29 祝勝会(1)
何故か慌てた様子のアレクに連行されて、風通しの良い木陰で火照りを鎮めていたシオリは、そのままうとうとしてしまった。
次に目を覚ましたときは十八時を回っていた。アレクも隣で眠ってしまっていたようで、「さすがに寝過ぎたかもしれんな」と言って苦笑いした。
それでも初夏の空はまだ明るく、本陣は活気に溢れていた。夕食時には細やかながらも祝勝会を開くとあって、騎士達もどこか浮付いている。
「祝勝会かぁ……って、夕食時ってことは食事も出るんだ」
「そういうことになるな……」
何故か全く心が躍らないのは、ニルスとエレンから聞いた話を思い出したからだ。
贅沢を言う質ではない彼らをして「とんでもなく不味い」と言わしめる料理だ。あまり口にしたいとは思わないが、状況が状況なだけに断ることもできない。
幾分肩を落としながら衛生隊の天幕に向かった二人だったが、「今日はレオさん監修の料理なんだってさ。料理上手って話らしいから、いつかみたいなことにはならずに済みそうだよ」と真顔のニルスに教えられて、ほっと胸を撫でおろした。
「レシピを配布してちゃんと作らせてるって。やっぱり色々と思うところがあったみたいでさ」
「そ、そうですか」
「料理を覚えたのも、休日くらいは美味しいもの食べたいって、自分で作るようになったかららしいし」
「……やっぱり不味かったんだな……」
後方支援ゆえにあまり噂になることはないようだが、風呂といい食事といい、士気にかかわるところから着実に改善を進めているようだ。
「というか、そもそも体調にかかわるところだからそこは一番に改善してほしいかな。味はともかくとしても、生煮えは良くないし、あく抜きの意味も知らないと毒をそのまま摂取することになるし」
「ごもっとも……」
中にはすぐに症状は出ず、蓄積していく種類の毒もある。身近な食材にも毒性のある部位を取り除かなければならないものは多い。
こういった知識の欠落は、調理済みのものを食べることに慣れた上流階級出身者に多いようで、騎士隊でも教育の必要性を訴える声は実は以前からあったのだそうだ。
「貴族階級しか騎士になれない、専属の従者を持つのが当たり前だった時代の名残だよ。料理以前に食料調達もできない騎士は今でも普通にいるんだ。炊事訓練だって適当に流す奴が多くて。手持ちの野戦糧食だけだと、いざってときに困るんだがねぇ」
作業しながら聞き耳を立てていた年配の衛生兵がぼやく。心当たりがあるのか、治療中の騎士の何人かが居心地悪そうに目を泳がせた。
「コカトリス丸焼き事件などはもはや伝説ですな。羽も内臓も取り除かないまま丸焼きにして、異臭を放ち毒が滴る肉にした」
「あれは毒以前に臭いの公害だったな。騎士服と天幕に臭いが染み付いて大変だった」
「遠征期間中、鼻が曲がる思いで過ごしましたな」
「貴重な野生のコカトリスを、あんな……勿体ない……」
今度はアレクが首を竦めた。心当たりがあり過ぎるのだ。
そのアレクと一緒に野鳥肉を台なしにした仲間のクレメンスは、今は眠っていた。浅い眠りと短い覚醒を繰り返しているようだった。
「さっき一度起きたんだけどね。薬だけ飲んでまた寝ちまったよ」
汗で額に貼り付いた銀髪をそっと払いのけながらナディアは言った。
その指先はそのまま顔の輪郭をなぞり、頬で止まった。何度か優しく撫で、そして頬に添えるようにして手のひらを押し当てる。その熱と柔らかさを確かめるような手つきは、そのままナディアの心情を表しているようにも思えた。
――温かい。生きている。
「……今後の治療はどうするか決まったのか」
「ニルスの世話になることにしたよ。最初は騎士隊の医療施設にって話も出たんだけどね、やっぱり気心が知れた相手の方が精神的にも落ち着くだろうからってさ」
ニルスの薬局には簡易的な入院設備がある。そこにエレンが通う形で治療することになるということだった。
「そっか。それなら安心だね」
「僕のところなら食事の面倒も見られるしね。薬膳粥も大分形になってきたし」
「わぁ。滋養たっぷりで美味しそう」
「というか……味は大丈夫なのか。いつぞやの栄養剤のような……」
「そこはちゃんとクリアしたから大丈夫だよ。今日渡したのだってそんな酷い味じゃなかっただろ」
