26 氷蛇竜戦(6)あたたかな場所で、おやすみ良い子
「クレム……」
氷漬けにされてなお抵抗を続ける氷蛇竜を前に、ナディアは愛しい男の名を呼んだ。
初恋の人との永久の別離を経験して以来、ずっと喪に服し続けていたナディアに、新しい恋を教えてくれた男だった。
けれども、お互いに淡い想いを抱いていながら結局手を取り合うことができなかった。若さゆえにクレメンスはナディアの過去と身分を抱えきれず、ナディアは亡き婚約者の想い出をクレメンス越しに見ていた後ろめたさから自然消滅した仲だった。
あれから十数年の時を経てようやく想いを交わし合ったというのに、その男は今、生死の境を彷徨っている。
彼は必ず生還すると強がったが、その可能性は五分五分だろう。故国の内乱を経て多くの死を知ったナディアには、それが分かってしまった。
また喪うのかという恐怖にこの胸はひどく痛んだ。
だというのに頭は異様なほどに冷静で冴えている。
『人の心は忘れるな、ただ常に冷静であれ』
いずれ同盟国の王家に嫁ぐ身として受けさせられた教育は、二十六年を経てもまだ身に付いたままだ。それは、人が過酷な環境を生き延びるためには必要な心構えでもあったからだ。
故国と家族、身分という後ろ盾全てを失くした貴族の娘がどうにか生き延びることができたのも、この教えがあったからこそ。
だから、どれほどの恐怖と怒りを覚えようと、冷静さだけは失わない。
今すべきは、恋人に縋って泣くことでも、彼を射た男に復讐することでもない。
生還するという恋人の約束をただ一つの希望に変えて、目の前の竜を討ち取ることだけだ。
――溢れんばかりの魔力が、外套の裾を、耳飾りを、後れ毛を激しく揺らめかせる。
父は、末娘のこの魔力を王家に隠していた。
近隣諸国へ侵略戦争を仕掛けるために、幼い子供ですら徴兵の対象にしていた故国の王。
買収と裏切り、暗殺が横行する中、強引な徴兵に反発した良識派の貴族によって、多くの子供達とともに国外に逃されたあの頃のナディアは、国内最高水準とも言われた魔力を持っていてさえ無力だった。
王家を欺くために能力値を偽って申告されていた子供達は、戦い方を教えられていなかったのだ。特に魔法は使えば検知される。だから子供を護るためにはやむを得なかったのだろう。
だとしても、民衆を導く使命がある貴族として生まれたナディアにとって、ただ護られるばかりの存在でいることは、耐え難い屈辱だった。
父や兄と一緒に戦いたかった。
しかし、王家の私物と化した国を奪還するためのはずの反乱は、次第に戦いの目的を支配階級の排除へと変化させていった。ともに戦っていたはずの領民から裏切りに遭い、私刑に掛けられた貴族さえいた。
そんな、誰が敵で味方かも分からない中で貴族の箱入り娘ができることは、ほとんどなかった。
だからこそ父と兄は、姉とナディアを領民の子供達とともに国外に逃がす道を選んだのだ。国という枠を護るよりも、子供達の未来を護ろうとした。
――後に国は滅び、新たに建てられた国もまた、革命の英雄の独裁で危ういと聞く。
だがそのとき外に逃された民は、今でもこうして逞しく生きている。
遠いあの日に自らを犠牲にしてまで子供を、民を護ろうとしてくれた父達。
だが、ドルガスト帝国はどうだ。
滅びてなお人々を脅かし、あまつさえその未来を奪おうとしている。
こんな、哀れな怪物を蘇らせてまで。
「……もう、あいつらの思い通りになんてさせないよ。人生は自分のためのものなんだ。誰かの好き勝手になんてさせやしないさ」
膨大な魔力を持っていたのに、無知で無力だったあの頃の少女はもういない。
今ここにいるのは、力の使い方を知る魔女だ。
ちらりと流した視線の先に、その紫紺の瞳に激しい炎を揺らめかせて竜を見据えるアレクの姿を認めて、ナディアは小さく微笑む。
婚約者が生きていたなら、いずれは義弟になっていだろう男。
けれどもそんな日は終ぞ訪れず、代わりに彼は良き友となった。
この男もまた、己の戦い方を熟知している。逃げ出すしかなかった無力な少年の面影はない。
「さっさと終わらせるぞ! もう悲劇は沢山だ!」
「同感だよ!」
――外套のフードが飛び、髪留めが外れて結い上げた髪がばさりと落ちる。
「遊びの時間はもう終わり。いい子は寝る時間だよ!」
指先で膨れ上がった魔力が冷たく輝く無数の槍となって、いやいやをするように首を振り回している竜の頭上に降り注ぐ。
