18 繋がる夜
短くも濃密な時間を過ごした辺境伯邸を後にして、我が家と呼ぶべきシェアハウスに帰宅したのは、午後の四時を過ぎて間もなくの頃だった。
ちょうど同居人たちが泥抜きを終えたエーデル・クレフタを料理し始めたところで、厨房から漂う魚介の香りが一階に充満していた。
「おっかえりー! 保冷庫、設置しといたよー」
藻掻く巨大ザリガニを鍋に押し込んでいたリヌスが、親指をくいっと貯蔵庫に向けた。そこには予想以上に立派な保冷庫が鎮座ましましていて、その場所には学校の給食室の趣が漂い始めていた。
「うわぁ、思ったよりもずっと大きいね」
「うん。見てよ、大型の食材が全部すっきり収まったよ」
彼は一通り整理してくれたようだ。庫内はラベリングまでされた食材が綺麗に並べられていた。
「ほら、エーデル・クレフタも食べきれない分はもう入れちゃってあるよ」
「わあ、ありがとう」
「あと、今まで使ってた小型保冷庫は、ちょっと食材と一緒には保存したくないもの用にしたよ。あっちの隅に移動しといたから」
これで生餌や毒性の強い素材の保存管理に困ることはないと言って、リヌスは笑った。
「さすが、そういうの凄く頼りになるなぁ。ありがとう、リヌスさん。あとでポテトチップスたくさん作るから、是非食べて」
「やったぁ、ありがとう! うひょー、楽しみぃ!」
うきうきとエーデル・クレフタを茹でる作業に戻っていくリヌスを見送り、二人は庭先に積んだままの木箱を運び入れる作業を始めた。リンドヴァリ夫妻の置き土産は随分な量で、搬入には使い魔や同居人の手を借りた。
貯蔵庫に積み重ねた木箱の中から早速伯爵芋を取り出し、薄切りと千切りにしていく。
エーデル・クレフタは十分過ぎるほどに量があるから、付け合わせの品数はあまり多くなくていいだろう。今日は簡単に、ポテトチップスとフライドポテトの二種類を作ることに決めた。
「揚げて塩を振るだけであの美味さというのは反則だな」
「だよねぇ」
黄色味の強い肉質の伯爵芋は、カラリと揚げると揚げ油の艶でまるで黄金のように輝いて見えた。味見をしてみると、しっかりめの塩味とカリカリとした軽快な歯応えの後に、甘みの強いほっくりとした伯爵芋の味が追い掛けてくる。
「うわぁ……凄い。これは皿からあっという間に蒸発するやつだ。たくさん作っとかないと」
明らかに量が多い味見をしているアレクを見て絶対そうなると確信したシオリは、結局その後、それぞれ大皿三つ分の揚げ芋を作ってしまった。計六皿分の揚げ芋はしかし、巨大ザリガニを味わう合間に皆でパリパリホクホクと摘まんでしまい、エーデル・クレフタパーティ開幕からわずか三十分で、全ての皿から消えることになった。
「ここにいるとあっという間に太りそうだ……」
「まったくだよ……」
管理人のエギルと図書館司書のベネディクトは、鍛えた肉体の維持が厳しいと呟きながらも食べる手を止めない。
塩と香草だけで茹でたエーデル・クレフタも絶品で、水晶蟹とはまた違った味わいを楽しめだ。
一抱えもある大きなものは、ひと家族の一食分を賄えるほどの量だ。これは二人がかりで殻を剥く。頭と胴体を持ち、双方逆方向に捩じるようにして引っ張ると、巨大な身がつるりと現れるのだ。
これを大皿に豪快に盛って、皆で切り分けたり千切り取ったりして食べる。貴族平民問わず、王国の全ての民が楽しみにしている、夏限定の特別なご馳走だった。
頭部の殻に残ったミソはこっくりとしていて濃厚。身は海老と蟹の中間のような味わいで、きめ細かい肉がほろほろと柔らかく、水晶蟹より甘みが強かった。
「これは酢醤油かわさび醤油で頂くべき……!」