枯れ葉と泥を安ワインで煮詰めたような栄養剤の味を思い出して顔を引き攣らせたアレクに、ニルスは苦笑いした。
「それもそうか。なら安心だな」
「なんだかなぁ……まぁいいや。シオリ、食材の栄養成分のことで訊きたいことがあるから、今度相談に乗ってよ」
「ええ。じゃあそのときには声を掛けてください」
あまり長居するのも良くはないと、短時間で見舞いを済ませて天幕から出た二人は、どちらからともなく何度目になるかも分からない安堵の息を吐いた。
「ほんとに……無事で良かった」
「ああ。もう、大事な誰かを亡くすのはまっぴらだ」
いつかその日が来ることは避けられないけれど、それはずっと遠い未来であればいいと切に願う。
しばらくの間、二人手を繋いで無言で歩いた。
人々の喧騒、風が吹く音、木々の葉擦れの音、鳥の鳴き声。
来たときに感じた、張り詰めたような静けさは既になく、いつもと変わらない音が溢れている。
「おっ。戻って来たな」
「あ、ほんとだ」
竜の脅威から逃れていた鳥達が、北から南からと次々に飛んでくる。
本陣の上を横切る大きな影は、ヴィゾブニルだろうか。あの中に竜のことを教えてくれた個体もいるのだろうかと、ふと思った。
「面白いよね。ずっと遠くに行ったはずなのに、もう情報が届いてるのって」
「そうだな。情報伝達はきっと俺達人間より遥かに優れているのだろうな」
平穏が戻ったという噂が広まれは、魔獣暴走から逃げ延びた生き物もいずれは戻ってくるだろう。
けれども戻らない種類もあれば、遠方から戻るときに元々は棲息していなかった種類を持ち込むこともある。そうして魔獣暴走前とは異なる生態系を築くこともあるという。
今回、二百年近くもの間ディンマ氷湖で眠り続けていた竜がいなくなったことで、氷湖周辺にも少なからず影響があるかもしれないということだった。
「これは魔獣暴走が起きた地の宿命でもある。俺達が足掻いてどうにかなるものでもないから、粛々と受け入れるしかないんだろうな」
「そっか……ん?」
「……何か臭うな。生臭い」
氷湖の竜と巨木の森に想いを馳せていた二人は、不意に漂い始めた異臭に眉根を寄せた。その臭気は徐々に濃くなる。臭いの発生源が近付いているのだ。
「あー、シオリ、いいところに!」
その臭いの根源である男が意気揚々と手を振った。そのもう片方の手は、鳥肉で山盛りになった桶を抱えている。連れ立って歩いていたヨエルも両手いっぱいに鳥肉を抱えていて、こちらは釈然としない顔付きをしていた。
既視感を覚えたシオリは、この後の展開が予想できて思わず噴き出してしてしまった。
「唐揚げですか」
そう言うと、リヌスは「うん」と笑った。
「まぁ、シオリの疲れ具合にもよるから無理には頼まないよ。難しそうなら焼き鳥にするし」
「大丈夫ですよ。あ、でも小麦粉と油……」
「それなら鳥の羽で給養隊と物々交換してきたから大丈夫!」
「相変わらず用意周到だな……」
「美味しいものを食べるためならそのくらいはねー」
「というか、この鳥肉は一体どこから」
「起きたらちょうどグリンカムビが戻ってくるところが見えたから、巣に先回りして獲ってきた」
「お前、本当に凄いな……」
「寝起きで強制連行された俺も褒めて……」
グリンカムビは大陸北部の限られた地域にしかいない、鶏に似た金色の鳥だ。繊細な黄金細工のような羽毛は装飾品としての価値が高く、旨味が濃く歯応えがある肉は高級料理店にも需要がある。
しかし価値が高いというからには、「見つけたから獲ってきた」で簡単に済ませられるようなものではないはずだ。
けれども、食事の楽しみが増えるのは嬉しい。
もっとも、帰宅したら待ち構えていた侵入者に襲われたグリンカムビにとっては悲惨以外の何物でもないだろうが……。
「……ブロヴィートのときにさ、怪我人のためにスープ作ってたなって思い出したんだよ。あのときみたいに赤身肉じゃあないけど、鳥レバーって血を流しすぎた人にはいいとかなんとかって聞いたから」
「ああ……覚えてたんですね」
「うん。美味い肉が食えて、怪我人の回復も早まるなら一石二鳥だろ」
解体した肉の中には、内臓から取り分けたレバーもある。ついでにどこかで摘んできたのか、ヴァテンクラッセの束もあった。