捲り上げられた鱗の隙間に氷槍が容赦なく突き刺さり、噴き上がる体液が竜の身体を濡らし、そこへ電撃が走って火花を上げ、竜は赤子のような金切り声を上げた。
咆哮に乗せられた竜の深い絶望と慟哭は、それを知るナディアの胸をじりじりと焼いた。
しかし、この哀れな竜に寄り添うべきは自分ではない。だから同情はしても容赦はしない。
絶え間なく降り注ぐ氷槍と雷撃はやがて雷を纏う巨大な氷の杭となって、轟音とともに竜の首に落下した。捲れあがった鱗を弾き飛ばし、首の肉を貫いて大地に繋ぎ止める。
この瞬間、ナディアの魔力が竜の魔力に打ち勝ったのだ。
「すげぇ!」
「やったぞ!」
「今だ、斬り落とせ!」
冒険者が、騎士が、止めを刺さんと剣を振り上げた、その直後。
「ヒュォオオオオオオオオオオン!」
眠りたくはないと駄々をこねる竜が絶叫した。
業火が渦を巻いて膨張し、自らを封じている氷の束縛を見る間に溶かしていく。
「なにっ……!?」
「まだそんな余力が……!」
「氷結魔法の重ね掛けを!」
しかしそれに応えられたのは半数以下。
魔力切れを幾度となく繰り返して蓄積した疲労が、彼らの精神力と集中力を奪っていた。ほんの僅かに放った魔法が気力の最後の一欠けらまでを奪い、もはや立つことさえ覚束ない。
潤沢に持ち込まれていたはずの魔力回復薬も残り少なく、これ以上長引かせては後続の増援が到着する前に全滅の危険すらあった。
「キュオオオォォォォォォォ――!」
膨らむ魔力、そして中空に浮かぶ巨大な火球が弾け、燃え盛る流星となって人々の頭上に降り注ぐ。
枯渇しかけた魔力で展開した魔法障壁では防ぎ切れず、爆音と悲鳴が戦場に溢れる。
「……マスター!」
「ザックの旦那!」
間近で上がった悲鳴に振り返れば、魔力切れで動けなくなった仲間を庇って立つザックの姿があった。
大剣で防ぎ切れなかった火球が彼の右腕を焼き、衣服が焼け落ちて火傷した肌を露出させている。
ぐらりと揺れた身体を大剣で支える彼は、肩で大きく息をしていた。
さしもの竜殺しも利き腕をこれほど大きく焼かれては、もう大剣を握れまい。
――これが、竜か。
魔獣の王。
全ての生命の頂点に立つのは人類ではなく、やはり竜なのか。
人々の胸を侵食し始めた闇が、少しずつ、けれども確実に戦意を削いでいく。
だが。
「諦めるな!」
アレクのよく通る声が戦場に響いた。
「我らが引けばトリスヴァル数十万の民が犠牲になる! だから決して諦めるな! 帝国の思惑通りになどしてはならない!」
血に塗れた栗毛の下の、紫紺色の瞳が戦場に立つ人々を順繰りに捉えていく。
「ほとんど魔力だけで戦っている竜は満身創痍だ! 攻撃の手を緩めるな! 勝機はこちらにある! 女神の御許に行くのは我らではない!」
――地味とも思える大地の色を好んで身に着け、まるで地に隠れて自らの存在を消そうとするかのように息を潜めて生きてきた男だった。
その彼が発した力強い言葉に、人々は希望を見た。
弟王が国を明るく照らす太陽であるならば、この男はきっと人々を見守り支える大地であるのだろう。
その面差しにオリヴィエル王の、そして遠いあの日に永遠の離別をした婚約者の面影を見て、一筋の涙を流したナディアは微笑んだ。
「……血は争えねぇな。ああいうところは、ほんとにそっくりだ」
無事だった左手で大剣を抱えたザックが、ナディアだけに聞こえる声でそう言った。
その言葉に主語はなく、ただその瞳にはどこか懐かしむような色を浮かべている。
強く苛烈で、それでいて繊細で優しい男。
人々を見守り支える、優しい大地。
アレクの発する言葉は戦場に立つ者達を勇気付け、再び立ち上がる気力を与えた。
数少ない栄養剤と魔力回復薬を呷って、剣戟を振るい、魔法を放って竜を追い詰めていく。
竜は吼えた。
己の生を捻じ曲げ昏く冷たい場所へ押し込んだ者どもを憎み、また孤独の淵へ追いやられようとしている己の身の上を嘆いて声を限りに啼いた。
――目も眩むような眩い閃光が晴天を切り裂き、嘆きの竜の頭上に落ちて蒼白い火花を散らせる。体表を伝う稲妻は蒼白に輝く竜の如くにうねり、傷口から侵入して体内を激しく焼いた。
悲鳴すらなく痙攣する竜の首元、竜を大地に縫い留めた氷の杭の根元に渾身の力で魔法剣を突き立てたアレクは、剣を起点として最大級の氷魔法を発動させた。
魔法剣を軸として成長する巨大な氷の剣は、首元の亀裂を押し開いていく。
亀裂は深さを増し、やがて関節を断ち切る音が響いた。
支えをなくした首が、ぱたりと大地に落ちる。
竜は、もう動かない。
