11 事件の終幕
「反体制派がアレクを担ぎ上げるつもりでいるのかと身構えていたが、どうやらかなり個人的な目的による犯行だったようでな。しかし被害は広範囲に及んでいる。秘密裏に収めるには少々手間が掛かりそうだ」
クリストフェルはなんとも言えない微妙な表情で言った。
トリスヴァル領とヴェステルヴァル領、そして王都ストリィドと王領の港町エーランド。この四つの地域に跨る事件で、ザックの実父にして元宰相フレードリク・フォーシェルの手まで借りなければならなかったにもかかわらず、犯行の動機は社交界への復帰と王兄との婚姻だったという実にスケールの小さい話だったのだ。クリストフェルがうんざりするのも分かる。
「蟹に食わせてなかったことにしたい」
そんなふうにぼそりと呟いたような気がしたが、シオリはそれを聞かなかったことにした。
「……結論から言うと、此度の事件はヴェロニカの個人的な目的によるもので、セーデシュテン家はこの件に関しては無関係と我々は見ている。だが、世間体のために娘を死んだことにして、病死した他人の籍を与えて生活させていたという罪がある。それどころか、どうも娘の奇行に気付いていて黙認していた節もあってな。一人の人間の死を冒涜したばかりか、他人に成りすまして王家と世間の目を欺き続けていた罪は重い。こちらも処罰は免れまいよ」
「え、じゃあ……あの人は亡くなった人に成り代わっていたということですか」
「そうなるな。関係者との面通しはまだこれからだが、ヴェアトリス・セイデリアを名乗っていたあの女は、自ら暴露した通りヴェロニカ・セーデシュテンでほぼ間違いないだろう」
彼が胸元から取り出した写真は、王都の写真館から入手したものらしい。端がくるりと丸まっているのは、高速伝書鳥の通信筒に収めるために筒状に丸めてあったからだろう。
その古びた写真には、美しい少女が映っている。すまし顔の少女の髪色までは分からないが、顔立ちは確かにヴェアトリスを自称していたヴェロニカのものだ。少女時代の美しさをそのままに歳だけを重ねた、ある意味理想的な歳の取り方だとシオリは思った。
それは勿論、事件を起こさなければという前提での感想だ。
写真の裏面には管理番号らしき数字と、被写体であるヴェロニカ・セーデシュテンの名が記されている。
その綴りを眺めていたシオリは、あることに気付いて「あ」と声を上げた。
「ヴェアトリスさんとヴェロニカさん、イニシャルが同じなんだね」
「言われてみればそうだな」
どちらもイニシャルはVSだ。
「そう、故人とはイニシャルと年齢が同じなのだ。ヴェアトリス嬢に目を付けた理由もそこにあるのかもしれんな」
「故人というが、まさか乗っ取るために消されたんじゃないだろうな」
アレクが疑問を口にし、まさに同じことを考えていたシオリはどきりとした。
けれどもクリストフェルは「それはないと思っていいだろう」と首を振った。
「ヴェアトリス嬢の主治医――他界していたというのは聞いていると思うが、この息子が別の場所で開業していて、父親の死後にカルテをそのまま引き継いでいた。幸いこの中からヴェアトリス嬢のカルテも見つかった。長らく患っていた病で亡くなったそうだ」
本人も家族ももう長くはないことを受け入れていたようで、家族に見守られた静かな旅立ちだったそうだ。それを聞いて、二人はほっと胸を撫でおろした。
「王都の火葬場にも記録が残っていたそうだ。遺骨という形で本国に連れ帰ったものと思われる。そのままでは長期間の船旅には障りがあるからな」
王国では土葬にすることが多いが、許可さえ下りれば火葬も許されているということだった。長距離輸送の必要がある場合がそれだ。死肉を好む魔獣に墓を荒らされることを防ぐために、火葬が推奨されている地域もある。
「そうか……しかし、家族とともに故国に帰れたようで良かったよ」
そう言ってアレクは、白ワインを注いだグラスを静かに掲げた。献杯のつもりのようだった。皆がそれに倣う。
「で、だ。この件でセイデリア家が住んでいた港町エーランドの役所を調べたまさにその日の夜、ちょっとした騒ぎが起きてな。無断で住民の記録を持ち出そうとして捕まったフランシスという職員の男が、なんとセーデシュテン伯爵の次男、つまりヴェロニカの次兄にあたる人物だったんだ」
「えっ」
「なんだと?」
