35 幕間二 悩みは尽きない(カスパル、ビョルク翁)
農村の朝は早い。ブロヴィート村の人々も農産物の収穫期が集中する夏は午前三時頃から起き出して、領都や近郊の町への出荷作業に追われていた。
街道の整備と輸送技術、予冷技術の発達によって傷みやすい農産物の遠方への輸送ができるようになり、出荷量は三十年前より格段に増えた。人手はいくらあっても足りず、この季節は外からも人を雇って安定した出荷量を確保していた。
目下の課題は天候に大きく左右される品質と収穫量をいかにして維持するかだ。
昨年初冬の雪狼襲撃事件を切っ掛けに、村長を始めとした村の重鎮は近年観光業に偏重傾向にあった政策を見直すことにしたようだ。このところは連日のように朝早くから農地を視察し、専門家の意見を仰いでいる。
その横を、収穫物を満載にした籠を担いだ村人とスライムが通り過ぎていく。
――活気に溢れた夏の朝のブロヴィートは美しい。
いつもの警邏任務をこなしながら、カスパルは口の端に笑みを浮かべた。
前任者レオ・ノルドマンが瀕死の重傷を負って隊長職の任を解かれることになり、急遽己が赴任することが決まったときには務まるものだろうかと些か不安ではあった。
実際、赴任時のブロヴィートはさながら野戦病院のような有様で、これを指揮しろと言われて一瞬眩暈を覚えたほどだ。
その後も村人の恐怖心が薄れるまでは仮眠もままならぬ状況だったが、それでもカスパルはこの村に愛着を持ち始めていた。
寛容で人懐っこく、まるで生まれたときから家族であったかのように接してくれる村人達、急速に発展しながらもこの村本来の持ち味を損ねないように配慮された素朴な街並み、地平の彼方まで続いているかのように錯覚させるほど雄大な農場の風景。そんな村を抱くように広がる蒼の森の清廉な空気。
なにより、飯が美味いというのはいい。
採れたてで瑞々しく味が濃い野菜も、旨味が強く脂身まで美味い肉や新鮮な卵も素晴らしいが、前任者が残したレシピを遵守した駐屯地の食堂の料理は、妻の手料理を思わせる味わいで飽きが来ず、カスパルの気に入りの一つとなっている。
朝の警邏任務を終えたあとに食べるベーコンエッグと焼き立てのチーズパンは格別だ。多めの油でカリカリに焼き上げてあるベーコンと目玉焼きの縁に、熱々の内に齧り付く瞬間が堪らない。
油断なく周囲に目を走らせながらも頭の中でそんなことを考えて現実逃避していたカスパルは、川べりの岩に腰を下ろしている老人に気付いて我に返った。
「……おはようございます。今日もお早いですな」
「……おう。隊長さんこそ朝から精が出ますな」
隻眼の元猟師ビョルク翁は首だけで振り返ると、白い歯を見せて笑った。だがその目は全く笑ってはおらず、向き合うカスパルもそれは同じだった。
別段嫌い合っている訳ではない。むしろ歳の離れた友人という間柄だ。
ではなぜ笑えないのかと言えば、それは互いが腕に抱えているものに理由があった。
――陽光を透かした紫水晶のように輝く仔狼。
フェンリル、もとい雪狼の変異種の赤子である。
ヴョルク翁の腕の中の仔狼はちょうど哺乳瓶から乳を飲み終えたところで、満足げに「ぷきゅぅ」と鳴いた。その傍らでは一回りほど大きい仔狼が、子犬用の毬にじゃれついて遊んでいた。
カスパルの腕の中にも一匹の仔狼がいて、こちらは好奇心に金目をきらきらさせている。
三匹ともすっかり二人に懐いていて、親愛の情を湛えた汚れなき眼にじっと見つめられて何故だか居た堪れなくなった二人は、静かに目を逸らした。そして互いに無言で視線を交わし合い、「本当に何の冗談だ」とばかりに何度目になるかも分からぬ引き攣り笑いを浮かべた。
かつては伝説の幻獣フェンリルと呼ばれていたこの魔獣が、実は雪狼の変異種らしいことが知れたのはごく最近のことだ。先日これの調査を依頼した冒険者が、調査どころか「本人」を連れ帰って村を震撼させたことは記憶に新しい。
異端として同族から迫害を受けていた件の変異種はそのままその冒険者の善き友となり、人の世界で暮らすことを選んで故郷の森を去った。
――と、ここまでは絵に描いたような美談だ。問題はこの先である。
雪狼に一定確率で生まれるこの変異種は、彼らの中にあっては迫害対象である。雪狼でありながら雪狼にはあり得ない色と体躯に恐怖と嫌悪を抱くらしく、群れを乱すとして赤子のうちに処刑または追放する仕来たりであるらしい。
しかし彼らとて心を持つ生き物。