一瞬の静寂。
「……終わった?」
「……やったのか?」
「勝った! 竜を斃したぞ!」
ぽつぽつと上がる声はやがて熱狂を伴う歓声となって、潮騒のように広がっていく。
その怒涛のように押し寄せる歓声をどこか遠くに聞きながら、血溜まりに沈みゆく竜の心は、先ほどまでの狂乱が嘘のようにひどく凪いでいた。
冷気を纏う体液を失いゆくこの身体は、百数十年もの間苛まれ続けていた凍えるような寒さから解放されようとしている。
やがて訪れるであろうそのときを静かに待つ竜を、風と炎、二つの魔法から生じた温かく柔らかな風が、優しく抱擁するかのように包み込んでいく。
それはまるで、春風のようだと竜は思った。
竜は、春というものを一度も経験したことがない。
だが、春風とはきっとこういうもののことをいうのだろう。
霞む目をどうにか上げた竜は、その春風の中心にいる人間の女を見た。
風を紡ぐ黒髪の女の瞳には、痛みにも似た光が揺れていた。
その傍らに佇む男が、「辛かったな」と呟く。
男はその言葉を竜に聞かせるつもりはなかったのだろう。それほどまでに小さな、独り言のような呟きだったが、それは歓声が溢れる中にあっても不思議と目立って聞こえた。
――恐らくそれは竜にとって、これまでの生涯においてただの一度さえも掛けられることのなかった優しい言葉だったからだろう。
痛みに寄り添うような眼差し、労わるような響きの言葉。
それらはとてもささやかなもので、けれども竜がどれほど望もうとも、決して与えられなかったものだった。
それを与えてくれた人間の男女に、終ぞ会うことのなかった両親の幻を見る。
寄り添い、温かく包み込み、優しい言葉を掛けて、そして慈しんでくれる父と母。
そんな両親に優しく見守られながら、陽光降り注ぐ大地を駆け回って遊びたかった。
その胸に抱かれて、何を憂うこともなく安らかに眠りたかった。
それは、この世に実験体として生まれ落ちた瞬間から孤独だった竜が希った、穏やかで優しい世界の夢だ。
「……そっか。貴方は」
魔力伝いに竜の心を感じ取った女は言った。
「……まだ、ほんの小さな子供だったんだね」
幼獣のうちに氷湖に封じられ、眠り続けたまま身体だけが成熟した竜。
肉体は成獣であろうと、その内面は何一つ満たされないまま孤独の淵に沈むことを強要された、哀れな子供だ。
女は竜の顔に自らの頬を寄せた。
我が子にするような愛おしげな頬擦り。
その手は幼子を寝かしつけるようにゆっくりと上下する。
もう一つ、それよりも一回り大きな手が触れて、同じように撫でてくれた。
夢にまで見た温もりと安らぎ。
それが今、己の目の前にある。
これまでずっと、絶望と孤独に塗れた闇の中で最期を迎えるのだと思っていた。
だから、こんな温かなものに見守られて旅立てるのであれば、これ以上の幸せはない。
もう鳴き声一つ発することのできない竜は、最期の力を振り絞って顎下の鱗、最後まで生え変わらずに残っていた幼竜の鱗を剥ぎ落した。
成獣となった竜が巣立つときに、両親に贈る親子の証。
いずれ命尽きて輪廻の流れにのったそのときには、再び両親のもとへと還れるようにという願いを込めたその鱗を、竜はほとんど無意識に二人へと差し出した。
「……くれるの?」
――どうか、受け取って。
もしいつか再びこの世に生を受けたなら、そのときはこの二人のような温かなもののところにという願いを込めた、それ。
「……ありがとう。大事にするよ」
その言葉を聞いた竜は静かに目を閉じ、そして「おやすみ」という優しい言葉を最期の想い出にして、穏やかな眠りに身を委ねた。
――あれほど冷たかった闇は今は優しく、柔らかに竜を包み込んでいる。
「……今度こそ、良い夢を」
その鱗を胸に抱いて旅立ちを見届けた二人に、ルリィとヴィオリッドが静かに寄り添う。
いつの間にか勝利を喜ぶ声は止んでいた。
旅立ちの――巣立ちの儀式を見守っていた人々は、それぞれのやり方でかつての敵に祈りを捧げた。
どうか、次こそは穏やかな生であるように。
そしてもう二度と、哀しい命が生まれないようにと願いを込めて、人々は祈る。
抜けるように青く高い空を、小さな光が舞って、消えていった。
↓↓↓ワンクッション置いていつもの(余韻台なしな)後書き
陽キャ竜「残念死は!?!? ラスボスに相応しいアホみたいに不憫な残念死は!?!?」
ルリィ「陽キャ竜ルートに入らないと残念死フラグ立たないってー」
残念魔獣、名無しの幻獣氏暫定一位より動かず!!!




