルドが不意に剣を抜き、オリヴィエルと博士を庇うように前に出た。一拍遅れてリンドヴァリの騎士も臨戦態勢に入る。
周囲に漂うのはぴりりとした刺すような気配。
魔獣の気配だ。
領地の九割以上が平野部で、山と呼べるものはなだらかな丘しかないリンドヴァリ領に、危険な魔獣はほとんどいない。しかし無害なものばかりかといえばそうではなく、特に収穫期には畑の実りや家畜を狙ってたびたび現れるのだ。
小麦が左右に激しく揺れ、こちらに向かって直線状の軌跡を描く。
と、その軌跡は不意に向きを変え、大きく曲線を描いて逸れていった。向かう先は土が剥き出しになった裸の畑だ。見通しが良いその場所にはレヴェッカと村娘達がいる。
「わりぃが二人を頼む!」
舌打ちをしたエドヴァルドは距離を取って控えていた騎士達に指示を飛ばし、ご婦人方のいる方角に向かって駆け出した。
が、騒ぎに気付いたレヴェッカが女達を下がらせた。眼光鋭く見据えるのは迫りくる魔獣。
小麦畑から飛び出したのは中型犬ほどの赤毛の魔獣。雑食の草原大穴熊だ。穀類を狙って侵入したこの魔獣は、より栄養価が高い「肉」に標的を変えたらしい。
畑を一直線に駆け抜けた草原大穴熊は、勢いを緩めないまま跳躍した。
若い娘達は悲鳴を上げたが、レヴェッカも、それを見守る博士も落ち着き払っている。
そういえば彼女のそばには護衛がいないなと気付いた瞬間、すっと腰を低く落としたレヴェッカは手にしていた鍬を後ろ手に構え、鋭い呼気とともに一閃した。
ブゥン、とか、ゴゥン、とかいう妙に不穏な重い音が響き、鍬が草原大穴熊の顔面にごりっとめり込む。魔獣は「ぷぎっ」と奇妙な悲鳴を上げて地面に落下し、しばらく痙攣した後に動かなくなった。
「ええ……」
「おいおい……」
害獣処理もやるとは聞いていたが、ここまでやるとは正直思ってはいなかった。せいぜい小型魔獣程度だと思っていたのだ。
「鍬の一振りで大穴熊撲殺て」
オリヴィエルは絶句するしかなく、出番がなかったエドヴァルドは何とも言えない表情で剣を収めている。
「……侍女よりも近衛のほうが向いてたんじゃないか……」
「……いやぁ、むしろ魔獣討伐隊だろ、あれだけの逸材……」
二人がそう思うのも無理はない。
農業で鍛えられているとはいえ、鍬の一閃で貴婦人が魔獣を撲殺できるものなのだろうか。訊けばあの鍬はレヴェッカ専用の特注品らしく、柄の中に魔鉄鋼を仕込んであるのだそうだ。当然、一般的な鍬よりは重い。紛うことなき鈍器である。
見た目は落ち着いた品の良い貴婦人だが、その内面は屈強な戦士だったようだ。
リンドヴァリの戦乙女。
それが彼女に付けられた異名なのだそうだ。
「そうは言っても、あのくらいの大きさが限度ですよ。それ以上はさすがにねぇ」
「いやぁ……」
「十分だろ」
「ああ、勿論私は無理ですよ。どうも才能がないようで」
一度やってみたら派手に空振りして腰を痛めたと言って笑う博士を前に、王家の主従は曰く言い難い笑みを浮かべることしかできなかった。
そんな二人をよそに、草原大穴熊の肉は美味しくて美容にも良い、さっそく血抜きしましょう、血の一滴も無駄にしては駄目よ、などとレヴェッカと村娘達が歓声を上げている。
「……なるほど、さっきのは悲鳴じゃなくて歓声だったんだな……」
女は男が思う以上に強いのだ。
そんな思いを新たにした二人の脳裏に、シオリの姿が浮かぶ。
後方支援の補助系魔導士ながら、かの凶悪魔獣脳啜りを誰もが震え上がるような恐るべき手口で封じたという逸話を思い出した二人は、ぞっと身を竦めた。




