27 戦場のプロポーズ
竜の旅立ちを見届け、人々が戦後処理のために動き始めてもなお、二人はその場に立ち尽くしていた。
小山ほどもある体躯で歴戦の戦士達を圧倒したこの竜は、王国の喉元に突き付けられた刃だった。皇帝派の残党の思惑通りに、いずれは王国を蹂躙する存在にもなっていただろう。
けれどもその内面は未だ幼き子供。愛と自由に飢えた子供だった。
斃したことに後悔はない。けれどもやるせない想いが募る。
「……幼竜の鱗はこんなに脆いんだな」
シオリの手のひらの上でひび割れて二つになった氷蛇竜の鱗を、アレクはそっと撫でる。
「でも、成竜の鱗はあんなに硬かった。立派に……育ってたんだね」
昏く冷たい湖の底でたった独り、誰に見守られることもなく成獣の身体に成長していた竜の孤独を思い、もう一度二人は静かに祈りを捧げた。
もし生まれ変わったなら、次こそは沢山の温かく優しいものに囲まれた生であるといい。
誰が摘んできたのか、竜の骸に雪菫の花を捧げている使い魔達を見ながら、そう思う。
「大事にしてやれよ。契約もしてねぇ竜から鱗を贈られるなんざ、そうあることじゃねぇ。案外そいつを目印にいつか会いにくるかもしれねぇぞ」
それぞれの手に鱗の欠片を持つ二人の肩を、ザックが叩く。
右腕の大火傷は既に治療されていて、治療術では治し切れない古傷以外はすっかり綺麗になっていた。
その背後、彼の治療を終えたばかりらしいエレンと目が合った。
「エレン……」
彼女がこの場にいるということは。
「無事、終わったわ」
彼女は破顔した。主語はなかったが、それだけで十分だった。
「まだ眠ってるかもしれないけれど、顔だけでも見にいってあげて」
ナディアの姿は既にない。真っ先に向かったのだろう。
「俺ぁまだこっちの処理があるからな。先に見舞ってやってくれ」
言われるまでもなく二人は駆け出した。
疲労と傷の蓄積した身体が今更のように痛んだ。しかし、半ば別れを覚悟していた友の無事の報せの前には、それは些末なことだった。
「クレメンス!」
衛生隊の天幕に飛び込んだ二人を、目を覚ましたばかりの彼が迎えた。
寝台に横たわったまま、それもまだ意識が朦朧としているのか焦点はいまいち定まっていなかったが、それでも彼はこちらを見て微笑を浮かべた。
胸元に顔を埋めて肩を震わせているナディアの背を優しく撫でながら、確かに微笑んだのだ。
――生きている。
安堵のあまりその場に崩れ落ちそうになる足を叱咤して、アレクはふらりと親友に近付いた。
「……良かった。もう……駄目かと思ったんだ」
視界が歪み、溢れそうになる熱いものを堪えて震える声でそう言ってやると、「相変わらず、泣き虫だな」と彼は微苦笑した。
「相変わらずとはなんだ、相変わらずとは」
「お前、存外よく泣くんだぞ。なんだ、自覚がなかったのか」
掠れて囁くような声だったが、その軽口に本当に助かったのだとようやく実感したアレクは、友の傍らに膝をつく。
「……泣きもするだろう」
「……私が、そうしたくてしたことだ。気にしなくていい。まぁ、少々考えなしだったかもしれないが……後悔はしていないさ」
「そこは是非してくれ。こんなことでお前を……親友を失っては、俺は立ち直れる気がしない」
それはアレクの本音だった。
あの仕事は国のため、民のためではあったが、それがために友を失うことになってはとても立ち直れる気がしなかった。
「……お前のことだから、どうせまた面倒なことを考えて悩んでいるのだろうが」
当事者にしか理解できないよう慎重に言葉を選びながら、クレメンスは言った。
矢を受けて倒れた後のことも、クレメンスは朧気ながらに覚えていた。あの帝国人が笑い狂いながら言い放った言葉もだ。
恐らくだが、あの帝国人はアレクをアレクと認識して狙っていた。
四年の不在から戻ったアレクが、妙に帝国の事情に詳しくなっていたことと合わせて考えれば、この襲撃に何がしかの意図があったことはクレメンスにもある程度は察せられた。
それが分かるくらいには、アレクとともに過ごした時間は長かった。
しかし、それを口にすることはない。言えば気にするだろうし、人目が多い中で言うべきでもない。
あの帝国人にも、この件を知る誰かの手によって、遠からぬ未来に然るべき裁きが下されるだろう。
だから今は、己が伝えたい言葉だけを言えばいい。
「色々と考え過ぎるのはお前の悪い癖だ。優秀な同僚のお陰で私は死なずに済んだし、大事な友を護れて、そのうえその友は竜を斃した英雄になったんだ。私は満足だし、なんなら鼻も高い。だから後悔して落ち込むくらいなら、いい友を持ったと、むしろ誇ってくれ」
