22 幕間四 狩人と女医の内緒話
「18 繋がる夜」の2日後くらいのお話_(:3 」∠)_
前庭に茂る白樺の枝葉を通して和らいだ夏の日差しが、柔らかに差し込んでいる昼下がりの医務室。木陰で冷やされた風がカーテンを揺らしながら窓を吹き抜け、リヌスはその心地よさに目を細めた。風は多少生温いが、吹いているだけでも有難いとリヌスは思う。
七月も半ばを過ぎたこの日、トリス市の気温は三十度を記録し、暑さ慣れしていない市民の多くは室内で過ごすことを選んだ。リヌスもそのうちの一人で、この暑さで依頼人が日程を延期したことを幸いとばかりに、風通しのいい医務室でのんびりと過ごしているのである。
「高温注意報だなんて聞いてもピンとこなかったけれど、本当に暑いわね」
医務室の主、エレン・オヴェリが薬草整理の手を休め、幾分上気した頬に冷気を送りながら呟く。いつもはしっかり着込んでいるエレンも、今日ばかりは薄着だった。剥き出しになった両腕の雪のような白さが眩しい。
(綺麗だよなー)
二人きりの室内、誰に邪魔されることもなくその贅沢な時間を過ごしていたリヌスは、エレンの美しい横顔をうっとりと眺めた。
金糸のように煌めく艶やかな髪、透けるような白磁の肌。長い睫毛に縁取られた瞳は、碧い水を湛えた湖のように美しい。
まるで森の精霊のようだと称えていたのは誰だったか。
そして、その儚げな容姿とは裏腹に、戦乙女のように凛々しいこの女医を目で追うようになったのは、いったいいつからだったか。
己の想いを明確に自覚したのは、あの竜討伐のときだ。
巨大な竜に臆することなく戦場を駆け回り、埃と血に塗れながらも仲間達を癒し続けた凛々しい横顔は、今でも瞼の裏に焼き付いている。
前に垂れかかった金髪がほっそりとした指先で何気なく払われ、形の良い頤から首筋の線が露わになる。滑らかな肌の上を、汗が一滴流れ落ちていく。
隙らしい隙を見せない女医の、少しばかり油断した姿はなかなかに貴重だ。そんな隙を見せてくれるくらいには親しくなれただろうか。
そんなふうに思いながら、リヌスもまた額に滲んだ汗を手布で拭った。
――高緯度地域のトリスヴァル領は冷涼な気候で、盛夏ですら二十五度を上回ることは珍しい。しかし、一昨日の深夜に炎の精霊イフリートによる「精霊の巡礼」現象が観測され、トリスヴァル領全域に高温注意報が発令された。そして昨日の朝、観測史上初の三十度を記録したのである。
精霊の巡礼現象の発生は極めて稀だ。乱れた魔素の流れを修復するために高位精霊が訪れるというこの現象。本来棲み処から離れることがない高位精霊が移動すること自体が、そもそも稀なことなのだ。
トリス・タイムズの号外によると、イフリートはどうやらディンマ氷湖の乱れを正すために訪れたらしく、一昨日の晩は精霊たちによる宴が夜通し行われたという。記事には取材を受けた精霊術師の「大いなる竜への弔問も兼ねていたのではないか」という見解も添えられていた。
「竜って実体化した精霊のようなものだなんて考えもあるのだもの。そう考えれば、あながち間違いではないのかもしれないわね」
実体は火竜であった氷蛇竜に捧げる、炎の精霊による弔いの儀式。
「そういう解釈、嫌いじゃないなー。なんていうか、優しい話だよね」
もっとも、当の竜の魂は恐らく既に氷湖にはなく、「優しい誰かさんたち」のそばにべったりくっついて甘えているようなのだが。魔力を持たないリヌスにその姿を見ることは叶わないが、それでも気配を感じることはある。楽しげに弾むような気配だ。
今は自室で身体を休めているだろう「誰かさんたち」がいる別棟を窓越しに眺めながら、リヌスはひっそりと微笑んだ。
「……でもさー、あと二日は暑さが続くんだっけ? さすがにちょっとへばりそう」