「次男で跡継ぎではなかったフランシスは、独立した後に知人の伝手でエーランドの役人になっていたのだ。十四年前には住民課に籍を置いていた。セイデリア家の国外転出とヴェアトリス嬢の他領転出の手続きを担当したのもこの男だったよ。まだ調べている最中だが、恐らくヴェアトリス嬢の死亡届を握り潰して、ヴェステルヴァル領に転出したように偽装したのはこの男だ。ヴェアトリスの転出届の日付は、セイデリア家が出国した後のものになっていた」
セイデリア家では娘の死亡届を当然役所に提出したはずだ。もしかしたら彼らには、この死亡届が正しく受理されたように見せかけていたかもしれない。その後出国してしまえば、恐らくは二度とストリィディアに戻ることはないだろう彼らに、このことが気付かれることはまずない。
そう思っていたのに十数年も経ってから突然捜査が入り、フランシスは慌てて証拠隠滅しようとしたのだろう。
「ヴェロニカの死亡届も同日付で王都の機関に受理されている。死因は服毒による中毒死。王族に対する傷害罪で五年間服役し、出所後一ヶ月で社交界での悪評を苦にして自ら命を断ったということになっている。事情が事情だけに葬儀は内々で執り行い、早々に埋葬されたために遺体の確認はできなかったようだが、届け出に特に不審なところはなくそのまま受理されたとのことだ」
「それは俺も聞かされた覚えがある。しかし媚薬の件から五年も経っていたからな。確かそのときも『そういえばそんな奴もいたな』くらいにしか思わなかったな」
「なにせあらゆる方面から狙われていたからな、お前は」
ヴェロニカにしてみれば必死だったのだろうが、秘密の恋人がいたアレクにとっては数多いる婚約希望の令嬢の一人に過ぎず、ほとんど印象には残っていなかったのだろう。
だというのに家族の計らいで他人の人生を手に入れたにもかかわらず、彼女はアレクへの想いを拗らせてこのような暴挙に走った。
ヴェロニカは今のところ黙秘しているらしい。
しかし、十四年前当時から彼女に仕えていたルード――あの鳶色の髪の青年だ――は、およその犯行動機を自白したそうだ。遡ること十四年前には既にその兆候があったとも。
ルードは十四年前、王都の職業斡旋所で紹介された「別荘の女主人の話し相手と身の回りの世話」の仕事の面接時に、髪色と瞳の色を気に入られて採用が決まったという。
面接をしたのは当時五十前後のセイデリア姓の商人で、人相風体からしてセーデシュテン伯爵に間違いないようだ。功名心が勝った末の暴挙とはいえ、娘が少なからず第三王子に好意を抱いていることに気付いていた伯爵は、せめて容姿だけでも似た男を宛がおうとしたのだろう。
当時まだ十六になったばかりだったルードは、髪色や瞳の色はおろか、近親者や親しい友人の有無にまで言及されたことにはあまり疑問を抱かなかった。孤児で学も教養もなく、帰る場所もない彼にとって、住み込みで衣食住の保証までされている上級使用人の職を得たことは奇跡のようなもので、こんな好条件の仕事にありつける機会が今後もあるとは思えなかったからだ。
「近親者や友人の有無を、ですか?」
「ああ。外部と連絡を取られる可能性を少しでも潰しておきたかったのだろう。その点孤児は都合が良かった。家族が訪ねてくる心配もないからな」
「なるほど、そういう……」
同じく王都で雇われた使用人数名とともに訓練を受けてからヴェステルヴァル領に移ったルードは、ヴェアトリスと名乗る女主人のもとで新生活を始めた。彼女が特定の髪色と瞳の色の組み合わせを持つ男に思い入れがあることに気付いたのは、この女主人が現地で似たような風体の従僕を雇うようになってからだ。
それでも数年は穏やかな日々を送ることができていた。女主人は全ての使用人に個室を与え、家族のように大切に扱った。使用人を連れて観劇やピクニックに出掛けることも珍しくはなかった。
使用人一同も親切な女主人を慕い、疑似家族のような主従関係にも概ね満足していた。
しかし、従僕の一人がメイドと男女の関係になってしまったあたりから女主人の様子が変化した。
ある程度の自由が許されているとはいえ、基本的には閉鎖的な空間だ。そこで働く若い男女の間に特別な感情が芽生えることは、当然の成り行きでもあっただろう。
けれども女主人はそれがひどく気に障ったようだった。
使用人、特に同じ色で揃えた男性使用人たちへの彼女の想いは家族に対するそれではなく、むしろ取り巻きや恋人に近いと気付いたのはこのときだったとルードは語った。彼女にとって彼らは自らの所有物であり、それがほかの女のものになることは許せなかったのだろうとも。