異端とはいえ生まれて間もない我が子を殺すのは忍びなく、さりとて破って許されるほど雪狼の掟は甘くはない。
だから泣く泣く我が子を手に掛けるか、危険を冒してでも密かに匿って育てるか、それとも万に一つの可能性にかけて放逐するかのいずれかだった。
だがここで人間と縁を繋ぎ、彼らとともに生きる道を選んだ個体が現れたことで、異端の子を持つ雪狼たちは「その手があったか!」と色めき立った――かどうかは定かではないが、その推測は恐らくそれほど外れてはいまい。
現にこうして既に三匹もの仔狼が村に預けられているのである。殺さざるを得ないのであればいっそ、人間に預けて生き延びさせた方が遥かに良いということなのだろうが、預けられた側としてはなんとも複雑な心境である。
最初の一匹がふわふわの綿毛草に包まれて村の入口に置かれていたときには、驚きよりもむしろ「なるほど、そうきたか」と感心したものだ。
しかしそれから間もなく二匹目が村外れで雪待鳥の羽毛に包まれた状態で発見され、若干呆れながらも二匹を育てる環境を整えたところで三匹目がスライムに預けられて運ばれてきたときには、さすがのカスパルも「ここは孤児院じゃないんだぞ!」と蒼の森に向かって叫んでしまった。
確かに殺すよりは遥かにまともな選択と言えるが、気高くプライドの高い魔獣と思っていた雪狼の意外にちゃっかり者な一面を知ってしまったカスパル達は、なんとも言えない気分になったものだ。
しかもだ。
預けっぱなしにするのも申し訳ないと思っているのか、どうやら交代で様子を見に来ているような節があるのだ。
大抵は森の中からちらちらと様子を窺っているだけなのだが、大胆なものになるとスライムを引き連れて、いかにも「私はただの通りすがりです、無害ですよ」と言わんばかりに村の周囲をぐるりと散歩していく猛者もいる。勿論その目線は牧畜犬と戯れている紫色の仔狼である。そんな目立つことをしたら群れでの立場が危うくならないかと逆に心配にもなるが、ここまでくるともういっそ村に入って子守りでもしていったらどうかと提案してやりたいほどだ。
手土産のつもりなのか、時折様子見ついでに立派な雪待鳥や一角兎などを置いていくこともある。
つい先日などは、「伝説の幻獣フェンリル」の仔を攫って一儲けしようと村に忍び込もうとしたならず者を、どこからともなく颯爽と現れた二頭の若い雪狼が撃退していくという出来事があって、肝を潰したものだ。
おかげでブロヴィート村は、雪狼に襲われた村という些か印象の悪い呼び名を返上して、雪狼の加護を得た村と呼ばれるようになってしまった。
「ここまでするくれぇなら、片意地張らずに手許で育ててやりゃあいいじゃねぇか……」
ビョルク翁がぼやくのも無理はない。全くその通りだとカスパルも思う。
思うのだが、物語のように上手くはいかないのが世の常であろう。しきたりや掟を覆すのは容易ではないということは、人間であるカスパルにもよく分かる。
(――なにしろこの短期間でもう三匹目だ。であれば、「フェンリル」が生まれるのもそれほど珍しいことではないのだろう。きっと、これまでに決して少なくはない数の赤子殺しが行われてきたのだろうなぁ……)
殺しを厭わないほどの厳格な掟。そこから我が子の命を、人間を頼ってでも救いたいという親心は理解できた。
だからこそ、釈然としないながらもブロヴィートの人々はこの変異種の魔獣を育てることに決めたのである。
子供の本能的生存戦略なのかどうか、三匹の仔狼はどれも人懐っこく、あまり手間は掛からない。だから手の空いた者が交代で彼らの面倒を見ることになっている。そのうちの一匹は妙にカスパルに懐いてしまったために、騎士隊預かりとなった。今は無邪気で愛くるしいが、いずれは立派な「騎士」になってくれるかもしれない。
言いたいことは山ほどあるが、それはそれとして「子供」は可愛いのだ。
(……仕事は増えたが、まぁ……未来ある子供を護るのも騎士の務めだ)
なんだかんだで絆されてしまっているカスパルは、アメティスティと名付けた仔狼の頭をそっと撫でた。
――どう見ても成獣と思われる「自称迷子」の四匹目が保護されたという報せが入って思わず膝から崩れ落ちたのは、この僅か数十分後のことである。
それから数年のうちにブロヴィートがフレンヴァリ公の支援のもと、稀少魔獣研究の地としても名を知られるようになることなど、カスパルもビョルク翁も知る由もなかった。