「……何も俺一人が斃したわけじゃない。皆の奮闘あってこそだ。たまたま俺が突き立てた剣が、とどめになっただけの話だ」
「そうだな。そうかもしれんが、最後の最後に力尽きて消沈した仲間を、雄弁を振るって鼓舞したというじゃないか。それに最後は竜から鱗を贈られたとも聞いたぞ。敵対した竜にも認められたお前が、英雄でなくて一体なんだ。胸を張れ。お前はもっと自分を誇っていい」
「……参ったな」
アレクは泣き笑いの表情を作った。
「色々言ってやるつもりだったのに、逆に元気付けられてしまった。だが……ありがとう、クレメンス。竜を斃せたのはお前が身体を張って俺を護ってくれたからだ。だからお前は英雄の英雄だな」
「英雄の英雄か。悪くないな」
はは、と小さく声を立てて笑ったクレメンスは、傷に響いた痛みで顔を顰めた。
「ついさっきまで瀕死状態だったんだから、あんまり喋り過ぎるんじゃないよ」
クレメンスの唇に人差し指を押し付けたナディアは、柳眉を逆立てて言った。
「――まったく、ほんとに……心配したんだよ」
その頬は乾き切らない涙でまだ湿り気を帯びている。
例え瀕死の傷を負おうとも、アレクを庇ったことに悔いはない。
だが、恋人を悲しませたことに関しては弁明のしようもなかった。
それでなくとも彼女には婚約者と死別した過去がある。運が悪ければ、彼女に二度目を経験させることにもなりかねなかった。そのことだけは疑いようもない事実なのだ。
「……すまなかった」
観念したクレメンスは、今度ばかりは素直に謝罪の言葉を口にした。
言葉もなく俯いたナディアの双眸から再び雫が落ち、それを指先で掬って、もう一度「本当に、すまなかったな」と囁いた。
「怪我を治したら、一緒になろう。花嫁衣裳も用意してあるんだ。お前、言っていただろう。王国の、伝統衣装を着たいって」
生成りの生地に雪菫の花を刺繍した、王国伝統の婚礼衣裳。
刺繍はまだしていない。ナディアが自ら刺繍を施したいだろうからと、まっさらな衣装だけを用意していた。
「クレム……あんた」
ナディアは花が綻ぶように微笑んだ。
いつもの妖艶な魔女の笑みではない、二十六年前の悲劇からずっと彼女の奥底に眠り続けていた少女の、純粋無垢な微笑みだ。
「そういうことなら、刺繍しながら待つことにするよ。あんたがすっかり治るのをさ」
一刺し一刺しに願いと祈りを込めて、その日を待とうと彼女は言った。
刺繍の名手でもある彼女が仕上げる雪菫の婚礼衣装。
それを纏う彼女はきっと美しいだろう。
「ああ。待っていてくれ。お前の花嫁姿……楽しみにしているよ」
負傷していない方の手を差し出したクレメンスは、ナディアの腰をそっと抱き寄せた。
そのまま項に手を伸ばして、己に引き寄せる。
「愛している」
「あたしもだよ」
重なり合う唇は甘く、優しく、ほんの少しだけ涙の味がした。
誰からともなく始めた拍手は、やがて歓声と口笛を伴う熱狂となった。
「……良かったね」
「ああ。本当に……良かった」
二人の友を見守るアレクの目が潤む。
「ほんとに……泣き虫なんだなぁ」
「悪いか」
目尻を乱暴に拭ったアレクは、シオリを抱き寄せてその唇を塞いだ。遠慮なく吸い上げ、悲鳴も、呼吸すらも奪うように深く貪り尽くす。
背後でさらなる歓声が上がった。
やがて解放したシオリの顔はすっかり上気して、目尻には涙さえ浮いていた。
「……これでお揃いだな」
「……もう!」
むくれてそっぽを向いても息が上がって上気した顔ではまるで意味がなく、むしろ扇情的ですらある。
軽く笑い声を立てたアレクは、もう一度その赤く熟れた唇を塞いでやった。
向こうでは「俺達も!」とルドガーがマレナに迫り、包帯姿の彼女に「張り合うものじゃないでしょ!」と拒絶されている。
その様子を眺めていたルリィは、「いつものノリで何よりだなぁ」とぷるるんと震え、ヴィオリッドも「お盛んねぇ」とばかりに「ヴォフッ」と吼える。
「顔を見に行ってあげてとは言ったけれど、はしゃいでいいとは言っていないわ! クレメンスも! 安静にしてちょうだい! そういうのは完治してから家でやって!!」
騒ぎを聞きつけたエレンが怒りの精霊もかくやという形相で天幕に飛び込んでくるまで、祝福の歓声と喧騒が止むことはなかった。
ギリィ「リア充はもげるなり爆発するなりすればいいと思いますね!( ゜皿 ゜)」