この件が発覚したとき、女主人は屋敷の風紀が乱れるという理由で全ての女性使用人を即座に解雇した。その中にはルードが密かに交際していた娘もいて、自身と同じように身寄りのない彼女たちの身を案じた彼は、女主人の異常を訴える手紙を持たせて本来の雇い主である「旦那様」の元へと向かわせた。
しかしルードの期待に反して「旦那様」は、なるべく娘の意に沿うようにと言うだけだった。
犯罪行為も辞さないやり方で次々と同じ髪色と瞳の色を持つ少年を雇い入れるようになり、危機感を募らせたルードは何度も「旦那様」に相談したというが、かわいそうな娘だから大目に見てやってくれと言うばかりで何の役にも立たなかったという。
それどころか、「旦那様」の別邸に雇われていた恋人を盾にされては従うよりほかはなく、誰にも相談できないままここまで来てしまったということだった。
取り調べ中に彼が懐から取り出したのは、葡萄酒色のリボンで結ばれた一房の巻き毛だ。リボンはかつて恋人に贈ったもので、この巻き毛も彼女の髪に相違ないということだった。恋人への無体を匂わせるこんなものを手渡されては、「旦那様」に従わざるを得なかったと。
最終的にヴェロニカが望んだのは、栗毛に紫紺色の瞳を持つ竜の英雄で、この男が失踪中の王族だと聞かされたときには、さすがに死を覚悟したという。
万が一にも本当に王族だったならば、こんな強引なやり口で繋がりを持とうとしている女主人は必ず罰せられる。追従したルードも無罪放免とはならないだろう。
しかし、逆らえば恋人の命はない。それどころか部下や彼らの家族の命運まで決まると匂わされては、心を無にして従うしかなかったと。
薄気味悪い女主人の屋敷、ヴェステルヴァル領のビヨルクハウスには似たような状況に置かれた男が幾人もいて、ルードはなんとかして彼らも助けてくれと涙ながらに懇願したそうだ。
「彼らには十分なケアと支援をしてやってくれ。可能な限り寛大な対応を願いたい」
「勿論だとも」
クリストフェルは受け合った。
「ヴェステルヴァル辺境伯の協力も得ねばなるまいが、彼らには専門家の治療を受けさせるつもりだ。なにより王族がそういうのであれば、でき得る限りそれに沿うさ」
ビヨルクハウスでアレクの身代わりを務めさせられていた青年たちは、別荘地での捕り物の後、数時間以内に無事保護されたとのことだ。不当に屋敷に留め置かれて外出制限はかけられていたものの、それ以外では大切に扱われていたことだけは不幸中の幸いだっただろう。
彼らはヴェステルヴァルとトリスヴァルの辺境伯家でそれぞれ預かり、心身――主に精神面でのケアをした後、折を見て郷里に返すことになったという。此度の事件に加担した者についても情状酌量の余地があるといい、軽い刑で済むだろうということだった。
王都ストリィドのセーデシュテン家には強制捜査が入り、伯爵は捕縛された。人質として別邸で働かされていたルードの恋人は保護された。幸い彼女は何も知らされてはおらず、年季が明けたら一緒になろうというルードの言葉を胸に、この数年を過ごしてきたという。
脅迫に使われたあの一房の髪は、散髪で切り落とした一部が利用されたに過ぎなかった。決して根からの悪党ではなかった伯爵は、愚かな娘が再び犯した罪を隠したいがために、何の罪もない若者たちに犠牲を強いたことをひどく悔やんでいるという。
なお、亡き王太后の筆頭侍女だった伯爵夫人は、ヴェロニカが服役中に他界している。娘が犯した二つ目の罪を知らないまま旅立てたことは、夫人にとっては幸いであったかもしれない。
ヴェロニカの次兄フランシスは、文書偽造の罪で捕縛された。妹の最初の事件後に姓を変えて家を出ていた彼だったが、生家との交流は途絶えてはおらず、父親の苦悩を知っていた。ヴェロニカに他人の籍を与えることを思い付いたのも、妹のためというよりはむしろ、父親を案じてのことだったようだ。
王族の機嫌を損ねたばかりか前科がついた娘の扱いを持て余していた父の苦悩を知っていた彼は、ある日提出された死亡届の故人のイニシャルと年齢がヴェロニカと同じことに気付き、成りすましを思い付いたという。一家はこれを機に本国に戻るつもりでいるといい、これはまたとない好機とみたフランシスは、妹の偽装死とヴェアトリスの籍の乗っ取りに手を出してしまったというわけだ。
持て余してはいるが、家の恥として引導を渡すには忍びなく、であればせめて別人として再出発させてやってはどうか。次男からこの話を聞かされた伯爵は、娘可愛さに企みに乗ってしまった。