水晶蟹のときは夢中になっていて、ついうっかり忘れてしまっていたが、今度こそ。
頭部の殻を被ってリラーヴェンたちと大海獣ごっこに興じているルリィの横をすり抜け、いそいそと厨房に向かったシオリは、鍋と調味料を取り出した。
作り方は北陸地方在住の親戚から教わったレシピを参考にする。
「ええと、確か……」
胸元から飛び立った光が「なにしてるの?」と言いたげに覗き込む横で、小鍋に楊梅商会から取り寄せた高級穀物酢と醤油に味醂、砂糖と塩を入れ、保冷庫で保管していた作り置きのだし汁も入れて、軽くひと煮立ちする。それから氷魔法で冷ましたら、即席蟹酢の完成だ。
ついでに楊梅商会の粉わさびを水で練り上げ、小皿に移す。説明書きによると、二首わさびという植物系魔獣の改良種が原料で、普通のわさびと比べて辛味や風味が長持ちする品種なのだそうだ。つんと鼻に抜ける香りが爽やかだ。
一度厨房に消えたシオリが、すぐに小瓶と皿を持って戻ってきたところを見たアレクが、興味深そうに小瓶と皿の中身を覗き込んだ。
「お。これはなんだ?」
「蟹酢とわさびだよ。私の故郷の味」
正確には故郷ではないが、日本という括りでは同じということで。
小皿に入れた即席蟹酢をエーデル・クレフタの身に少し付けて、ぱくりと頬張る。
「んんん……! やっぱり正解! 美味しい……!」
二首わさびを溶かした醤油で頂くエーデル・クレフタも、ぴりりと味が引き締まっていて最高だった。語彙力が落ちそうなほどの美味しさだ。否、既に落ちている。
「そんなにか」
あまりの美味しさに身悶えているシオリを見て、アレクも試したくなったらしい。
「わりとお酢と醤油そのままだから、もしかしたら王国の人の口には合わないかも。わさびもちょっと独特の辛味があるから、最初は少しだけで試してみて」
「分かった」
言われたとおりに彼は千切り取った身の先に少しだけ蟹酢を付け、恐る恐る口に入れた。ゆっくりと咀嚼し、そして「ん」と合点がいったというように頷いた。
「なるほど。これはいい。わさび醤油も悪くないな。味が引き締まる」
シオリの東方風王国料理ですっかり舌が慣れていたアレクには、穀物酢や醤油独特の風味はあまり問題ではなかったようだ。わさび醤油は随分と気に入ったようで、ついには自分用の小皿を持ち出して取り分けていた。
最終的にはそれぞれがお勧めの調味料を持ち出してきて、品評会のようなものが始まった。大蒜だれやトマトソースのほか、輸入食品店カセロのオリジナルブレンドスパイスに南大陸風のチリソースまで、様々な味で楽しんだ。
「このオリジナルブレンドのスパイス、大当たりだね」
リヌスがわざわざ事前に買いに走っただけのことはある。ほんのりと渋みを感じる豊かな香りと、ピリリとした辛味が食欲をそそる。異国情緒漂うインパクトのある味わいだが、それでいてエーデル・クレフタの味を損なってはいない。
「ああ。独特の風味があるが、癖になる味だ」
「肉料理にも合いそう。羊とか一角兎とか、少し癖のある肉に使うと美味しいかも」
「それはまた酒が進みそうな……」
「ふふ。だねぇ」
あれほど山盛りにしてあったエーデル・クレフタは次々と仲間達によって消費されていく。
最後は皆で片付けまで済ませて、それで今年のエーデル・クレフタパーティはお開きとなった。
「はぁー、美味かったな」
「今年は当たりだったなぁ」
「大振りなのに味がしっかりしてたものね」
「来年は燻製に挑戦しないー? 俺、今度燻製器作っとくよ」
リヌスが早速来年の話をしていて、周囲の笑いを買っている。
来年。
(来年かぁ……)