「そうね……」
高位精霊ゆえに知能が高いのか、土地に障りが出る前に立ち去ってくれるという話だ。その後の土地はゆっくりと本来の姿を取り戻していくだろうとも。
とはいえ、この暑さがまだ数日続くらしいという話には、二人とも些かうんざりさせられていた。
夏の平均気温が三十五度以上、夜でさえ二十五度以上になることも珍しくはない国出身だというシオリなどは「湿気が少ないせいか、思ったよりも暑くないね」と涼しい顔だったが、彼の国では命が危ぶまれるほどの猛暑がくるなどと聞いては「それはいったいどんな修羅の国だ」という感想しかない。
「で、冬は氷点下になったりするって言ってたっけ」
「だから夏でも冬でも適温に調整できる魔導具があるって話だけれど。湿気取りや布団の乾燥用の魔導具まであるって、相当よね。シオリのあの快適さに凄く拘るところ、もしかして国民性なのかしら」
「かもしれないねー」
過酷な環境に耐えうるようにか、魔法工学がかなり発達した国とみえる。
その素晴らしい空調魔導具とやらを是非とも輸出してほしいものだと本気で思ってしまうあたり、前向きお化けと称される己もだいぶ参っているようだ。
ちなみに市内の魔導具屋では送風機の取り扱いもあるが、この暑さで早々に売り切れてしまっている。もとより冷涼で夏でも心地よい風が吹く気候、そもそもの取り扱い台数自体が少ないのだ。
そこでシオリの助言をもとに、氷塊に風魔法を吹き付けて「冷風扇」なる魔導具の再現を試みている者もいるようだ。これはなかなかに涼しいらしく、庭先の木陰に生み出した氷塊周りで涼んでいる同居人たちの姿があった。
残念ながら湿気が溜まりやすいという理由で、室内での利用はあまりお勧めできないらしい。そんなわけで、湿気を嫌う薬草があるからと風魔法だけで頑張っているエレンのために、扇いでやっているというわけだ。
シオリが貸してくれた東方風の扇の、異国情緒漂う「朝顔」の絵柄が美しい。表面の生地には氷の魔法石の粉末が織り込まれているらしく、起こした風がほんのりと冷気を帯びているのも嬉しい。
「……ね、そういえば、気付いた?」
「え、何が?」
何か秘め事を打ち明けるかのように声を潜めたエレンに、リヌスもつられて声を低めた。
エレンは悪戯っぽく微笑んで言った。
「シオリの左手。指輪を嵌めていたの。この間まではなかったと思うのだけれど」
「えっほんと!?」
「ええ」
竜の英雄と聖女の称号を得たアレクとシオリは、このところは社交で随分と忙しくしていた。つい先日も泊りがけで招かれていたようで、その疲れが出たのかシオリは昨日からほとんど寝て過ごしているらしい。
今日も昼過ぎには起きだして顔だけは見せてくれたが、気怠いのか少し言葉を交わしてからすぐ部屋に戻ってしまった。
「気付かなかったなー……え、マジで?」
左手というのは、そういうこと、なのだろうか。
「アレクの左手にもしてあったら確定ね」
魔法剣士である彼は普段から保護用の手袋をはめている。昨日からシオリの看病に明け暮れている彼は医務室にも何度か顔を出したが、その左手に装飾品を付けているかどうかまでは分からなかった。
しかし彼の手袋は指なしのものだ。よく見れば指輪の有無くらいは分かるかもしれない。
(……あれ? でも、ということは?)
娼館では底なしと呼ばれていたらしいあの男も、驚いたことにシオリと事に及んだことは一度もない――というのは実は語弊があるのだが――らしい。諸々の問題に区切りをつけるまでは手出ししないという誓いを立てていると聞いたこともあるが、もし本当に求婚したというのなら、もしかしたら――。
(……シオリの体調不良って、つまり、そういうことじゃない?)