別荘の処分に困っていたセイデリア家に買い取りを持ち掛けていたのもフランシスで、買い取った後にこの別荘がヴェアトリスに譲渡されたように偽装したという。
セーデシュテン伯爵と次男フランシスにどのような刑罰が科せられるかはまだ分からないが、少なくとも今回の事件の首謀者であるヴェロニカは、終身刑になるだろうということだった。
死者はなかったとはいえ、疑似家族を形成するために屋敷に連れ込んでいた男の半数が未成年者であったことと、王族の誘拐未遂やその妃となる人物に対する加害の罪は重く、累犯者であることも加味すれば終身刑が妥当。
動機も別荘で彼女が口走った通りに、社交界への復帰と王兄との婚姻が目的というあまりにも身勝手なものだった。
王子時代のアレクに対する薬物使用と、未遂とはいえ性加害で投獄された身で、どうして今更その罪が許され、あまつさえ被害者だった彼との婚姻が許されると思ったのかは分からない。
これは後から聞いた話だが、彼女と面会した医師が言うには、罪を犯したという事実からの現実逃避で、罪を犯さなかった自分、陥れられた自分という「もしも」の想像を繰り返すうちに、あたかもそれが現実だったかのように記憶が書き換えられていったのではないかということだった。
これは健常者でも起こり得ることで、診断の結果、犯行当時のヴェロニカは正気であったという結論が下された。本人も面会を繰り返すうちに現実と自らの記憶の乖離を認識するようになったらしく、捕縛されてから一月後にようやく罪を認めたそうだ。
なお、地下への落下時の怪我は程度が重く、後遺症が残るだろうという話だ。愚かな行為の代償はあまりに重く、彼女は後遺症を抱えたまま一生を牢獄で過ごすことになる。
トーレに関しては、今回の件はシオリへの接触があったとはいえ罪に問えるようなものではなく、アレクの王族籍復帰が公表されるまで辺境伯家で身柄を預かることになったそうだ。落下時の怪我も受け身を取ったからか完治するとのことで、今後の生活に何ら支障はないようだ。
「今回の件で彼も随分反省したようですから……もう絶対にかかわりたくはありませんけど、健やかに暮らしてくれればと思います」
あの気弱で流されやすい彼が、あれほどの決意を秘めた目を見せるとは思わなかった。
あれは覚悟を決めた男の目だ。
もう彼自身の意志で接触してくることは二度とないだろう。そして真っ当な人生を送ってくれるだろうと、どこか確信めいた思いがあった。
「あの男には解放後も監視が付く。何かあれば次はない。しかし、更生して真人間になってくれることを我々も願っているよ」
そう言ってから、クリストフェルはちらりとザックに視線を流した。その次にはアレクにも。
三人の男たちの間で交わされた視線の意味は、すぐ分かった。
「……シオリ。暁の事件でもう一人生き残っていた男が、今どうしているか訊きたいか?」
アレクの言葉に、シオリは目を見開いた。
もう一人の生き残りというのはランヴァルド・ルンベックのことだ。先代のギルドマスターで、暁の事件の主犯だった男。ザックが、「もう二度とお前を煩わすことはない」とまで言い切った男だ。
この様子では、あの事件についてアレクも随分深いところまで知らされているのだろう。恐らくは、被害者であるシオリにさえ伏せられた、何がしかの事実までもだ。
「……聞いていいなら、聞いておきたい」
ザックが言い切っていたから安心してはいたものの、今回のように第三者が手引きするという可能性もある。
ただ、三人の様子から察するに、多分――。
果たして、アレクは言った。
「処刑されたよ。詳しいことはあまり話せないが、国際問題に発展するレベルの余罪があった。だから、あの事件の後間もなく処刑されたそうだ」
「……そっか」
なぜ自らが被害者となったあの暁の事件が立件されなかったのか、腑に落ちた。
きっと、あの事件の背後にあったものがあまりに大き過ぎて、大事にするわけにはいかなかったのだ。
「――すまなかった」
クリストフェルが唐突に頭を下げ、その予想は確信に変わる。
「その件では君に辛い思いをさせた。不安もあっただろう。なにより私のお膝元であのような事件が起きてしまったこと、この地を治める者として慚愧に堪えない」
領主と言っても領民一人一人を見守ることなど到底できないだろうに、それでも彼は自らの不徳の致すところだとシオリに頭を下げた。
「いいえ、閣下は十分心を砕いてくださいました。竜討伐の会議のときにも、私が不利にならないように動いてくださったじゃありませんか。私が今こうして安心していられるのは、閣下のお陰でもあるんです。ですから頭を上げてください」