ちょうど一年前はまだアレクと出会う前で、過去に囚われたまま足踏みしていた。
でもそれから彼と出会い、お互い少しずつ歩み寄って、想いを交わし合い、ともに暮らすようになって、仲間たちとの距離も近くなって。
あれから一年で自分を取り巻く環境は大きく変化した。勿論良い方向にだ。
来年の今頃はどうしているだろうか。きっと距離感や関係性はまた変化しているだろうけれど、それが良いものであるようにとシオリは祈る。
「怒涛の一週間だったが、なんとか乗り越えたな」
夜も更け、ルリィとヴィオリッドが就寝してから寝室の窓辺で寛いでいたアレクは、トリスの夜景に照らされてきらきらと輝くワイングラスを傾けながらそう言った。
オリヴィエルからの王都土産、淡い薔薇色が美しいロゼワインがグラスの縁で弾け、華やかな香りが立ち上る。
「そうだねぇ」
シオリは頷いた。
「思ったよりもずっと理想的な形で終わった……かな」
「ああ。このうえなく理想的だ。あれほど悩んでいたのが嘘のようだ」
そう言ったアレクの顔は晴れ晴れとしていた。
もう彼を縛るものは何もないのだ。
「――シオリ」
席を立ち、戸棚の奥から小さな箱を取り出したアレクは、寝台に腰掛けているシオリの隣に腰を下ろした。そして「これでようやく言える」と万感の想いを込めて呟いた。
「なぁ、覚えているか。去年の秋の終わり、ブロヴィートへの旅の途中で俺が言った言葉を」
「うん?」
「辛いことも何もかも全て独りで抱え込んで、頼り方が分からない、忘れてしまったと言ったお前に、頼り方を思い出すまで『依頼』という形でそばにいると約束した。その報酬の後払い分、今こそ回収しようと思う」
「あ……」
あのときの「前払い分」は、口調を改めることと敬称を取り外すことで。あれ以来ずっと保留にしていた「後払い分」を、彼は支払ってもらおうというのだ。
けれどもその内訳は依頼が完了してから伝えると言われたまま、シオリもまだ聞いてはいない。
「……うん。覚えてるよ。一体何を要求されるんだろう」
あのときも同じように訊いた覚えがある。そのときははぐらかされてしまったけれど。
「どうだ。頼り方はもう思い出せているな?」
彼はそう訊いたけれど、それは今更だとシオリは思った。
アレクは約束通りにずっとそばにいてくれた。寄り添い、抱き締め、温かい言葉をたくさんくれて、頑なになっていたシオリの心を溶かしてくれたのだ。
そして、教えてくれた。孤独だと思っていた自分は孤独ではなかった。知らず知らずのうちにたくさんの人々に支えられ、そしてたくさんの人々を支えていたことを知った。
頼り、頼られ。そういうふうにして人は生きている。
そのことを思い出させてくれたのだ。
「勿論だよ。全部……全部アレクのおかげだよ。ありがとう、アレク。私はもう一人じゃない。たくさんの人たちに囲まれて、私は今とても幸せなの」
「そうか」
彼は笑った。
「じゃあ、依頼は完了だな」
言いながら彼はシオリを抱き寄せ、腕の中に収めて、そうして至近距離で向かい合った。夜空の色によく似た紫紺色の瞳に、魔法灯の光が反射して煌めく。
「報酬の後払い分――それは、お前のこれからの人生だ。お前の隣でこれからの人生を歩みたい。お前の全てを――俺に、くれないか」
彼の手のひらの上、開かれた小箱には、紫紺色の魔法石がはめ込まれた金色の指輪が二つ。
「作らせたまま、このときのためにずっと取っておいてたんだ」
「アレク……」
じわりと視界が滲む。
シオリの瞳から溢れて頬を伝う雫を指先で拭い取った彼は、大切に噛み締めるようにして、その言葉を唇に乗せた。
「愛してる。家族になろう。結婚、してくれ」