下世話な推測ではあるが、おそらく外れてはいまい。
(看病。看病ね。なるほどー……)
そういえば昨日は急用ができたとかで、行先も告げずにどこかに出掛けて行った。そして帰ってきたときには、屋台飯と一緒にアウリン薬局の紙袋を抱えていたようだったが。
あのときはエレンに頼めば基本的な薬は出してくれるのになと思ったものだが、なるほど、そう考えてみるとニルスでなければいけない理由があったのだろう。
――男同士でなければ、頼みづらいこともある。
その紙袋の中身をおおよそ察したリヌスは、生温かい笑みを浮かべた。
「うーん、春だなー」
ぽそ、と呟いたリヌスに、エレンが怪訝な顔をした。
「ちょっと、大丈夫? もう七月も下旬よ。盛夏よ、盛夏」
暑さにやられたとでも思ったのだろうか。魔法で小さな氷塊を生じさせた彼女は、その氷塊で冷やした手のひらをリヌスの頬にぎゅっと押し付けた。
「ひやぁっ!?」
突然の暴挙に飛び上がったリヌスからエレンは団扇を取り上げ、腕を引いて立ち上がらせたかと思うとそのまま診察台に押し倒した。
「えっ。えっ?」
「扇いでくれるのはもういいから、ちょっと休みなさいな。暑気あたりは厄介よ」
慌てるリヌスをよそに手早く氷嚢を作ったエレンは、リヌスの額にばさりとタオルを掛けると、その上から氷嚢を載せてくれた。
柔らかなタオル越しの冷たさが心地よいが、間に合わせのタオルだったからか、額に載せるには少しばかり大き過ぎた。額どころか鼻の上まで覆ってしまい、完全に視界を塞がれてしまったリヌスは、「見えないよー」とタオルの端を指先で摘まみ上げようとした。
しかし、その手がそっと抑えられて、やんわりと動きを封じられてしまった。
「いいのよ。わざとだから」
「……え?」
どういうこと、と訊ねる前に、唇に柔らかな何かが触れた。触れ合ったところから口内にそっと押し込まれたのは、小さな氷の粒だ。その冷たい粒は静かに解け消え、口の中にひんやりとした余韻を残す。
「……え?」
何をされたのか理解する前に、「ふふ」という小さな含み笑いが聞こえた。
唇にもう一度だけ触れた柔らかな何かが離れ、そして軽快な足音が遠ざかる。
きし、かたん。
すぐそばで鳴ったのは、椅子を引いて腰掛けた音だ。
かさかさと薬草を選り分ける音が聞こえ始めてからもなおぼんやりとしていたリヌスは、まだ冷たさが残る己の唇にそっと触れた。
瞬間、ぼっと真っ赤になった彼は、一気に上昇する体温を持て余してそのまま枕の上に突っ伏した。
(やられたぁ……!)
口移しを装った、口付け。口移しに氷を押し込んできたのは、もしかしなくても舌、なのだろう。
機を見て想いを告げようと思っていたのに、この男前ながらも茶目っ気のある女医に先を越されてしまった。
「暑気あたりの診断しといて体温上げさせるってさー、どういうことー……」
ごにょごにょと言い募るリヌスの耳を、楽しげにくすくすと笑う声が擽る。
(あー……ますます惚れるなー……)
美しくて凛々しくて男前で、そのうえ茶目っ気があって可愛いだなんて、そんなの反則じゃないか。
診察台に身を沈めたまま身悶えしているリヌスを、ふらりと遊びにきたリラーヴェンが何か面白い生き物でも見つけたような顔で見下ろしていた。
ギリィ「雪男の剥製が常設展示になりました!!!!!!」
※現実から目を背けながら
どこもかしこも春ですね( ◜ω◝ )