これは結果論でしかないとシオリ自身も分かっている。自分がアレクの恋人でなかったら、多少なりとも有益な人材だと示すことができなかったら、ここまでのことはしてもらえなかったかもしれない。
しかし、クリストフェルもまたそれを理解したうえで、それでも一個人として謝罪せずにはいられなかったのだろうことは、これまでの付き合いの中でその人柄に触れてきたシオリには、十分に察せられた。
国境地帯防衛のために大きな権限を与えられた辺境伯という立場上、大事の前には小事を切り捨てる判断を迫られることもあるだろう。それでも人としての心を失ってはいない彼を、決して嫌いにはなれなかった。
――竜討伐のとき、友や部下を最前線に送り出したときの彼の表情は、今でも覚えている。祝勝会のときに見せた、今にも泣き出しそうな顔もだ。
「……ありがとう。そう言ってもらえると、少しは報いることができたかと思えるよ」
クリストフェルがほっとして肩の力を抜いたのが分かった。
彼は彼なりにずっと気に病んでいたのだろう。
「兄さん。兄さんも、色々とありがとう」
ザックも多分あの事件の処理で、何がしかの役割があったはずだ。
何をしたのかは分からないし、訊くつもりもない。ただそれでも、ずっと案じてくれた兄貴分に、一言でいいから今の気持ちを伝えておきたかった。
ザックはひどく驚いた顔をした。ほんの少し目を伏せ、随分長いこと黙っていた。しかしやがて顔を上げた彼は、微笑を浮かべて「ああ」と頷く。
ふと、その場の空気が軽くなったような気がした。
きっと、今ここでようやく区切りがついたのだろう。
その後しばらくは誰もが無言で酒を傾けた。
「――それにしても、こんなに広い範囲に及ぶ事件だったのに、この数時間でここまで解決するとは驚きました」
「ああ、それはな」
クリストフェルの視線がザックに向く。
ザックは懐から通信筒を取り出して見せてくれた。シンプルな金属製の筒に、稲妻とハヤブサを模した紋章が小さく刻まれている。
「親父に頼んで、通信用に秘蔵のサンダーバードを出してもらったんだ」
サンダーバードと言っても、シオリがよく知るような雷鳥ではない。
平均時速三百五十シロメテルという生き物にあるまじき超高速で飛ぶこの魔鳥は、一般の郵便なら王都まで五日は掛かるところを、往復二時間で行き来してしまうという。だから八時間もあれば、それなりの結果を持ち帰ることもできるだろう。
オリヴィエル王自ら動けばもっと早くの解決もできただろうが、彼は数日後の会談のために既に王都を発っていた。そこで代わりに王都方面の陣頭指揮を執ってくれたのが、ザックの実父にして元宰相フレードリク・フォーシェルだった。ザックはトリスヴァル方面の指揮官を務めたという。
持てる権限と人脈、そして特別手当を約束して公爵家の雷隼を総動員し、超特急で王都とエーランドの問題を片付けてしまったというわけだ。
「なんという……」
権力者が本気を出せば、これだけのことができてしまう。敵に回れば恐ろしいことこのうえないが、味方である限りはこれほど頼りになるものもない。
二人のやりとりを黙って聞いていたアレクは、ここで深々と頭を下げた。
「今回のことで、かなりの範囲に迷惑をかけた。クリス、ザック。シオリも……親父殿まで巻き込んでしまって、本当に申し訳ない」
彼自身に責任などあろうはずもないが、それでも根は真面目過ぎるほどに真面目な彼は、責任を感じているようだった。
けれども、この場にいる誰もが彼に非がないことを知っている。
「――アレクよぉ。そういうとこぁ、若ぇ頃と変わんねぇな」
初めに口を開いたザックの顔には、微苦笑が浮かんでいた。
「こういうときはな、ありがとうって言えばそれでいいんだよ」
目を見開いたアレクは、「だが」と言いかけて口を噤んだ。
ザックとクリストフェルの眼差しは優しく、シオリとて責める気は毛頭なかった。
シオリはアレクの手にそっと自らのそれを重ねた。
しばらく黙って三人を見つめていた彼はやがて、静かに頷く。
「……ありがとう」
ザックとクリストフェルは満面の笑みを浮かべてアレクの肩を何度も叩き、そして空になっていたグラスを満たしてやった。
それを飲み干すまでの間、シオリと繋いだままの手は、解かれることはなかった。
ルリィ「次回、自宅で料理編! 蟹料理再び」
いっぱい獲ったからね_(:3」∠)_