「そういうことなら、是非私に作らせてください。妊娠初期の人にはレバーはあんまりよくないみたいですから、マレナさんのはレバーを控えめにしましょうか」
「え、妊娠? マレナ? なんのこと?」
「おめでただそうだ。ルドガーが大騒ぎしたらしいから、もう皆には伝わってるんじゃないか」
「ファ――――――!?」
当然のことながら仰け反るほど驚いた彼は、次の瞬間には腰が抜けたように座り込んでしまった。
「そっか、そっかぁ……いやもうほんと、皆無事で良かったよ……」
「そうだな。だから今夜は、皆の生還を思う存分祝おうじゃないか」
「ご飯、俺のはちょっと多めにくれると嬉しいな……ご褒美が欲しい……」
虚ろな目でぶつぶつ独り言を言うヨエルにレバーペーストの瓶詰を贈呈することを約束して風呂に送り出したシオリは、にこりと笑った。
「じゃあ早速始めましょうか」
今回の遠征には普段ほどの野営道具は持ってきてはいない。
調味料や香辛料も基本的なものしかなかったが、足りないものは給養隊の備品から借りることになった。
「醤油? それならうちのを使うといい」
今回は醤油味はなしかなというシオリの呟きを拾ったレオが、ありがたくもそう言ってくれたのだ。
「醤油、騎士隊でも使うんですか」
「知人に勧められてな。地元のロヴネル領で流行っているという話だ。臭いは凄いが、下味を付けるのに重宝するぞ。ソテーもなかなかの味だったな」
ロヴネル領で着々と販路を拡大している醤油と、そのレシピの大本の出所がシオリと知った彼は、随分と驚いたようだった。
「そうか……人間、どこで繋がっているか分からんものだな」
「そうですね。私も人の縁の不思議をつくづく実感しているところです」
会話しながらシオリは作業を進めた。
メニューはグリンカムビの唐揚げとレバー入り肉団子のスープ、そしてレバーペーストだ。
後学のために手伝うと言って、レオが玉ねぎとヴァテンクラッセのみじん切りをしている間に、レバーの下処理を始めた。表面の脂肪や血管などの不要な部分を取り除き、一口大に切って水洗いする。
「俺も手伝うか」
「うん。じゃあ、血抜きしてもらえるかなぁ。水に浸けて、濁ってきたら取り換えるの。それか、ちょっと大変だけど流水に当てるか……」
「流水か。それなら魔法でやろう」
彼は早速レバーを入れた大鍋に水を張り、少しずつ水を流して血抜きを始めた。静かに溢れた水が、細い川となって流れていく。
匂いを嗅ぎ付けたのか、いつの間にかやってきていたルリィとブロゥがその水を飲み始めて、三人は小さく噴き出した。
「生臭くない?」
そう訊ねると、新鮮な血入りの水は美味いとでもいうように触手でしゅるりと丸を作ってみせた。
「そっか。でも後でご飯食べられなくなるから、ほどほどにね」
勿論スライム達は片隅に置かれたバケツいっぱいの内臓も確認済みで、分かったというようにぷるるんと震えた。
ヴィオリッドは少し疲れたのか、今はそばの木陰でうとうとしている。その周りには相変わらず使い魔達が侍っていて、垣根のない交流をしている彼らの様子にアレクは目元を緩めていた。
「さて……次はお肉かな」
唐揚げ用の肉はリヌスがご丁寧に切り分けてくれてある。肉団子用の肉を取り分け、残りには全てに下味を付ける。半分は醤油と生姜の調味液に付け込み、半分は塩胡椒と香草を揉み込んでおく。
「うん、もう既にいい匂いだな。楽しみだ」
「だね」
「……我々も楽しみだと言ってもらえるような食事にできるよう、精進する」
「お、おう」
「実際どうなんですか? 改善したって聞きましたけど」
「本腰を入れたのは先月からだな。給養隊はこの一月でだいぶ意識改革が進んだ。今では細かい指示がなくとも、満足のいくものを仕上げてくるようになったぞ。それ以外はまだまだだな。全ての騎士が最低限の調理スキルを持っていることが望ましいとは思うが、なかなか……せめて小隊ごとに炊事専門の人間を置ければと思っている」
「そうですか……というか、今のこれ、聞いて大丈夫なんですかね」
自分で訊いておいて心配するシオリに、レオは大丈夫だと笑った。
「開示できる範囲で話しているから問題ない」
「そっか……それならよかったです」
お喋りしながらも手元は休みなく動いている。