「……うん」
しゃくり上げそうになるのを必死に堪えて頷いたシオリは、彼の胸に飛び込んだ。
「私も愛してる。大好き。アレクの妻にして?」
「ああ……!」
シオリの左手をそっと掬い上げたアレクは、その薬指に指輪を嵌めた。そして自らのそれにも指輪を通す。同じ意匠の指輪の、紫紺色の魔法石が淡い光を放つ。
「珍しいだろう? 紫紺色の光の魔法石だ。月下草と雪菫の群棲地が交わる場所で発掘されたんだそうだ」
「凄い……綺麗。夜空に浮かぶ月みたい……」
うっとりと見つめていたシオリは、けれども小粒な魔法石の宝石を越える輝きに、ほんの少し不安になった。これは物凄く高いのではないだろうか。普段から身に着けていて不安になりそうな……。
「まぁな」
アレクは肯定した。
「二つでこのシェアハウスが買えるくらいには」
「へええぇぇぇ……え?」
屋敷としては破格だったかもしれないが、魔法石としてはどうなのか。
驚き過ぎてむしろ冷静さを取り戻したシオリの涙が、少し乾いたような気がした。
「どうしても特別なものを選びたかったんだ。特別なお前との、特別な日を迎えるために」
「そ、そっか。そっかぁ……」
驚きと嬉しさがない交ぜになって挙動不審になってしまったシオリの唇にそっと口付けたアレクは、ひどく嬉しそうに笑った。
「楽しいことも、嬉しいことも……そうでないことも、全てをお前とともに。ずっと一緒だ。俺の最愛。俺の唯一。愛してる」
「ありがとう、アレク。ずっと一緒にいよう。愛してる……私の全て、受け取って」
「ああ。今日こそ貰い受けよう。お前の全て。だからお前も受け取ってくれ。俺の全てを」
「うん……!」
抱き合い、口付けをして啄み合って、そうしてもつれ合うようにして寝台に倒れ込む。
年の暮れにアレクから贈られた古い時代の婚礼衣装、雪菫の刺繍を施した生成り色のワンピースが取り払われて、生まれたままの姿に注がれる視線が熱を孕む。
重ね合う素肌は熱く火照り、互いの唇から零れ落ちる睦言と吐息も熱く掠れて、やがて何もかもすべての境界が取り払われて、一つに溶け合っていく。
「ああ……好き」
「ん……俺もだ」
甘く掠れた声を貪るような口付けで呑み込んで、それでもまだ足りないというように激しく求めてくる彼が、譫言のようにシオリの名を呼んだ。
それに応える声はますます甘く、覆い被さる彼の紫紺色の瞳が熱を孕んで激しく揺らめいて、シオリの身と心に更なる熱を呼び込んだ。
溢れて尽きることのない想いは明け方まで二人を褥に繋ぎ止めて、そんな二人を祝福するかのような黎明の光が、窓から柔らかに降り注いでいた。
ルリィ「祝!」
ペルゥ「脱素人!!!」
ギリィ「おめでとうございますリア充爆ぜろ!!!!!!」(※月魔鉱製総入れ歯を噛み締めながら)
第十章、これにて閉幕ですありがとうございました!\(´ω`)/
あとはまた幕間話等を挟んで新章入りますん。
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【おしらせ】
明日5月30日、「家政魔導士の異世界生活」コミックス9巻発売です!
こちらの爽やかな表紙が目印です。
また、28日発売の月刊コミックゼロサムで「家政魔導士」が表紙を飾っております。
書店でお見掛けの際は手に取って見てくださいね。
(アニメイト様では購入特典に表紙絵の特製イラストカードが付きます)
コミックス9巻と合わせて、どうぞよろしくお願いいたします\(´ω`)/
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