大鍋に油を入れて玉ねぎと大蒜、香草、フリーズドライのセロリを炒め、レバーペースト用に取り分けた後にヴァテンクラッセと水を入れて煮込む。
その間に肉を叩いて粗挽き肉を作り、血抜きしたレバーを刻んで、塩胡椒と小麦粉を入れてよく混ぜ、小さな肉団子を沢山作った。
この作業にはアレクとレオ、手先――といっても触手だが――が器用なルリィも加わり、あっという間に肉団子の山ができ上がった。
「アレク殿、ルリィ殿……なかなかやるな」
「レオ殿こそ」
ぷるるん。
何か妙なライバル意識を燃やしている二人と一匹をよそに、大鍋に肉団子を投下していく。丁寧にアクを取り、それから蓋をしてことこと煮込む。
「次はレバーペーストと唐揚げかな」
取り分けてあった炒め玉ねぎをレバーと一緒にバターでじっくり炒め、白ワインを少しと塩胡椒を入れて水気が飛ぶまで煮込む。あとはフードプロセッサーの魔法でペーストにし、最後に木べらで滑らかに仕上げて完成だ。
匙で一口分をそれぞれの手に乗せ、味見をする。
「ん。あのとき食べたものとはまた違う味わいだな。美味い」
「味は雪待鳥よりも濃いけど、後味は意外に爽やかだね。食べやすい」
「グリンカムビは肉食だが、清流の良質な水草も好んで食べると言うからな。そのせいもあるかもしれん。しかし、これは酒が欲しくなるな……」
「前も似たようなこと言ってた人いましたよ……」
レバー入り肉団子スープも良い具合に煮え、塩胡椒で味を調えて完成だ。あとはレバーペーストを瓶に詰め、唐揚げを作ればいい。
「――作戦会議では連隊長がすまなかったな」
煮沸消毒した瓶にレバーペーストを詰めている間、レオがぽつりと言った。
短期間で色々なことがあって一瞬何のことだか思い出せなかったシオリは、咄嗟の返事ができずに押し黙った。けれどもレオはそれを、確かにあのとき不快な思いをしたのだという肯定の意味に捉えたようだ。
「彼に悪意はなく、一応の意味があってのことだった。だが不快な思いをさせたことは事実だ。連隊長に変わってお詫びしたい。本当に申し訳なかった」
周囲には人目もあって、目立つことを避けてか彼はそれと分かるようには頭を下げなかった。けれども俯けた顔と伏せた目、その真剣な表情からは誠意が感じられた。
「そのことはもういいんです。辺境伯閣下からも謝罪はいただきましたし」
「だが」
「……一応の意味があると言ったが、多分あれは辺境伯閣下の仕込みだったんじゃないのか。恐らく面倒事を起こしそうな部下を炙り出すための」
それまで黙々と瓶詰を手伝っていたアレクが口を挟んだ。
彼も視線を手元に向けたままだ。周囲に怪しまれないための配慮なのだろう。傍目には作業しながら雑談しているようにしか見えないはずだ。
「私も詳しいことを聞いた訳ではないが、恐らくそうだろう。なんだ、もう聞いていたのか」
「いや、まだ何も。だが、そういうことだろうなとは途中で察したよ。閣下とは個人的に付き合いもあるんでな。分からない仲ではない」
「……そうだったのか」
目を丸くしたレオはしかし、すぐに眉尻を下げて微苦笑した。
「だが、不安にはさせただろう。連隊長殿も気にしていた。後で本人からも一言あると思うが、そういうことだから彼もあの場では謝罪できなくてな」
「……まぁ、確かに驚きましたし、とても不安にはなりましたけど。でも、考えがあってのことだったんでしょうから、どうかお気になさらず」
あの余裕のない状況で一芝居打ったのは、先手を打つ必要があったのだとシオリにも朧気ながらに理解できた。
レバーペーストを詰めた瓶を「連隊長さんに」と言って差し出すと、ほんの少し目を見開いたレオは、やがて小さく微笑んだ。
「……ありがとう。あいつもきっと喜ぶ」
「こちらからも、ありがとうございましたとお伝えください」
「ああ、必ず伝えよう」
レオは上官であるスヴェンデンを「あいつ」と呼んだ。きっと個人的にも親しいのだろう。
(この人も、もしかしたら縁に助けられたのかもしれないな……)
負傷による異動の経緯をそれとなく察したシオリは、しかしそれを口にすることはないまま、最後の一品に取り掛かった。
コカトリス「俺氏、完全に美味い肉扱いな件」
※今後も魔獣としての活躍はなさげ




